花火どころじゃない
ギルベルトの包帯がすべて外れ、フェリックスにより復帰の許可が出たのは優に三ヶ月後のことだった。
怪我の程度を考えるとこれでもずいぶん早いほうだ。フェリックスという優秀な医師がいなければ、ギルベルトは片腕を失っていたかもしれない。それほどの深手だったのだから。
幸いなことに利き手は自由であったから、療養中は主に書類作業を進めていた。フェリックスと押し問答しながら、筋力維持のための運動も可能な限りこなし、歩けるようになってからは兵舎にも顔を出している。
イリスも彼の補佐として兵士の訓練の監督や家政を執り行っていた。
要衝の城には人の出入りがある。有事の際には周辺住民の避難所となるため備蓄の管理などは重要な仕事だ。
また、街道が近いということもあり旅人や商隊が宿を求めて訪ねてくる。そういった人々に提供するための施設も維持管理しなければならなかった。
「最近は旅人が多いね」
「近々、帝都で収穫祭がある。そこで商売をしに来る者も多い」
執務室にて、先ほど迎え入れた商隊の規模を報告しに来たイリスがふと疑問を述べるとギルベルトは端的に答えた。
「そうか、もうそんな時期か……。セパヌイールでも収穫祭はあったけれど、小さな島国だから商人がこぞって押し寄せるようなことはなかったよ。さすがベールアは経済も強いね。きっと見物客も集まるんだろうね」
「人が多すぎて俺はあまり好きではない」
ばっさり一蹴するギルベルトにイリスは苦笑した。言われずともわかる。賑々しい祭りなんて彼が好むとは思えない。
「わたしも人混みは苦手だよ。でもマリーナから聞いたんだ。帝都の収穫祭では花火というものをやるんだってね。闇夜に咲く花とは面白い」
「セパヌイールにはないのか?」
「残念ながらないね。だから、どんなものかと思って」
ベールアの帝都は技術と経済の中心地でもある。他国からの留学生も多く、観光客も訪れる街だ。
そこで披露される花火とやらは最先端の興業で、職人も技師もまだまだ少ない。セパヌイールのような田舎にまで浸透するには時間を要するであろう。
「……見たいなら、連れて行く」
「え、いいの?」
ぼそりと言われた言葉に問い返すと、ギルベルトは小さく頷いた。
母国以外の祭りなんて初めてだ。しかもそれがベールアで一番大きな祭りとは。
子供のように胸が躍ってしまう。――しかし。
「君は病み上がりだろう? それなのに苦手な人混みだなんてつらくはないの?」
「問題ない。花火が見えて人のいない場所には心当たりがある」
つまり、穴場というわけか。それなら気兼ねなく楽しめそうだ。
「嬉しいよ。ありがとう」
翡翠色の眼をうっとりと細めてイリスは笑った。するとまた、ギルベルトは俯いてしまう。
「……いい加減、慣れてほしいな。でないと、わたしまで恥ずかしくなってしまうよ」
ギルベルトがたまに見せる不可解な反応。それらすべて、イリスに対する好意が強すぎるせいだったというのは理解している。
好意を抱かれていたのは素直に嬉しい。でも、そんな反応を繰り返されていたのでは、いつまで経っても夫婦らしく振る舞えない。
そう、夫婦らしくない。夫婦らしいことはまだ何も――口づけすらも交わしていない。
一度、痛み止めの薬を飲んで眠気に誘われた彼がイリスの手に唇で触れたのがせいぜいだ。それすら、ほぼ無意識だったらしく目覚めた彼は覚えていなかった。
二人の間にわだかまりは何もない。ただ、療養を経て機会を逸し、ずるずるそのままの関係を続けてしまっている状態だ。積み上がっていた仕事を片付けるのに忙しかったのもある。
現状でいえば友達以上恋人未満。夫婦であるにも関わらず。
正直、イリスにとっては心地の良い関係ではある。友達であった頃に戻れたようで楽しい日々だ。
これではだめだという思いがありつつ、つい、その居心地の良さに甘えてしまう。
「そうだ、久々に庭へ出てゆっくり話そうか。今なら秋の花が咲いているよ」
あの花の庭で語り合いたいと彼は言った。それはイリスも同じ。
睡蓮は時期が過ぎてしまったけれど、秋の薔薇なら咲いているはずだ。
イリスにとってあの場所は特別だ。彼と過ごした時間は忘れられない。
でも、そこで二人は友達になった。なってしまった。それが原因で前に進めないなら、またあの場所から再出発できないか。
イリスはそう考えたのだ。
しかし、ギルベルトはしばらく黙したままだった。都合が悪かっただろうかとイリスが不安になり始めた時、ようやく動き出して書類の束をトントンと整え、それを持って立ち上がる。
「すまないが、庭へは行けない」
「そ、そう。じゃあまた今度……」
執務室を出ようとするギルベルトが断りを入れ、やはり用があるのかとイリスが諦めた時だった。
すれ違いざま、わずかに屈み、彼はイリスの耳元へ唇を寄せる。
「今夜、お前の部屋へ行く」
その囁きに驚き、ぎょっと目を剥いて彼の顔を見る。
厳めしい顔で、口を引き結んで。決意を込めた強い眼差しが金色に光っていた。
それなのに肌は赤く染まっていて、彼はその場にいるのが耐えがたくなったように足早に部屋を出て行った。
残されたイリスは呆然として閉じた扉を見つめる。
それからゆっくり膝を折り、その場にへたり込んだ。
耳に残る囁きがざわざわと全身に拡がっていく。何か悪い病にでも罹ったみたいに顔が熱くなる。
「いや、だから、振り幅……!」
動揺を抑えるために文句を口にしつつ、イリスの頭の中ではまだ見たこともないはずの花火が盛大に打ち上がっていた。




