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はじめてのともだち

 梟の声が聞こえる。

 ここは森の中だ。そういった生き物もやってくるだろう。平素であれば気になるような物音ではない。でも。

「……眠れない」

 目を閉じてみても寝入ることができなかった。

 一度眠って、途中で目を覚ましてしまったからというのもあるだろう。しかしそれ以上に、先ほど起きた出来事が脳裏を離れてくれなくて、したくもないのに何度も反芻してしまう。

「あぁ、もう!」

 がばっと勢いよく起き上がり、寝台を降りる。

 窓辺に近寄り鎧戸を開けると明るい月が見えた。風もない穏やかな夜だ。

 ここは三階建ての最上階だが、窓のすぐ傍には背の高い木が生えていた。

 しばし考え、イリスは聖剣を手に取り、夜着の上から剣帯を装着する。そして窓枠に足をかけると、ためらいなく木の枝へと飛び移った。

 なるべく物音を立てないよう、慎重に降りていく。下生えの草が素足に触れると、その瑞々しさが冷たくもくすぐったくて心地良い。

 この城へ到着した時にはすでに日が暮れていて、見て回ることはできなかったが、城内には広い庭園があった。真新しい手入れ跡はあるものの、それ以前は長いこと放置されていたのか荒れた箇所が見られる。しかし、それもある種の趣と捉えれば、悪くはないと思った。

 嫁いできたその夜に、ひとりで、しかも夜着に裸足で庭を散歩するなんて馬鹿げてる。でも夜の冷えた空気が心地良くて、嫌なことを全部忘れさせてくれるみたいで、イリスは花の香りを胸一杯に吸い込んだ。

 芳香に誘われる蝶のように、その香りの出所へと足を向ける。

「これは……見事だな」

 そこで見つけたのは睡蓮の池と東屋だった。東屋は屋根の上まで蔓薔薇で覆われて、まるで秘密の隠れ家みたいで童心がうずく。

 伸びた蔓によって狭くなった入り口。ひょいと身をかがめて覗き込み――何かが、いた。

 暗闇の中でぎらりとふたつの光が煌めく。あれは目だ。人間のものではない。

 イリスはとっさに聖剣の柄に手を掛け、鞘を払うと眼前に構えて聖なる言葉を唱えた。

「“花装(フロレゾン)”ミルフルール!」

 すると刀身は光り輝き、その光から花弁が湧き出して舞う。花の嵐に包まれたイリスが再び姿を現すと、夜着だった衣服はドレスと甲冑が融合した戦闘装束に変化していた。

 これが聖剣ミルフルールの力である。この装束を身に纏っている間は、人智を超えた能力を使うことができる。

 戦闘態勢に入ったイリスは切っ先を暗闇の中に向けた。中にいる何かが動く。

 月明かりの元に、それは出てきた。

 黒い、犬。いや違う。これは狼だ。闇から溶け出してきたみたいに漆黒の毛を持つ狼。金色の目の奥が反射して虹色の輝きを放っている。

 一瞬、野生の狼が城郭内に忍び込んできたのかと思った。けれど、その姿にはどこか見覚えがあって――あっ、とイリスは声をあげた。

「君、もしやあの時の?」

 もし違ったら言葉の通じぬ獣に話しかけたことになる。だが、予感は当たっていた。

「あぁ」

 短い返答だった。しかし、間違いなく人の意思を感じる声音だった。どうやらこの姿でも話せるらしい。まだ少年のような、若い男の声だった。

「無事で良かった! 一緒にいた者も息災かい?」

「あぁ」

 また同じ返事だった。どこか戸惑っているようにも見える。そこでイリスは慌てて聖剣を鞘に納めた。途端に戦闘装束は花弁と化して散り落ち、元の夜着に戻る。

「すまない。てっきり魔物が現れたのかと思ったものだから」

「いや、別にいい」

 そう答えると、彼は池の畔まで歩いて行ってそこに腰を下ろした。

 先の魔物討伐で、仲間を庇って深い傷を負っていた兵士だ。あの時と同じように獣の姿だが、おかげですぐにわかった。

 彼のことはずっと気がかりだった。あの後どうなったのかは知る術もなかったから、こうして無事な姿を再び見ることができて嬉しい。それに、この地では初めての見知った顔だ。たとえ一瞬の邂逅だったとしても、縁のようなものを感じる。

