雪の花、ひとひら
王城復旧の目処が立ち、イリスたちがベールアに帰還できたのは半月近く経ってからのことであった。
今後はレオンハルトが派遣してくれた部隊が引き継ぐ。工費も負担してくれるという。
イリスの父は見返りを警戒していたが、レオンハルトはそれを笑って否定した。
「大事な姫君をうちの弟にくださったのだから、これくらいは当然のこと。あぁ、でも、マナルフの船の残骸から押収したものはすべてうちに引き取らせてください」
ちゃっかりしているが、父はレオンハルトと、そして何よりギルベルトの人柄に触れて信用することにしたようだ。
「少々変わったところはあるが、裏表のない青年のようだ。それに、お前のことを真っ直ぐに見ている」
嫁ぐことが決まった時とは違い、父は晴れやかな顔で見送ってくれた。
クヴェレ城は俄に賑やかさを増していた。
フェリックスの助手となったミハイルが兵舎を忙しく駆け回っている。いざこざはあったものの、彼が抱えた事情を知った兵士たちはむしろ同情して受け入れてくれた。
弟のミーチャ――ドミトリーの面倒も非番の者が率先して見てくれている。大人の男性を怖がっていたドミトリーも彼らのことを遊んでくれる人たちとして認識したようで、今ではすっかり皆に懐いて可愛がられていた。
ミアとノーラもネイディアの元、日々励んでくれている。マリーナも相変わらずよく遊びに来るし、カイもくっついてくる。
「マナルフの船から出てきた研究書は分析中だ。だいぶ破損してて一部しか読めないのが惜しいけど、この情報がベールアに渡ったのは相当な痛手だったと思うぜ。これからしばらくは大人しくしてくれるだろうよ」
カイが持って来た報告によると、実験者たちは魔物に与える餌の濃度を予定より濃く調合したようだ。その餌については判読不能になっているようだが、功を焦った者たちによる自滅であることは明らかだった。
この件についてマナルフを問いただしても知らぬ存ぜぬだ。ベールアが何をどこまで知ったのか、かの国にはわからない。下手なことを言って関与を認めてしまっては、大義の名の下に攻め入られると警戒している。
自分たちの技術の恐ろしさは彼ら自身がよく知っているのだ。もしもベールアがその技術を身につけ攻撃してきたらと怯えていることだろう。
ベールアが睨みを利かせていれば他の国にも手出しできまい。ひとまず脅威は去った。
とはいえ、魔物は自然の中でも生まれ来る。そういったものから人々を守るため、イリスもギルベルトも力を振るう覚悟だ。
それでも平時は穏やかであった。近隣の山村を見守る城として、時には旅人を受け入れ、武芸を磨き、季節が巡り過ぎていく。
「秋も、もう終わりだね」
吹き抜ける風が冷たくなってきた。間もなく冬がやってくる。
庭の薔薇が枯れていた。園丁の手が回らず、放置されていたこの奥庭の手入れをイリスが買って出ると、ギルベルトも自然とくっついてくるようになって二人で剪定に励んでいた。
「この辺りは山の地形の関係で雪がたくさん降るんだってね」
「あぁ」
「セパヌイールにも雪は降るけど、積もることは滅多にないよ。どんなものか少し楽しみだ」
「……たぶん、すぐ嫌になる」
「どうして?」
「春まで無限に雪かきをするんだ」
「ふぅん?」
いまいち想像できずにいるイリスだったが、ギルベルトが憂鬱そうに溜め息をついたのが気になった。雪かきくらい、彼なら厭わないように思ったから。
「雪が嫌いなの?」
「そういうわけではないが……。雪が積もればこの庭も埋もれてしまう」
二人にとってここは大切な場所だ。花を愛で、語らう。それができなくなることをギルベルトは惜しんでいるようだった。
そんな彼の様子が可笑しくて、イリスはつい笑ってしまう。
「ねぇ、雪の結晶は花に似ていると思わない? だからわたしは雪も好きだよ。もちろん、多すぎるとうんざりするのかもしれないけど、それはその時になってみないとね」
経験しなければわからないこともある。彼の言うとおり、降り積もった雪にもう勘弁してと言う未来が待っているのだとしても、その苦労を共にするのがこの人なら悪くないと思う。
「それに、雪解けの後の景色はきっと美しいだろうから、今から楽しみだよ」
冬の雪も、春の息吹も、ここで見ていく。彼と二人で。
咲き残っていた薔薇を摘んで棘を取る。部屋に飾ればまだもう少し香りを楽しめるはずだ。
そういえば、まだ気持ちが通じ合う前に彼が何度も花を贈ってくれたことを思い出す。
手紙の隅に書き添えてあった言葉と共に。
「愛している、イリス」
摘んだ花束から赤い一輪を取り、イリスの髪に挿しながら、彼はその言葉をくれた。
「俺がここで見ていたい花はお前だ」
撫でた髪を一房掬い、愛おしげに口づける。くすぐったくて、笑みが零れた。
「それなら心配いらないよ。わたしはずっとここに――ギルベルト、君のそばにいるから」
答えて、イリスは親友にして最愛の夫に自ら唇を重ねた。
ゆっくりと離れる。彼は驚きで金色の目を瞠り、それから酔うように微笑んだ。
この庭でこうして他愛ないことを話す。こういう日々をいつまでも続けていきたい。きっと彼となら、飽きることすらできないだろう。
どちらともなく再び唇を寄せ合う。
冷たい風が吹いている。
音もなく落ちてきた今年最初の雪のひとひら。
誰にも気づかれることなく、二人の熱に融けて消えた。