散る花が伸ばした手の先に
「……え?」
どうして彼がここに。
そう思った瞬間、魔物の追撃がきた。人間のものを模した手が二人に掴みかかってくる。
とっさにギルベルトはイリスを庇い、左腕でそれを受け止めた。みしり、と木が裂けるような嫌な音が響き、引き結んだ口の端からうめき声が漏れる。
しかしその金色の双眸を閉じることはしなかった。きつく眦を上げ、歯を食いしばり、魔物の手を掴み返す。そして鋭く伸びたギルベルトの爪が魔物の手を引きちぎった。
反撃を食らった魔物は後退して距離を取る。魔物の手は崩れ去ったが、ギルベルトの左腕もまた捻れ、あらぬ方向に向いていた。
膝をつき、荒い息で脂汗を滲ませ、それでも彼は片腕に抱えていたイリスを優しく地面に降ろした。そして半獣化した身体を揺らめかせて再び立ち上がる。
「ま、待って」
まだ上手く身体を動かせないイリスは彼の脚にすがりついた。視線を巡らせ周囲を伺っても黒い狼の姿はどこにもない。
でも、見上げた先にある夫の顔。
暗闇から抜け出してきたような漆黒の髪。金色の目の奥が反射して虹色の輝きを放っている。
その輝きには見覚えがあった。
「君は……」
驚くあまり言葉が続かなかった。己の大きな過ちに打ちのめされていた。
そんなイリスに、ギルベルトは見逃してしまいそうなほど微かな微笑みを見せた。
「あの花の庭でもう一度語らえたら、嬉しい」
そう言ってイリスの手を振り払うと、左腕をだらりと垂れ下げたまま大きく飛び上がった。
狙うのは顔。腕の再生に集中するためか、魔物の顔は再び人間のものに戻っていた。
急所への攻撃を察知したらしい魔物は仰け反って避けた。しかしギルベルトは腰の剣を引き抜くと顎下から脳天へ貫くように深々と突き刺す。
人間でも獣でもない、耳障りな咆哮をあげて魔物はのたうち回った。暴れる巨体に弾き飛ばされたギルベルトは地面に落ちると、勢い余って崖下へと滑り落ちていく。
「ああっ……!」
届きもしないのに伸ばしたイリスの手は空しく宙を掻いた。
しかしそれは一瞬。裂けて血が出るほど唇を噛みしめ、地面に爪を立て、手負いの獣のように唸りながらイリスは魔物を睨めつけた。
その大きな体躯はまだ形を保っている。核が壊しきれていないのだ。ばたばた藻掻き、剣を引き抜こうとしている。
その隙にイリスは大きく飛び込んだ。そこに落ちていた聖剣ミルフルールを手にするために。
「“花装”ミルフルール!」
聖なる言葉に呼応して戦闘装束がイリスの身を包む。
「“捩花閃翔”!」
螺旋の閃光が今度こそ魔物の頭を砕いた。ぼろぼろと巨躯が崩れていく。
その様を見届けることなく、イリスは痛む身体に鞭打って崖の端に駆け寄った。腕に力が入らず聖剣を取り落とし、乗り出すように四つん這いになって覗き込む。
遥か下に樹海が見えた。びょう、と風が吹きすさぶ。イリスが掴んだ崖の縁がわずかに崩れ、土塊がぱらぱらと落ちた。
絶望をもってその行く末を見やり――イリスは翡翠色の眼を見開く。
わずかに張り出した岩を掴んでいる手が見えた。
はっと息を飲んで目をこらす。半獣化が解け、人の姿に戻ったギルベルトがたった腕一本だけで命を繋いでいた。
「待っていて、今、助けるから……!」
イリスは慌ててその手を差し出した。しかし、指先が彼の手に触れる寸前、掴んでいた岩が耐えきれずに崩れた。
「ギルベルト!」
初めて呼んだ名前は絶叫であった。目一杯に手を伸ばし、傾いだイリスの身体はそのまま彼を追って宙に放り出される。
聖剣を手放していたイリスの戦闘装束は再び解ける。大輪の花が散るように花弁が舞った。
身を守るものはもう何もない。でも怖くはなかった。ただ彼の腕を掴み、掻き抱いて、二人で逆さまに墜ちていく。
「わたしも君とまた、あの場所で会いたかったよ」
舞う花弁に、イリスの目尻から散った涙が混じった。
その花弁と涙が、突如巻き起こった突風に渦を巻いて舞い上がる。イリスとギルベルトの身体も風の力で浮き上がり、イリスは離れないよう、より強く彼を抱きしめた。
「ぎりぎり間に合ったな。――どうだ、俺だってたまには役に立つだろう?」
場違いなほど軽快な声。しかし頬に冷や汗を垂らしたその顔は、口元こそ笑ってはいたが眼差しは真剣そのものだった。
金色の翼がはためく。
風を操るカイが、太陽を背負って二人の姿を見下ろしていた。




