猛獣皇子は純情で天然で拗らせている
収拾の付かない盛り上がりを見せる兵舎から脱出したギルベルトは、気力を振り絞って自室へと向かった。
とにかく、今後についてよく考えなければ。
頭から浴びた酒の匂いに当てられて足取りが重くなる。が、ふと足が止まった。
音がした。女の悲鳴と、何かの破砕音。音の出所は――イリスの部屋だ。
思い至った瞬間、足が勝手に動き出していた。
最上階の南端。駆けつけてみて、まず目に飛び込んできた部屋の内装に驚く。
「なんだ、これは」
ごちゃごちゃと調度品が多い。リボンとフリルが溢れかえっている。
ここはもともと物置のように使っていた部屋だった。それを、イリスを迎えるにあたり改装したわけだが、ちょうどその時に遊びにきていた妹が「殺風景! ありえない!」と騒ぐものだから任せてしまった。その結果がこれらしい。
女が好むものはさっぱりわからないから、これでいいのかどうかも判断できないが、少なくともギルベルトはこのようなごちゃついた部屋など落ち着かないと思った。
いや、しかし今はそれよりも。
イリスが、下着姿で、こちらを見ている。
とっさに視線をそらした。でもその一瞬で見たものは忘れられそうにない。膝丈の短い裾から露わになった細い脚。――その脚が、わずかに赤く腫れていた。
床には陶製の破片が散らばっている。これが当たって怪我をしたということか。今はまだ大したことがないように見えるが、何もせず放って置いたら腫れ上がって痣になるかもしれない。
若い侍女が何か言っているが、いまいち判然としなかった。するとイリスがギルベルトの眼前に立ち、じっと見上げてくる。
「わたくしの不注意です、殿下。まことに申し訳ございません。責は負う覚悟にございます」
「どうでもいい」
あんまり近寄らないで欲しい。直視できない。目を細めて視界をぼやかす。
もとは何だったのかもわからない陶器なんてどうでもいい。それよりも、今彼女に必要なのは適切な治療だ。
物音を聞きつけてやってきた侍女頭と入れ替わりに、ギルベルトはその場を離れた。向かうのは、先ほどまでいた兵舎だ。
まだどんちゃん騒ぎをしているのが外まで聞こえる。この中に再び入っていくのはかなり億劫だったが、幸いにもその男はちょうど自室へ戻るつもりだったのか、屋外へ出てきたところだった。
「お? 殿下、どうしたんだ? 忘れ物でもしたんですかい?」
「打撲に効く薬を用意してもらいたい。悪いが、今すぐ頼めないか」
ギルベルトに気づいたフェリックスはそう求められて怪訝そうな顔をした。それから一瞬、虚空を仰ぎ見、真剣な顔つきで諭すように言う。
「初夜からそんなに激しくしたんじゃ、嫁さんの身が持ちませんぜ?」
「違う」
妙な疑いをかけられ苛つきを露わにする。フェリックスは肩を震わせ笑い出した。
「冗談ですって。――打撲なら湿布ですかねぇ。野郎共に使ってるいつもの薬は、ちと臭いがキツくていけねぇや。ご婦人用に調合するんで待っててくれますかい?」
「あぁ、頼む」
言いながらフェリックスは別棟に足を向け歩き出す。病気や怪我をした兵士のための療養施設である。軍医である彼の部屋もそこにあった。
彼についていきながら、ギルベルトはふと気がつく。
「なぜ、彼女の薬だと?」
「そりゃわかるっしょ。もし殿下ご自身のための薬なら、わざわざこんな騒ぎの中に戻ってくるわきゃない。それに、目は口ほどになんとやら、ってね。殿下は存外、雄弁ですぜ」
調合室の前で待たされる。扱いの難しい薬も多数保管されているため、ここは部屋の主以外、立ち入り禁止だ。
いくらほど待ったか。部屋の中から「よぉっし」と声が上がり、フェリックスが顔を出す。
「そら、持っていきな。臭いを抑えるために効力は控え目になっちまったが、包帯に治癒の魔道文様を入れておきましたぜ。こいつを巻いてやれば一晩で治りまさぁ」
「すまない。経費はこちらで持つ」
魔道文様を入れるための包帯は特殊な素材で出来ていると聞いたことがある。だから普段、軽症程度には決して使わない。香りの良い薬草も高直なはずだ。
「へへっ、たのんます。ついでに良い酒も」
「わかった」
湿布と包帯を受け取り、足早にイリスの部屋へと戻る。その道すがら、フェリックスに言われたことが気に掛かっていた。
