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1.初雪

新連載です。

よろしくお願いします。

 ひやりとした冷たさが頬に触れて、風を切る翼を少し緩めた。

 天を仰ぎ、薄い手のひらを宙に差し出す。


 手の届かぬ高みから密やかに降りてきた白い結晶は、フィオナの手の中に少しだけ留まり、やがてゆっくりと溶けていった。


(雪………どうりで冷えるはずね)


 眼下に広がる街並みに、音もなく冬の気配が満ちてゆく。

 手に残った雫を払って再び翼を羽ばたかせると、灰色に塗りつぶされた空の中で着古したドレスの裾がふわりと弧を描いた。



 しだいに見えてきた『大翼の女神像』はいつもと変わらず慈しみ深い微笑みを浮かべ、今年初めての雪をを歓迎するように両の腕を高く差し伸べている。

 女神像が建つその場所は人々が行き交う大通りよりも小高い位置にあり、一見すると、ただ隙間なく樹々が生い茂っているばかりに見える。しかし内へ入ってみれば意外に開けた空間があり、街の様子がよく見えるのだ。


 歩いて辿り着くには、小高い丘を登り伸び放題の樹木に覆い隠された薄暗い道を注意深く通り抜けなければならず、今となっては周辺に居を構える人々からさえすっかり忘れ去られている。


 その場所を、フィオナは密かに『聖域』と呼んでいた。

 他の者が聞けば、大層な呼び名に相応しくない、ただの寂れた空き地だと笑うだろう。

 それでも。


 聖域は、いつも静かだった。

 蔑みの視線も、耳障りな嘲笑も。

 煩わしいものはなにひとつ届かない。


 だからこそ、そこはフィオナだけの『聖域』に違いなかった。



 いつものように女神像の側へ降り立つと、背の翼は大気に溶けるように消え、代わりにずんぐりとしたフォルムの白い鳥が忽然と姿を現す。

 白い鳥―――アルタリエは、フィオナの頭の上にドスンと身体を落ち着かせると、尊大な様子で嘴を開いた。


《おい、めずらしく先客がいるようだぞ?》

「先客?」


 フィオナしか聞き取ることができない不可思議な声で喋る(アルタリエ)の羽先が指し示したのは、三対の翼を持つ女神像の側にぽつんと置かれている簡素なベンチだった。


 普段ならばフィオナ以外に座る者もいないのに、今日はどういうわけか見知らぬ青年が長い手足を座面からはみ出させ、ぐったりと横たわっている。

 見慣れぬ光景に、フィオナは雪雲のような灰色の瞳をぱちぱちと瞬かせた。


 通って数年になるが、聖域(ここ)で他の人間を見るのは初めてのことだ。

 思いがけない闖入者の存在に身を強張らせたが、じっと息を詰めて見ていてもベンチで横たわっている人物はピクリとも動かない。


 一瞬、死んでいるのではという考えが過ったが、すぐにその人物がちゃんと呼吸していることに気づき、ほっと息をつく。

 しかしただ眠っているだけだとしても、雪も降り始め、次第に寒さが増している。丈夫な人間でも体調を崩しかねない。


(どうしてこんなところで……もしかして………具合が悪い、とか?)