 城内には兵舎もある。きっとそこに身を置いているのだろう。ミアの言葉によると獣化した後に戦う能力を備えているのは皇帝の一族や貴族に限られているそうだから、彼は貴族の子息ということか。家督を継ぐことのない嫡子以外が家を離れて兵役につくのは珍しいことではない。

「隣、いいかな?」

 尋ねてみると、返事はないが小さく頷いたのがわかった。少し距離を開け、イリスもその場に腰を下ろす。

「……足」

「ん?」

「その足、平気なのか?」

 座ったことで、足の包帯が少し見えてしまったのだろう。先ほどのことを思い出して少し憂鬱な気分になったが、イリスは苦笑を浮かべてそれを誤魔化した。

「平気だよ。もう痛みもまったくない。……ありがとう」

 些細なことだが、気がついて心配してくれる優しさが嬉しかった。礼を言うと、返事はなかったが尻尾がぱたぱたと揺れる。それが可笑しくも可愛らしくて、つい笑ってしまった。

 すると彼はぷいっとイリスに背を向ける。

「あっ……。すまない、馬鹿にして笑ったわけではないんだ。どう伝えたら良いのか、わからないけれど……君は、とても美しいと思う。それに、なぜだろうね。国に残してきた弟や妹のことを思い出してしまって。君が優しいからかな」

 漆黒の狼。その優美さは称賛に値するものだ。そして彼の見せた優しさと照れ隠しのような初々しさは、弟妹……特に弟のことを思い起こさせた。弟も、イリスが落ち込んでいたりすると静かに傍に寄り添ってくれて、それにイリスが気がつくと、ふいっといなくなってしまう子だった。

 愛おしいその姿を思い出し、自然と溜め息が漏れる。

「……悔いているのか?」

「え?」

「この国に、来たことを」

 イリスに背を向けたまま彼が問う。即答はできなかった。

 彼にとってこの国は祖国だ。それを拒絶されればいい気はしないだろう。しかし嘘はつけない。この人に嘘はつきたくないと思った。

「正直に言うと……少し……いや、だいぶ不安かな。知っている人が誰もいないというのは思った以上に堪えるね。でも、君にもう一度会えて嬉しかった。それだけで来た価値はあったよ」

「……そうか」

 短いその返事には、はっきりと安堵の色が滲んでいた。言いたいことが伝わったと感じて、イリスもほっと息をつき、池の睡蓮へと目を向けた。夜だから蕾になっている花が多い。

「見事な庭園だね。君は、ここへはよく来るの?」

「あぁ」

「良い所だものね。静かで風情があるよ。……もし迷惑でなければ、わたしもまたここへ来てもいいかな」

 彼にとって秘密の休息地なのだとしたら、邪魔しては悪い。そう思って尋ねてみると、彼はやはり振り返ることなく答える。

「好きにしろ」

 つっけんどんな物言いだが、イリスに向けられている尻尾は左右に揺れている。嫌がられてはいないらしい。この尻尾というものは、ずいぶんと感情表現豊かだ。

「ふふっ、ありがとう」

 礼を述べ、イリスは両膝を抱えて座り直す。そして、ふとギルベルトのことを思った。

 彼にも尻尾があれば、少しくらいは何を考えているのかわかるかもしれない。

 そういえば、ギルベルトはどのような獣に変化するのだろう。侍女たちに訊けば知っているだろうか。しかしミアの反応を思い出すと、軽率に探るのは躊躇われる。気にならないと言ったら嘘になるけれど、第三者から聞き出すのは品のないことのように思えた。控えるべきだろう。

 この場所は心地良い。花の香りは故郷を思い出す。でも、それだけじゃない。彼と話していると落ち着く。

 イリスが第二皇子の妻として嫁いできたことは、さすがに知らないわけではなかろう。それでもこうして、へりくだることなく接してくれる。どのような家柄の出自かはわからないけれど、その気高さは好ましいと感じた。上でも下でもなく対等に話せる、それはまるで――

