白銀の姫君
苦しい。息が続かない。
手が使えないせいで水を掻くこともできない。水面に上がれない。
ごぼっと口から泡が漏れた。塩辛い海水を飲み込んでしまう。
海の底は深く、暗い。その闇に向かってどんどん沈んでいく。冷たい水が意識を奪っていく。
その時、視界の端に白銀色の影が過ぎった。
ぶつんと縄が切れる感触。同時に自由になった手で、必死に水を掻く。
再び目の前に白銀色の影が現れ、ミハイルはそれにしがみついた。つるりとしていて手が滑りそうなるが、水面へと浮上するまで懸命に堪える。
「ぶはっ……はぁ……わっ!?」
息継ぎをすると再び潜って水面下を移動する。それでも、息ができたことで余裕が生まれた。
ミハイルを助けてくれたのは白銀色をしたイルカだった。その背びれに掴まり、息継ぎをしながら、マナルフの軍艦から遠ざかっていく。
それにしても速い。だんだん手が痺れてきた。掴まっていることに集中しすぎたせいで息継ぎに失敗し、咳き込んでしまう。
その拍子に手が離れてしまった。ミハイルは再び波に揉まれて沈んでいく。
網目模様の海面が青くきらきら輝いていた。
母はこの海で弔われたのだ。なら、このまま波に消えていくのも悪くない。
そう思い、目を閉じかけた。しかしその視界に現れたものが、ミハイルの意識を引き戻す。
銀色の髪をした少女だった。上半身は婦人用の水泳着を纏っているが、下半身は人間のそれではない。脚がなく、尾ひれになっている。
少女はミハイルの胸倉を掴むと、強引に水面へと引っ張り上げた。
「しっかりなさい! せっかくわたくしが直々に助けにきてあげたのですから、生きてもらわないと困ります!」
水面に顔を出した少女の叱責が飛ぶ。
彼女の名前は知っている。ベールアの皇女マリーナ。
ベールアの貴人はこうして獣の力を使うことができると、知識としては知っていた。しかし、いざ目の当たりにすると言葉が出てこない。
「……あまりじろじろ見ないでくださる?」
金色の目をじとっと細めてマリーナが凄む。しかし、愛らしい顔でそんなことをされてもまったく怖くない。
水に濡れて頬に張り付いている髪が銀細工のようで綺麗だった。まだ幼げな顔立ちながら、皇帝の娘にふさわしい気骨と気品を感じる。あと数年すればイリスに並ぶほどの美女になるだろうことは疑いようもなかった。
「あ、あの……ありがとうございます」
どうにか礼を言うことだけはできた。しかし会話は続かない。彼女に掴まっていないと沈んでしまうから仕方ないとはいえ、どぎまぎしてしまう。
対し、マリーナはわかりやすく機嫌を良くした。
「お義姉様の頼みだから仕方なくですけど、まぁ、悪い気はしませんわね。――船からはもうだいぶ遠ざかりましたし、水面から顔を出していても大丈夫でしょう」
そう言うと、マリーナは再びイルカの姿に転じた。
「今度はしっかり掴まってらしてね」
波間を切って、滑るように泳ぎ出す。
帝都近郊の港、その陸地がうっすらを見えはじめていた。