 普段であれば、フィオナは不用意に他人に近づくことはしない。

 しかし他の場所ならともかく、聖域(ここ)へ別の誰かが現れ彼を助けるなど、たとえ数時間待ったとしても期待できないだろう。


 逡巡ののち、顔を上げてベンチへ足を向けた。

 気づかれることのないように、足音を忍ばせ慎重に近づく。そして手を伸ばせば触れることができるまでの距離になって初めて、フィオナはあることに気づいた。


「………お酒の、におい?」


 無意識に鼻に手をあてながら呟くと、アルタリエはクカカと小馬鹿にするように喉を鳴らした。


《この寒空にこのような人気(ひとけ)のない場所で酔って眠りこけるなど、よほど死にたいのであろう。望み通り死なせてやればよい》

「アルったら………意地悪ね」


 辛辣なアルタリエを小声でたしなめ、ゆっくりとその場にしゃがみ込む。 

 息遣いを感じられるほどの距離に近づいても、彼は目を覚ますどころか、身じろぎひとつしない。よほど深く眠り込んでいるのだろう。

 フィオナはやや警戒心を解き、いっこうに起きる様子のない青年の顔をじっと覗き込んだ。


 歳は二十代半ばくらいだろうか。

 形のよい額、しっかり通った鼻筋。輪郭の引き締まった精悍な顔立ちをしていた。

 よく鍛えられた身体はがっしりと逞しく、長い脚は所在なさげに座面からはみ出しており、小さなベンチに収まる姿はいかにも窮屈そうだ。

 上質な生地でできた落ち着いた色味の礼装を身に纏い、髪も整髪料を使って後ろへ撫でつけられている。

 祝い事があってそのために酒を飲み過ぎたであろうことは、容易に想像がついた。

 同時に、ここからそれほど遠くない場所に、ステンドグラスが美しい大きな教会があったことを思い出す。


(でも、花婿さん………という服装じゃなさそう。親族か参列者かな)


 せっかく綺麗に整えてあったのに、寝転がったせいで少し乱れてしまっている青年の髪に目をとめると、フィオナは眩しいものを見るように目を眇めた。


(温かそうな色………)


 目の覚めるような、鮮やかな緋色だった。

 少し癖のある赤い髪は燃え踊り熱を放つ焚火(たきび)のようで、視線が引き寄せられ逸らすことができない。

 しんしんと降る雪の欠片が青年の髪に落ちると、炎に触れて溶かされたようにたちまち消えていく。酒を飲んだために体温が高くなっているだけなのかもしれないが、彼の放つ熱は力強く美しいものに感じられた。


(わたしとは、ぜんぜん違う)


 フィオナは自分の白い髪を、細い指で梳いた。雪で水分を含んだ髪が、手の中で軋む。

 頭の上に乗っているアルタリエの白い羽色と同化して見えるほどの真白い髪、そして薄汚れた灰色の瞳。

 それがフィオナの生まれ持った色だった。


 身に纏う色すべてが寒々しい上に、人形のような造りの(おもて)に浮かぶ表情は凍りついて動かず、痩せ細って軽い身体で足音なく歩く姿は「亡霊のようだ」と周囲から厭われている。

 この青年のような美しい髪色であれば何かが違っただろうかと考えかけたが、無意味な夢想を頭を振って打ち消し、再び青年へ目を向けた。


 酒精(アルコール)で身体がつらいのか、それとも元々そのような面立ちなのか、眉間に太い眉を寄せた表情は大層厳しく見える。しかし彼の固く閉じられた瞼の奥を想像すると、そこにも温かな色が宿っているに違いないという気がした。


「酔ったせいで、こんな人の来ない場所へ迷い込んでしまったのね。このままだと誰にも見つからずに、本当に凍え死んでしまうかもしれないわ」


 自分とアルタリエに言い聞かせるように小声で呟き、フィオナはおもむろに青年へ向けて手を伸ばす。


《ほう……珍しいことを。どのような風の吹き回しだ? この間抜けな人間は、過分な幸運を引き当てたらしいな》


 アルタリエはフィオナのしようとしていることに気づき、皮肉たっぷりに(さえず)ったが、フィオナの行動を止めはしなかった。


(もう少しだけ、目を覚まさないで)


 青年の露になっている額に、そろえた指先だけでそっと触れる。

 彼の肌の熱さと自分の指の冷たさに驚き、フィオナの身体が一瞬ビクリと揺れたが、気づかれなかったことに安堵すると、集中し静かに『癒しの力』を注ぎ始めた。


 癒すとは言っても小さな怪我や不調を治す程度がせいぜいで、皮肉なことに自分自身に対しては効力がない、ささやかな能力だ。

 これまで傷ついた野生の小動物を癒すことはあっても、人間を相手に使ったことはなかった。


(ただの、気まぐれよ。弱った小鳥を治すのとなにも変わらないわ)


