一匙の死
収穫祭が迫っている。
一日の訓練を終え、銘々自由時間を過ごす兵士たちは、その日に休暇を取る権利を巡って賭け事などに興じていた。
「王子様は見物に行かないのかい?」
食堂の片隅で匙を握り、スープに映る自身の顔を見つめていたミハイルは、掛けられた声にびくりと震えて顔を上げた。
「僕は……あ、いや、私は行かない。興味がない」
ミハイルが答えると、その兵士は「そうかぁ」と相槌を打ってすぐ隣に座った。食堂が混んできて、座れる席が少なくなってきたせいだろう。
普通の兵士と同じように扱ってくれと頼んだのはミハイルだ。実際には血統のみで、王子だなんて自覚もなく、どう振る舞ったらいいかわからない。だから敬われると、どう反応していいのか困ってしまう。
マナルフの王子だということで、初めは兵士たちも遠巻きにしていた。しかし連日のミハイルの情けない様子に呆れたのか、今ではこうして気安く話しかけてくる者もいる。
帝都ではこのようなことはなかった。皇太子レオンハルト直属の部隊は規律正しく、まさに精鋭部隊といった様子であった。
それに比べるとここはまるで無法地帯である。皇子であるギルベルトや皇帝一族の係累であるカイにも、まるで友人であるかのように接する者も多い。
しかし、一見すると無秩序であるのに統率が取れている。言葉の少ないギルベルトが言わんとしていることを彼らは瞬時に理解し行動する。互いに連携し、自ら考えて動くことができる強さを持っていた。
もしも自分が認められてマナルフ王家に入ったとしても、こんな風にはなれない。
なれないから、捨て駒で終わるんだ。
再びスープに視線と落とす。感情を失った顔が映っている。
この命の期限はもう間もなくだ。収穫祭の日に合わせてマナルフから迎えがくることになっている。
その日までに使命を果たせなければ、連れ帰られて結局殺される。母や弟と共に。
帝都ですでに一月以上を過ごしていた。時間を掛けすぎた。長くいることで絆され、ミハイルが家族を捨ててベールアに寝返ることを危惧して設けられた期限。それをぎりぎりいっぱいまで使って、今、ついに自ら命を絶とうとしている。
スープには致死量の毒。ミハイル自身が入れたものだ。しかし兵舎の厨房で作られた食事で死ねば管理官であるギルベルトが責を負うことになる。
彼には何の恨みもない。しかしやらねばならないのだ。
ミハイルの骸はマナルフに引き取られ、毒殺であることが喧伝されるであろう。マナルフに圧力を掛けていたベールアは体面を保つために手を引かざるを得なくなる。
その筋書き通りにいくかどうかもわからない。だけど、それで母と弟が助かるのなら。
匙を握る手に力を込めた。
一口でいいのだ。それだけでいい。悶え苦しむことになるのはわかっている。本当なら誰か、腕の立つ者に殺して欲しくてこんな所にまで来たけれど、結局これしか方法がなかった。
震える手で、匙を皿の中へ入れようとした。まさに時だった。
「お、なんだ王子様。スープ冷めちまってるじゃないか。俺のと交換してやるよ」
向かいの席に座った兵士が、ミハイルの皿を取り上げ、代わりに湯気が立つ皿をミハイルの前に置いた。
「そんなこと言ってお前、すぐ賭けに戻りたいだけだろ」
ミハイルの隣に座っていた兵士が笑いながら言う。別の卓では賽子を使った賭け事で大盛り上がりになっていた。
「良い波来てんだよ」
言いながら、兵士は豪快にも匙を使わず直接スープを掻き込もうというように皿を持ち上げ――
「や、やめろ!」
兵士が皿に口をつける寸前、ミハイルは卓を乗り越えて彼に掴みかかり、皿をたたき落とした。床に落ちた陶器が砕け散る音と、もつれ合った二人が倒れる音が食堂中に響き渡る。
一瞬、しんと静まりかえった。倒れた兵士は動かない。ミハイルは血の気が引き、慌てて彼を揺すり起こした。その目が、かっと見開く。
良かった、生きていた。ほっとした瞬間、拳が飛んできて頬を殴りつけられた。
「何すんだ、このガキ!」
「お、おい、やめろって! 相手は一応マナルフの王子なんだぞ!」
「ここではそんなん関係ないだろ!」
激高する兵士を周囲の者が押さえつけて宥める。ミハイルもまた、抱えられて引きずられ、離れた場所へ移動させられた。
頬がひどく痛む。口の中を切ったようで鉄錆臭い味がした。衝撃で頭がぼうっとする。
ただ、失敗したことだけはわかった。毒は使い切ってしまった。もうどうやっても死ぬ術はない。母と弟は救えない。
嗚咽を漏れる。見守る兵士たちが困惑するのも気にしていられない。
騒ぎを聞きつけたカイが現れるまで、ミハイルは床にうずくまって肩を震わせ、泣き続けていた。




