恋を自覚した瞬間からもう限界
あれよあれよという間に日は過ぎていき、迎えた結婚式当日。
王都の寺院に現れた彼女を目にして、身体の芯が震えるのを感じた。
生来、人と話すのが得意ではない性分だ。花嫁にかけるべき適切な言葉などわからない。ギルベルトがまともに会話をする相手など限られた者しかおらず、それすらも簡単な受け答えで済ませてしまうため、いわゆる語彙力というものが乏しかった。
さらに悪いことに、その事実に対してあまり自覚的ではない。従兄のカイや実兄である皇太子の察する能力が高いために、言葉足らずを改善することなく生きてこられてしまったのだ。
そして今、大問題に直面する。
ギルベルトの手によって面紗を取られた花嫁。焦がれた人がそこにいた。
翡翠色の眼差しが、じっとギルベルトを見上げる。そして形の良い唇が、にこりと控えめに微笑んだ。
その瞬間。
まるで天啓のように、霹靂のように、悟る。これが恋というものなのだと。そしてこの恋はあの日から始まっていたのだと。
もう、わけがわからなくなる。頭の中が真っ白だ。今までは、ただ会って礼が言いたいと思っていただけ。そのつもりだった。ずっと抱え続けたこの想いは、もっと神聖な感情だと思っていたのに。
眩暈を覚えるほどの衝撃に、たまらず顔をしかめた。伝えたかった感謝の言葉も何もかも吹き飛んだ。笑顔が眩しすぎて直視できない。
そういえばさっき誓いの言葉を噛んでいた。もしかして意外とおっちょこちょいなのか。なんだそれ可愛い。好きでしかない。
怒濤のように溢れ出る感情を処理できないまま、気がついたら儀式はすべて終わっていた。
クヴェレ城までの道程を、彼女は馬車に、ギルベルトは愛馬に乗って向かった。命拾いした。もし馬車のような狭い空間に何時間も一緒に閉じ込められたら正気を保てる自信がない。
これがたとえばカイなら自分の感情を自由自在に言葉で表現し、彼女に伝えることができただろう。しかしギルベルトにはそれができなかった。幼い頃から自分の使命は戦うことだと思っていて、それ以外考えたことがなかったから。
強ければ人は勝手についてくる。ついてこれる者だけついてこい。そういう姿勢だ。対話など必要ない。親しみゆえに弱い者を戦場に連れ出し、犠牲を増やすのは馬鹿げたことだ。庇い合えば互いの足を引っ張ることになる。部下を助けようとしたカイも、その彼を救いに向かった自分も、それで命を落としかけた。弱かったのだ。
有無を言わさぬ強さこそが正しい。圧倒的な力さえあればすべてが守れる。
だからあの日、ギルベルトはイリスに心奪われた。彼女の持つ強さに魅入られた。ただ美しいだけの女なら、この心は微塵も動かなかっただろう。
だから彼女への思慕は信仰のようなものだと思っていた。
思っていたのに。
「なんだ、あの可愛さは……!」
帰城するなり兵舎に呼ばれ、一人で向かう途中、頭を抱えた。
まるで信仰の対象である女神像に欲情してしまったかのような罪悪感を覚える。記憶の中の苛烈さと、おずおず微笑んだ可憐さ。同じ女なのだと到底信じられない。温度差で火傷しそうだ。
これからどう接したらいいのか。考えても考えてもわからない。
絶望にも似た気持ちを抱えたまま兵舎へと踏み入る。呼びに来た者によると武具の在庫が帳面と合わないそうだが――
「せーのっ」
『殿下ぁ! おめでとうございまーっす!』
騒がしく野太い唱和と共に、ぽんっ、ぽんっ、と軽快な音がして顔面に何かを浴びせかけられた。酒臭い。発泡酒だ。
ウェーイ! ヒャッホー! と阿呆みたいな歓声があっちこっちから上がる。それですべて察した。髪から滴るものを拭いもせず、ギルベルトは心底呆れかえり兵舎を辞そうと踵を返し――
「待って待って。待ってくださいよ殿下ぁ。おめでたい日なんですから俺たちにも祝わせてくださいよぉ」
すでにべろんべろんな部下が背中にしがみついてくる。鬱陶しいことこの上ない。
強引に引きはがすと床に転がった部下はうふふあははと楽しそうに笑って、そして高らかに鼾をかいて入眠した。
「まったく……。用がないなら俺は戻る」
「まぁまぁ、殿下。ちぃっとだけでいいんで俺たちの気持ちを受け取っちゃあくれませんかね」
そう言ったのは軍服の上に白衣を羽織った男。ギルベルトよりも一回り年上で、だらしなく無精髭を生やしている。
軍医フェリックス。魔道医療にも精通した優秀な男で、ギルベルトとカイの治療を担当したのも彼だが、見かけはまるきり無頼漢である。
「言っときますが城の備蓄には手ぇ出してませんぜ。全員で金出し合って用意した酒なんで許してやってくださいよ」
まるで他人事のように言っているが彼の手にも酒瓶が握られている。顔色はまったく変わっていないあたり、さすが底なし沼だ。
「……文句はない。好きに飲め。俺は戻る」
「おっと、そんなに早く花嫁のところへ行きてぇんですかい? そいつぁ邪魔しちゃ悪いなぁ。なぁ、お前ら?」
フェリックスが問いかけると、どよどよどよ……と、ざわめきが起きた。そして一拍置き、ぴゅうぴゅう口笛が鳴らされる。
「いいなーいいなー、俺も早く嫁さんほしいなー」
「でもここで働くの楽しいからまだ独身でもいっかなー」
「それなー」
肩を組み合って酒をかっ食らっていた者たちが口々に言う。
クヴェレ城の管理官兼将校として赴任して以来、ギルベルトが徹底していることがある。
修練で行う手合わせで、ギルベルトに勝てばここにいる全員がその者に従う。もちろん、ギルベルト自身を含めての話だ。
皇子だろう市井出身だろうと関係ない。強い者が正しい。身分を気にして手を抜くことも許さなかった。
そうして毎日手合わせしているうちに、どういうわけか、すっかり懐かれてしまってこの有様である。
「いやいや、しかしあの殿下が本気で女に惚れるわけ――」
誰かが言ったその言葉に、思わずぎくりと震えた。それにフェリックスが目敏く気づき、目を丸くする。
「……マジすか?」
ギルベルトはたまらず彼を睨み据えた。しかし、それはつまり肯定である。場は一気に沸き上がった。ぽんぽんぽんっと、酒の栓が弾け飛ぶ。
もはや避けることもできず、ギルベルトは降り注ぐ酒を頭から浴びた。