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酒でやらかす

 正直、あの後どうやって帰ってきたのか思い出せない。

 今も頭がふわふわとしている。気がついたら宮殿内に用意された一室にいた。

 ここはギルベルトが宮殿を離れる前、十五歳まで使っていた部屋だそうだ。あるのは寝台と窓際の長椅子、書斎机に寝台横の脇机のみ。物が少なく殺風景とも言えるが、さっぱりとしていて悪くないとイリスは思う。

 ミアとノーラはすぐ隣の控えの間で休んでいる。宮殿の侍女たちと話して仲良くなったらしく、二人とも楽しそうだった。マリーナの取りなしもあったのだろう。

 今夜はここで一泊することになる。

 元々はギルベルトの部屋であり、夫婦なのだから当然二人でだ。

 先に湯を使わせてもらったイリスはドレスと同じく借り物の夜着を着て、寝台の端に腰掛けていた。

 こうして待つのは二度目だ。でも、あの時のようにそわそわとした落ち着かなさはない。

 むしろ、ずっと夢の中にいるみたいで、呆けてしまっている。聖剣を振るう剣士には到底見えないだろう、油断しきった姿だった。

 これではいけない。せめてもう少し、しゃきっとしなければ。

 手を伸ばし、脇机に置かれた硝子瓶を手に取る。宮殿の侍女が「お部屋でどうぞ」と置いていってくれたものだ。

 せっかくだし、ありがたく頂くことにした。グラスに注ぎ入れ、目覚ましにというように一気に煽り――喉を焼く感覚に噎せそうになった。

 注いだ液体は無色透明だった。だからてっきり水かと思ったが、これは酒だ。しかも度数がかなり高い。

 喉を過ぎた熱が胃の腑に届く。その熱が今度は脳天へ向かって駆け上がってきた。

 どうしよう。吐くか。いや、そんなみっともないこと、できない。

 本来なら少しずつ、舐めるように飲むべきものだったはずだ。夫婦が夜に語らうには最適な酒。そういう気遣いで置いて行かれただろうに、ぼんやりしすぎるあまり中身の確認を怠ってしまった。

 そうこうしているうちに、さっきまでふわふわだった頭がくわんくわんと回り出す。似ているようでまるで違う。見上げた天井までもが回転しはじめていた。

 いや、もちろんそんなことはないのだ。回っているのはイリスの目だ。だんだん焦点が合わなくなってきて、耐えがたくなり寝台に背中から倒れた。

 こうなると、もう指先ひとつ動かせない。抗おうにも閉じゆく瞼をこじ開けることもできない。

 すこんと魂が抜けるように、イリスは眠りについてしまった。


 ◇◆◇◆◇


 かつて自室として使っていた部屋は当時のまま残されていた。

 長椅子、書斎机、寝台とその横の脇机。すべてがそのまま。

 まだ少年だった頃の自分が寝起きしていた寝台に目を向け、ギルベルトは立ち尽くしてしまった。

 寝ている。すよすよと寝息を立ててそれはもう心地良さそうに。

 そろりと歩み寄り、脇机に置かれた瓶の蓋を外して匂いを嗅いでみる。案の定、酒だった。

 これを飲んでしまったのだろう。中身の減り具合からしてグラス一杯を一気飲みしたのか。色のない酒だから、水と勘違いしたのかもしれない。

 普段のイリスは食事時に果実酒を少し飲む程度だ。こんなに強い酒は初めてだったに違いない。

 溜め息をつき、ギルベルトは寝台に横たわるイリスを見つめた。

 こうして眠る姿を見るのは初めてではない。でも、あの時は起こさないよう、気づかれないよう忍んでいた。

 今は逆に、起きてほしい。目を覚まし、その翡翠色の眼に自分の姿を映したい。とびきり甘い果実のようなその唇に、今度は齧りついてしまいたい。

 さっきは触れるだけの口づけだった。もっと深く彼女を味わいたいと欲深くなった眼差しで、起きてくれと念じる。

 すると、その願いが通じたのか、髪と同じ菖蒲色をした睫毛がふるりと揺れた。薄く開いた瞼から覗く、とろんとした瞳。

「……ギルベルト?」

 少し不明瞭ながら、名前を呼んでくれた。すかさずイリスの手を握り、指を絡め、仰向けに横たわる彼女に覆い被さるように寝台に入った。

「イリス……」

 その意思を確かめるように名を呼ぶ。彼女は目を逸らさなかった。たまらず、指を絡めた手に力をこめる。

 すると彼女も応えるように握り返してきた。

 返事だと思った。その身を暴く許しを得たのだと。

 しかし次の瞬間、へにゃっと笑ったイリスが握り合った手を自身の頬に擦りつけると、焦点の合わぬ眼差しのままでむにゃむにゃと言葉を発した。

「わたしの黒い狼……大好きだよ……」

 そして再び、すぅっと穏やかに寝息を立てはじめてしまった。

 しばらくの間、ギルベルトは動けなかった。

 頭に反響するイリスの声。言葉。彼女からはっきりとそう言われたのは初めてだった。

 イリスは深く眠りに落ちている。これはもう、朝までぐっすりだろう。

 ここまで来てお預けなんて。でも揺すり起こすなんてできない。彼女はまだ微笑んだままで、花の蕾の中で眠る儚い妖精のようで、そのままそっとしておきたくなる。

 でも、せめてこれくらいは。

 そう言い訳して、おやすみの代わりに口づけを落とした。


 ◇◆◇◆◇


 鳥の声に、はっと目を覚ます。

 見慣れない天井が見えた。そこで、ここはいつもの自分の部屋ではないと思い出した。

 帝都の宮殿。ギルベルトの部屋だ。

 そこに思い至った瞬間、がばっと勢い良く身を起こす。毛布がはね除けられ、秋の朝の少し肌寒さに包まれた。

 しかし、イリスはしっかりと夜着を着たままだった。そのうえ寝台にはひとりきりである。

 恐る恐る、視線を巡らせる。

 脇机には見覚えのある瓶とグラスがそのまま残されていた。

 そして、朝焼けの仄明るい光が差し込む窓の傍。

 置かれた長椅子に、長い脚をはみ出させて横たわっているギルベルトの姿。

 瞬時にイリスはすべてを悟った。

 やってしまった。完全無欠にやらかした。これではまるで彼と床を共にするのが嫌で拒んだみたいじゃないか。そんなことは決してないのに。

 そろりと寝台を降りて長椅子の傍に歩み寄る。気配を察したのか、目を覚ましたギルベルトは眠たげに顔を顰めた。

 目の下には薄く隈ができている。おそらく、ようやく寝入ったばかりだったのだろう。誰のせいかは言うまでもない。

「あ、あの……おはよう」

 返事はなかった。しかしギルベルトはゆっくりと身を起こす。イリスは彼を視線を合わせるようにしゃがんだ。

「怒っているよね? ごめんね、わたしが不甲斐ないばかりに――」

「……いい」

「え?」

 問い返すと、ギルベルトは長椅子を滑り降りるようにしてイリスに抱きついてきた。倒れ込まないよう、イリスは慌てて彼を支える。

「俺はお前の狼だ。お前は俺の獲物だ。いつか思い知らせてやる」

 怒っていると、嫌われたかもしれないと不安になったイリスに熱のこもった囁きを聞かせてくる。

 たぶん仕返しのつもりだろう。

 身も心もくすぐったくて、でも嬉しい。

 やがてミアとノーラが身支度の手伝いにやってくるまで、イリスは長椅子に腰掛け、自身の膝を枕として提供してギルベルトの微睡みに付き合ったのだった。

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