10. 真実の誓い(sideリオネル)
―――騎士様。
――――――どうか。どうかご無事で。
三年前の冬、降り積もった雪の上に足跡すら残さず消えた白い髪の少女の言葉は、リオネルの魂に刺さり抜けない棘となった。
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三年にわたる戦争が終結し国中が華々しい勝利に酔いしれたが、戦勝の立役者としてリオネルに向けられる称賛、祝福の声、授けられる栄誉はすべて、本来は別の人間が受け取るべきものであることを、リオネルだけは理解していた。
あらゆる集まりから声がかかり、縁談の釣り書が降るように積み重なるが、そんなものは何の意味もなさない。
リオネルが望むものは、三年前に見失ってしまったままだからだ。
戦勝祝賀会の夜、リオネルは何重にも人垣に囲まれ、上辺だけの過剰な賛辞を並べどうにかリオネルやリオネルの生家と縁を繋ごうと躍起になる者たちの相手に辟易していた。
あまりに退屈で話を聞いているふりで目を逸らしたとき、人垣の隙間の向こう側を、なにかがふらりと横切るのが見えた。
何も考えず一度視線を外したあと何かが引っ掛かり、もう一度そちらへ顔を向けたが、特に気を引くようなものは見当たらない。
ない、はずだった。
リオネルの口元から、ふつりと作り笑いが消える。
(馬鹿な。何かの見間違いだ)
頭の中で理性の唱える声が聞こえたが、気づけばリオネルの身体は本能に従い勝手に動き出していた。
人垣を割り、歩調を速めながらホールの出口へ向かう。
すれ違いざまに声をかけ、引き留めようとしてくる人間たちがひどく煩わしかった。抗いがたい衝動に駆られ、リオネルは前へ進み続ける。
建物から出たところで、庭先に立ち尽くし星空を見上げている人影を目にして、リオネルの身体には雷に撃たれたような衝撃が走った。
全力で駆け寄るのと、白い髪の女性が崩れ落ちるのは同時だった。
地面に倒れ伏す前にどうにか抱き留めたが、すでに腕の中の女性の意識はない。
誰かに殴られたのか、片頬が腫れ、口元は血で汚れていた。
場末の娼婦のような際どいデザインのドレスと、厚く塗られた道化のような化粧。宝飾品はなにひとつ身に着けていない。
似つかわしくない残酷な装いに包まれた身体はリオネルが恐怖を覚えるほど軽く、青白い肌に鎖骨が浮き出ており、コルセットで閉められた腰は人ではあり得ないほど細い。
(なぜこんな………っ)
細い喉から弱々しい喘鳴が漏れ、一刻を争う状態なのは明らかだ。
三年の間求めていた存在が今確かに腕の中にあるのに、今にも失われてしまいそうな惨状に愕然とする。
つい先ほどまで立っていたのが信じられない。
リオネルは急いで身に着けていたマントを外し、彼女の身形が人目を引かぬように包み込み抱き上げる。
「衛兵! ランバート侯爵家の馬車を呼んでくれ! 至急だ!」
戦場にあって場を支配したリオネルの怒号が夜の庭園に響いた。
何事かと騒めき集まりだした者たちを無視して御者に指示を出し、振動が弱った身体に障らないよう彼女を抱いたまま慎重に馬車に乗り込んだ。
屋敷へ到着してすぐ治療にあたらせたが、診察を終えた医師は難しい顔で「非常に危険な状態です」と述べて状況を説明したあと、急ぎ追加の薬の調合に戻っていった。
慢性的な栄養失調による衰弱が非常に深刻であったことに加えて、なんらかの感染症にもかかっていた。おそらく一般的な風邪だと思われたが、それでも体力のない者にとっては時に致命的となり得る。
おまけに悪意によって過剰に締められたコルセットと祝賀会で受けた暴力によって胸部の骨を損傷しており、危険なほどの高熱を出し、数日経ってもいっこうに意識が戻る気配がなかった。
少し熱が下がったかと思えば、彼女自身の生への執着の薄さを示すように、繰り返し死の淵に足をかける。 そのたびに、リオネルは心臓を握りつぶされるような気分を味わい、己の無力を嫌というほど思い知った。
痩せ細った手を握り、ただ「生きてくれ」と一心に願い続ける日々。
眠れぬ夜を幾度も過ごし、ようやく医師が「危機は脱した」と宣言したときには、祝賀会からすでに半月が経っていた。
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リオネルは目の前に置かれた調書に記された名前を、確かめるように指でなぞった。
(『フィオナ・スタニエ』。これが、彼女の名前………)
祝賀会の日にフィオナの身の上におこったことについては、それなりの目撃証言が取れた。
それをもとに詳細に調べ上げたフィオナの身上調査書が、今リオネルの手元にある。
