歓喜の声
ぎちぎち、と何かを擦り合わせるような鳴き声が耳障りだった。
威嚇している。イリスたちをただの餌ではなく外敵と認識したのだ。その巨体に似つかわしくない俊敏さで、蜘蛛の魔物は森の中へと姿を消した。
イリスはすぐに後を追おうとした。しかし、異変に気づき踏みとどまる。
「糸が……」
木漏れ日を受け、何かが光った。まっすぐに延びる線のようなもの。それが木々の間に幾重にも張られている。
「イリス、上を」
ギルベルトの声に視線を上げた。その先に見えたものは、異様な光景だった。
白い繭が高い木の枝にぶら下がっている。それが風もないのにゆらゆらと、揺れるというよりも震えるように動いていた。
やがて繭に亀裂が走った。そこから、でろりと何かが滑り落ちてくる。
イリスとギルベルトはそれを避けたが、べちゃりと地面に落ちてきたものは透明で、赤く脈動する核が透けて見える。浜辺に打ち上げられたクラゲのようだった。
ぶよぶよと揺れながら動くそれは周囲の草を――いや、そこに隠れていた虫を包むように飲み込んだ。それを繰り替えすごとに、徐々に姿は変化していく。触覚のようなものが生え、眼がぎょろりと生まれ――その視線がイリスと捉えると同時に、ギルベルトは爪の一閃で核を切り裂き潰した。
腐った果実のように黒ずんで消えて行く。それを見届けたイリスの頬に、冷や汗が伝った。
「まさか、あの蜘蛛が魔物を生んでいるということ?」
「状況的に、そうだろうな」
狼の姿のままでギルベルトは答え、周囲を注意深く窺う。
魔物が湧いて出る理由はこれか。実験者を食らい、制御する者がいなくなった今、あれを倒さなければどれほどの被害が出るか。セパヌイールそのものが消滅してもおかしくはない。
早く追わなければ。しかし、周辺に張られた糸がそれを阻む。
イリスはギルベルトと顔を見交わし、頷き合った。そして足元に落ちていた石を拾い、糸に向かって投げてみる。
糸は容易く断ち切れた。次の瞬間、ざざっと枝葉の揺れる音。そして転がった石に、まだ半透明で核が透けて見えているトカゲが食らいついた。
イリスは構えていた聖剣でそれを薙ぎ払う。
今までも知らぬ間に触れていた可能性がある。魔物たちが絶え間なく寄ってきていたのはこのせいだろう。
周囲に糸を張り巡らし、触れるものがあればそれを生まれたばかりの魔物に襲わせる。
そうしている間に親である蜘蛛は逃げるのだ。
森の中にはベールアの兵士たちもいる。彼らはまだこのことを知らない。
「糸に気をとられていては思うように動けないな」
「そうだね。いちいち跨いでいくわけにもいかないし……」
ギルベルトの言葉にイリスは頷き、毅然と顔を上げた。
「だったら気にせず、まっすぐ進もうじゃないか」
戦闘装束をひらめかせ、イリスは駆けだした。狼の姿のギルベルトも寄り添うようについてくる。
すぐさま蛾のようなものが飛んできた。しかし、やはり半透明で生まれて間もない魔物とわかる。イリスはそれを斬り捨て進んだ。
糸に触れれば魔物が来る。それがわかれば、かえって身構えられて楽だ。
走りながら、巨大な蜘蛛の姿を捜す。ところが、あれほど目立つ姿をしているはずなのに影すらも見当たらない。
どこかに隠れたか、あるいは――
何かの気配を感じてイリスは足を止めた。
木の陰に身を潜め、震える人。
それが本当に人なのかどうか。見極める一瞬の隙。
その一瞬を作ることが奴の目的だったのだ。騙せるなどと端から思っていなかったのだろう。顔を上げ、イリスに向かって伸ばされた手の先から糸が迸り出る。
跳んで避け、イリスは再び森の中を駆けた。その背後からギルベルトが声を上げる。
「何か、匂いが……。イリス、人が近くにいる」
狼の姿で周囲を探るギルベルトは異変を感じたようだ。
魔物には匂いがない。ならば近くにいるというのは本物の人間のはずだ。
さらにギルベルトは苦々しく続けた。
「血の臭いだ」
彼が言うと同時、その光景をイリスは目にした。
人が……ベールアの兵士が蜘蛛の巣に捕らわれていた。
それも、幾人も。まるで磔刑を行う処刑場のような光景であった。しかし幸い、生きているようだ。呻き、もがいている。
いや、違う。その違和感にイリスは気づいた。ギルベルトも同様であったらしく、憎々しげに唸り声を上げる。
「誘い込まれたか」
蜘蛛の巣はまるで檻のように張り巡らされていた。その合間に生きたままの兵士が捕らわれている。
背後を振り返ると、退路もすでに塞がれていた。
兵士たちはわざと生かされているのだ。人間の盾によってイリスたちは力を発揮することができない。
ぎちぎち、と嫌な鳴き声がした。
今度は威嚇ではない。
歓喜の声だと、そう感じた。