 さほど時間をかけず治癒を終えて手を離すと、わずかにフィオナの指に移った熱が冬の外気にさらりと攫われる。すぐにいつもと変わらない温度になった自分の手を不思議な気持ちで見つめてから、再び視線を戻す。

 彼の表情から険しさが抜け眉間が緩むのを確かめ、フィオナは満足した。


 じきに彼は何事もなく目を覚ますはずだ。

 これ以上ここに留まるべきではない。無防備な状態で目覚めたときに、フィオナのような得体の知れない者が側にいることを快く思う人はいないだろうから。


 今すぐ立ち上がって、ここを立ち去らなければ。

 そう思うのに、雪の舞う空を見上げた瞬間小さく身体が震え、なぜか感じたことのない躊躇いが生まれた。


 そのわずかな逡巡の間に、するりと横から伸ばされた手がフィオナの目元に触れる。


「…泣、く……な………」


(え………?)


 青年は、いつの間にかうっすらと目を開けていた。

 熱を帯びた大きな掌が、流れてもいない涙を拭おうとするように不器用にフィオナの輪郭を撫でる。

 突然のことにフィオナは身体を硬直させ、灰色の眼を真ん丸にして青年を見返すことしかできない。


 しかしよく見れば彼の目の焦点は合っておらず、とろりとした眼差しはまだ夢から覚め切っていないことを示していた。


(いけない)


 フィオナは我に返ると急いで青年の手の届かない位置まで後退り、頭上を陣取っている白い鳥の名を小さく呼んだ。


「アル」


 瞬く間にフィオナの背に白く輝く翼が現れ、細い足ですばやく大地を踏み切ると高く空へ舞い上がった。

 翼を何度も打ちつけ、降る雪に逆らうようにぐんぐんと地上から遠ざかる。

 十分な距離を取ってから眼下を伺うと、身体を起こした青年がしきりにあたりを見回している様子が見えた。


 当然青年の周りには誰もいないが、たとえ彼が空を見上げたとしてもフィオナの姿を捉えることは不可能だっただろう。

 アルタリエの力を借りて空を翔るフィオナは、神秘の力によって常人の目には映らないのだから。


「………寝ぼけたのだと思うだけ……よね?」

《さあな。顔を見せ、あの間抜けに盛大に恩を売ってやればよかったではないか》

「恩だなんて……ただ酔いを醒ましただけよ。もう顔を合わせることもないだろうし。それにあのひとだって………わたしを見れば、きっと嫌な思いをして顔を顰めるでしょう」

()()のようにか?》

「………」


 アルタリエの揶揄するような言葉には答えず、灰色の空の下を滑るように飛び、青年を残した場所から遠ざかった。


 少し強くなった雪が、フィオナの髪やドレスを冷たく彩る。

 空腹も、痺れを感じるほどの寒さも、すでに身に馴染んだものだ。

 しかし、フィオナはなにかを確かめるように自分の目元に触れる。


『泣くな』


 温かく深みのある、オリーブグリーンの瞳だった。

 見知らぬ青年の目には、フィオナが誰からも向けられたことがない感情が浮かんでいた。


(……誰かと、見間違えたのかな………)


 フィオナは、泣いてなどいなかったのに。

 彼が慕わしく想う誰かに向けたのであろう、労わるような、慈しむような眼差しを思い出し、どうしてか少し胸が苦しかった。


 一瞬だけ触れられた頬にはもう、わずかな熱さえも残っていない。

 フィオナは諦めたように冷えた頬から指を離し、寒々とした帰路についた。



あけましておめでとうございます。

2025年が皆様にとって素晴らしい年となりますように。


次話は、明日の夜投稿予定です。

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