出会ったときから、雪の降る季節にも関わらず、薄手のドレスばかり着ていた。
特徴的な白い髪もリオネルの目には美しく映ったが、年頃の娘として十分な手入れがされているとは言い難かった。
しかし、ドレスは着古されたものとはいえ平民が着るデザインではなかったし、言葉遣いや仕草にも育ちの良さを匂わせるものがあった。
だからリオネルは、フィオナのことを没落した下級貴族の令嬢か、もとは裕福だったが事業に失敗し資産を失った商人の娘かもしれないと勝手な推測をしていた。
(………まさか、伯爵家の令嬢だったとは………)
伯爵家の長子として生を受けながら、髪や瞳の色を理由に両親から見放され、両親の死後に爵位を受け継いだ叔父夫妻にも冷遇されたという。
使用人たちにすら軽んじられ、誰ひとり彼女の味方にはならなかった。
直接的な暴力はなくとも、薄暗い部屋に押し込められ、食事も満足に与えられないのでは牢に投獄されている囚人と変わらない。
結婚可能な年齢となり資金を引っ張れそうな男爵家の息子と婚約を結ばせたまでは叔父の目論見通りだったが、フィオナのやつれた容姿に食指が動かなかった男爵令息は二年の間彼女を放置した挙句、祝賀会の日に一方的に婚約を破棄した。
それに腹を立てた叔父がフィオナを見限り、家門から追放したというのが事の顛末だった。
怒りのあまり、リオネルの全身の毛が逆立つ。
握り締めた拳が感情の捌け口を求めて机へ振り下ろされた。
(クズどもめ………!)
三年前に手を伸ばしていれば、彼女が死の淵に立つことにならなかったかもしれない。
己の愚鈍さに苛立ちがつのった。
罪を告白するように「なにかを守りたいと思ったことがない」と哀しげに話した姿が、今も目に焼き付いている。
しかし彼女は愛を持たない人では決してなかった。
誰よりも、リオネルがそれを知っている。
こんな風に扱われていいはずがない。
「君は、幸せになるべき人だ。他の誰よりも」
リオネルは立ち上がり、再びフィオナを見舞うために急ぎ部屋を出た。
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フィオナはまだ一日の大半を微睡の中で過ごしているが、ゆっくりと回復に向かっていた。
少し容態が安定したところで、リオネルはフィオナと話をする時間を設けた。
「………俺を、覚えているな」
以前、高熱の波間にうっすらとフィオナの意識が戻ったとき、話せずとも表情などで彼女は確かにリオネルのことを忘れていないとわかっていた。
それでも緊張からやや硬い声で尋ねると、フィオナは眠気の醒めない灰色の瞳でじっとリオネルを見つめたあと、静かに頷いた。
「俺の名は、リオネル・ランバートという。すでに聞いているかもしれないが、ここはランバート侯爵家のタウンハウスで、俺の家だ。まあ俺は次男だから継ぐのは兄だがな。祝賀会の夜に君は体調を崩して意識を失い、俺が君をここへ運び込んだ。君はひどく衰弱していたから、回復にずいぶん時間がかかったんだ。でももう心配はいらない」
まだ病み上がりで集中力のない彼女にどこまで伝わるかわからない。
しかし目覚めて突然、見慣れぬ場所で見知らぬ人々に囲まれていることは不安が大きいはずだ。
フィオナは少し間をおいて、再びこくりと頷いた。
そして右手を持ち上げリオネルの方へ差し出した。
「どうした? 苦しいのか?」
あわててフィオナの手を取ったが、リオネルの手の中でフィオナの細い指が動かされていることに気づき、手のひらを開く。
フィオナはリオネルの手のひらに拙い動きで何かを綴った。それが文字であることに気づく。
「『リオ……ネル』?」
記された文字を読み上げると、彼女はこくりと頷いた。
ちゃんと話の内容を飲み込めたという意思表示だろう。
そして再び細い指がリオネルの分厚い手のひらの上で動く。
「………『フィオナ』」
リオネルの口から漏れた言葉で、記した文字が正しく伝わったことを理解し、フィオナは美しい灰色の瞳を細める。
しかしそこで気力が尽きたようで再び瞼が閉じ、眠りに落ちていった。
リオネルは自分の掌とフィオナの顔を見比べるように視線を動かし、呟く。
「ああ…ようやく…………」
授けられた名を仕舞い込むように拳を握り込み胸に押しあてる。
三年の間待ち望んでいた瞬間が深く魂に刻まれ、今初めて命を得たように鼓動が力強く打ち鳴らされた。
「今はゆっくり休んでくれ。これからは俺が君を守る」
静かな部屋でひっそりと告げられたその言葉は、捧げられた本人でさえ聞くことはなかったが、唯一の主に捧げられる騎士の誓いそのものの強い決意を帯びていた。