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小さな侵入者

 香油をつけた菖蒲色の髪に櫛を通す。

 鏡で何度も確認して、部屋の中をうろついて回り、零した溜め息はもう数え切れないほどになっていた。

 心配ない。大丈夫だ。誰しも経験することで、母や祖母、曾祖母、そのまた先の先祖に至るまで皆が通ってきた道なのだから。

 とは言っても緊張するものはする。ミアとノーラに止められるまで長く湯を浴びたせいでのぼせそうになったためか、動悸が治まらない。

 せっかく綺麗にしたのにまた汗をかくのは嫌だ。たしか扇子があったはず、と鏡台の引き出しに手を伸ばした、その時。

 かちゃ、と扉のノブが鳴った。脅かされた猫みたいに飛び上がったイリスは慌ててそちらのほうを見やり、身構えながら扉が開かれるのを待つ。

 しかし、いくら待っても開かない。そしてまた、かちゃっと音がした。

 まさか、ここまで来て怖じ気づいたのか。こちらは覚悟を決めて待っているのに。

 むっとして、足音を殺しつつ扉に歩み寄る。すでに夜は深く、侍女たちもそれぞれの自室で休んでいる時間だ。夜警の兵士たちもここまではやって来ない。

 訪ねてくる者といえば、彼しかいないはずだ。

 意を決し、イリスは自ら扉を開けた。もたもたしている夫に文句のひとつでも言ってやろうと、そっと開けた扉の隙間からじろりと睨み――そこには誰もいなかった。

 はて? と首を傾げる。気のせいだったのか。しかし、何か、気配がある。

 その気配のもとを辿り、イリスはゆっくり視線を下ろし……。

「んんっ!?」

 そこにいた見慣れない生き物に、思わず声を上げて驚いてしまった。

 薄汚れ、伸び放題になった毛の合間から覗く真っ青な目。ドアノブに手を伸ばし、つま先立ちしていたそれはイリスと目が合うや否や大慌てで身を翻し、掛け去って行く。

「ちょ、ちょっと! 待ちなさい!」

 イリスはとっさに追いかけた。あまりにみすぼらしい格好だったせいで一瞬わからなかったけれど、あれは人間の子供だ。

 城内にあの年頃の子供はいない。厩舎番や園丁の弟子たちも十歳は超えている。

 だとしたら外から入ってきた以外にない。

 まだ幼いのに、ずいぶんすばしっこい子だった。追いすがって廊下の角を曲がったイリスは、目の前の光景にまた目を見開いて驚く。

「なんだ、これは」

 じたばたもがく子供の首根っこを掴み、軽々と持ち上げながら訝しそうにしているギルベルトだった。イリスの部屋へ向かっている途中でこの子供と遭遇し、捕まえたといったところだろう。

「いや、わたしにもわからないんだけど。ともかく、子供をそんな持ち方しちゃいけないよ」

 犬猫の子じゃあるまいし、と呆れつつイリスは手を出す。せめて床に降ろしてやろうと思ったのだが、汚れた髪から覗く目が恐怖に揺れたかと思った瞬間、がぶりとその手に噛みつかれた。

 鋭い痛みに表情が歪む。ギルベルトも驚愕し、慌てて引き離そうとしたが、イリスは逆に彼から子供を取り上げると噛みつかれたまま胸に抱き込んだ。

「大丈夫だよ。何もしないよ。驚かせてごめんね」

 汚れた身体からはひどい臭いがしたが、それでもかまわず抱きしめて語りかける。すると、やがて落ち着いてきたのか、子供はその口からイリスの手を解放した。

「よしよし、良い子」

 頭を撫でてやると、怯えていた表情がいくらか和らいだ気がした。深い青色の綺麗な目だった。

 四、五歳といった年頃だろうか。襤褸を着て裸足で痩せている。

「さて、君はいったい誰かな?」

「ミーチャ……」

 訊ねると、消え入りそうな震えた声で答えてくれた。イリスは笑顔でそれに答える。

「ミーチャか。よく言えたね、偉いよ。わたしはイリス。彼は夫のギルベルト。怖そうだけど怖くないよ」

 困惑して立ち尽くしているギルベルトを見やり、笑いながらそう言ってやった。するとギルベルトはばつが悪そうに溜め息をつく。

「何事ですか!?」

 どたばた走り回る音を聞きつけたのだろう、慌てて部屋から出てきたネイディアに続き、ミアとノーラも眠そうな目を擦りつつ姿を現した。丁度良いところに来てくれたものだ。

「すまないが、湯の用意をしてくれるかな。この子を洗ってやらないと。それから――」

 再度ギルベルトに視線を送り、今度は真剣な眼差しで言う。

「今日迎え入れた商隊に話を聞かなければいけないね」

 その意を察した彼は「そうだな」と頷くと、踵を返してその場から去っていった。

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