「……あの」

 座った場所に生えていた草を指先で弄りながら、イリスはおずおずと切り出す。

「もし、もしもの話なのだけど、その……もし、君さえ嫌でなかったら……」

 ぼそぼそと小声になってしまう。後ろを向いたままの彼の耳が、聞き取ろうとしてくれているのかぴくぴくと動く。

「わたしと……と、友達に、なってくれないだろうかっ!?」

 意を決し、発した声は妙に大きくなってしまった。はっとして両手で口元を覆い、恐る恐る彼の様子を窺い見る。

 ずっと背を向けていた彼が、金色の双眸でイリスを凝視していた。ひどく驚いた顔をしている。

「……とも、だち?」

 何言ってるんだこいつ、とでも言わんばかりの反応だった。それを目の当たりにして、あぁ言わなければ良かったと激しい後悔に苛まれる。

「ご、ごめんっ! 今のは忘れて……!」

「……いや」

「ああああっ! やっぱり嫌だよね、本当にごめんなさい!」

「違う! そうじゃない!」

 抱えた膝に顔をうずめて小さくなっているイリスのすぐ傍で、吼えるような声がした。顔をあげると、至近距離に金色の眼がある。

「あんたが、そう望むなら……友達で、いい」

 静かに、宥めるように、彼はそう言ってくれた。

「……本当に? 迷惑ではないかい?」

「あぁ」

 金色の眼差しの奥が月明かりを受けて虹色に輝く。その輝きに偽りはないと、そう感じた。気が抜けて、イリスはふにゃりと笑う。

「嬉しいな。こうして笑えることなんて、二度とないと思っていたよ」

 これからは自分を押し殺して生きていくのだと思っていた。友という存在の、なんと有り難いことか。

 通り抜けた風が池の水面を撫でて睡蓮が揺れる。薄着のイリスはとっさに身を縮め、自身を掻き抱くように二の腕を抑えた。

「……ここは冷える。次はもっと、まともな格好で来るといい」

「そうだね、そうするよ」

 暗にもう帰れと促され、イリスは素直に立ち上がった。またね、と手を振って向けた背中に、控え目な声が掛かる。

「命を救ってくれたこと、感謝している。……俺も、あんたに会いたかった」

 急いで振り返ってみたが、そこにはもう黒い狼の姿はなかった。ただ、ざわざわと草木が風に揺れるばかり。

 きょろきょろと周囲を窺ってみても気配が掴めない。獣化の能力ゆえだろうか。名前を呼んでみようとして――気がつく。彼の名を、訊いていない。

 しかし、それで良いと思った。彼が兵舎に身を置く兵士なら、皇子――イリスの夫である男の部下だ。互いにそんなつもりはなくても、誰かに見咎められればあらぬ疑いを掛けられるだろう。

 それなら、知らないままでいい。昼間、どこかで彼の名を耳にしても、知らないでいれば気を引かれることもない。

 イリスの我が儘で友となってくれた人を守るためにも、この場所以外では見知らぬ他人でいなければいけないのだ。

 もっとも、あの皇子はイリスが誰と会っていようと気にすることはなさそうだが。初夜の花嫁に手も出さず、出て行ったあの男。――しかし。

 夜着の裾を少し持ち上げて自身の足を見る。そこに巻かれた包帯。湿布に使われている薬草と包帯に施された魔道文様のおかげか、痛みはとっくに消えている。痣になることもなく、明日の朝には包帯も取れるだろう。

「礼は、言わないといけないな……」

 どんな顔をして会えばいいのかは、わからないけれど。

 友となった人は感謝の言葉をくれた。それに倣い、かならず遂行してみせようと、イリスは己に任務を課した。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 黒いわんこ…もとい狼の正体がとっても気になります(笑)。 [一言] 完結作品からお名前発見して花守の竜の作家さんだ〜♪と読みに来ました。続きも楽しく読ませていただきますm(_ _)m
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