ギルベルトの目は雄弁だと、彼は言った。
それは非常にまずい気がする。彼女の前で緩んだ顔をしてしまったら気味悪がられるに違いない。
そんなのは嫌だ。嫌われたくない。
イリスの部屋の前に立ち、くわっと顔に力を入れる。何度も深呼吸もした。夜分に女性の部屋の前で、目を見開いてすぅはぁと荒い息をする様は傍から見れば不審者極まりないが、ギルベルトは至って真面目であるためまったく気づいていない。
部屋の扉を叩いてみる。しかし返事はない。もう一度叩く。反応なし。
少し迷いはあったが、静かに扉を開けてみた。薄明かりがついたままの部屋で、寝台に横たわったイリスはすぅすぅと寝息を立てている。
幸い、先ほどとは違いきちんと服を着ていた。薄い夜着ではあるが服は服だ。問題ない。
それにしても。
真っ白なシーツの上にたっぷりと広がる菖蒲色の髪のなんと見事なことか。伏せた瞼を縁取る長い睫毛さえも同じ色をしている。薄く開いた唇は朝露に濡れた桜桃の実のように瑞々しく赤い。これに囓りついたらきっと甘いぞと本能が囁きかけてくる。さっき頭から浴びた酒のせいだろうか。
果実を枝からぷつんともぐように、それはきっと一瞬だ。自分にはその権利があるのだ。何も問題はないはずだ。
でも、それはしたくない。
いざその時には彼女に笑っていてほしいと思う。今は閉じた瞼の向こうにある瞳で見つめていてほしいと思う。
彼女に求められて、掻き抱きたいのだ。
持って来た湿布と包帯を寝台の上に拡げる。きっと疲れているのだろうし、起こしてしまうのは申し訳ない。とにかく手早く済ませることだ。そして一刻も早く出て行く。
夜着の裾から脚は見えていた。やはり、時間が経って腫れは拡がり、青い痣になりかけている。
患部に湿布を当てた。そのとたん、もぞりとイリスが身じろぎする。
「ぁ……んん……」
悩ましげな声が脳天を貫く。先ほどの決意が揺らぎそうだ。とっさに、これは鍛錬であると思い込むことにする。素振りと同じだ。藁を巻いた木に拳を叩き込むのと同じだ。やるべきことに集中するのみ。
するすると包帯を巻いていく。しかし焦りがでたのか、手元がおぼつかなくなる。
その時。
「はっ!?」
息を飲む声がした。顔を上げてみると、翡翠色の瞳と視線がぶつかる。驚愕するその表情に、心臓が止まるかと思った。
「ノ、ノックくらい……!」
「した。あんたが気づかなかっただけだ」
事実を述べる。他意はないのだ。本当だ。ちょっと揺らぎそうになったけど。頑張って耐えたのだ。わかってほしい。
しかしイリスは仰向けのまま這いずって逃げようとした。もう少しだけ待ってほしい。あとは結ぶだけだから。
「動くな」
逃げる足首をつい掴んでしまった。すぐに手を離したが、イリスはそれ以上逃げようとしない。わかってくれたらしい。
動かれたことで解きかけた包帯を結び直す。これで完了だ。ほっと一息吐く。
イリスの様子を窺ってみると、彼女は再び目を閉じていた。眠ってしまったようだ。だったら、このまま静かに退散すべきだろう。
そぉっと寝台を離れ、部屋を出る。よかった。無事に終わった。これで彼女は明日、痛みを抱えることなく歩けるはずだ。
重要任務をこなしたような心持ちで自室へと足を向けた。が、歩きながら少しずつ冷静になってきて、客観的に見てかなりまずいことをしたのではないかという気がしてきた。
いや、かなりではない。だいぶまずい。でも今さらやったことは取り消せない。
自室へ戻るのを取りやめて湯殿へ向かう。酒だ。頭から被った酒のせいで正常な判断ができなかったのだ。すべて洗い流してしまわなければ。今さらもう遅い気はするけれど。
湯を浴びて酒の匂いは消えたが後悔は消えなかった。本当にもうどうしよう。
気を落ち着けようと、自然に庭へと気持ちが向く。イリスに焦がれていた心を慰めてくれた、花の庭。
その香りを最も強く感じることができる獣の姿へと変化する。庭の最奥には池と東屋があり、ギルベルトは手負いの狼同然のしょぼくれた姿ですごすごとその中へ身を隠した。
せめてイリスが、眠っているうちにすべて夢だったと思ってくれますように。
そんな都合の良いことを願いながら。