狼の正体
イリスたちが駆け抜けた先に、それはいた。
見た目は立派な角を持つ男鹿である。しかしその顔はまるで人。後ろ脚は蹄を持つ獣の脚であるのに、前足は人間の手であった。
その異様な姿の魔物が、背の高い木の幹をがりがりと引っ掻いている。視線を向けている先、樹上にはイリスたちと同じ軍服を着た兵士がいた。
兵士は折れた剣で魔物を牽制していた。その傍らには意識が朦朧とした様子の兵士がもう一人。怪我をした仲間を庇いながら、懸命にそこまで登ったのだろう。
「“鉄線花風斬”!」
イリスが聖剣を振るうと具現化した斬撃が風車のように回転しながら目標に向かって飛翔した。それは今にも兵士の足を掴んで引きずり下ろそうしていた魔物の腕を切り落とす。
地面に転がり落ちた腕は形を失って崩れていった。しかし飛び退いた魔物の腕はすでに再生を始めている。核を潰せなかったからだ。
突如現れたイリスと黒い狼に魔物は警戒しているようだった。そして、まだ治りきらない腕を庇いながら逃げ去っていく。
すかさずイリスは跡を追った。
「お前たちはそこにいろ!」
「は、はい!」
狼の彼がそう声をかけると、樹上の兵士が答えた。怪我人を抱えている以上、下手に動かすより援軍を待って救助したほうがいい。幸い、片方は意識がはっきりしている。他の魔物に襲われることさえなければ、持ちこたえてくれるだろう。
イリスに追いついてきた狼はそのまま魔物の背へと飛びかかって食らいついた。魔物は地面に転がってそれを振り払う。
投げ飛ばされた彼はイリスの傍に無事着地した。
起き上がった魔物は再び駆け出そうとする。しかし、できなかった。そこは切り立った崖の上だったのだ。
魔物は逃げるのを諦めたのか、はたまた腕の再生を終えて勝てると踏んだのか、イリスたちに向き直った。
その顔が、粘土でも捏ねるみたいに変化していく。
出来上がったのは幼い子供の顔だった。
「おかあさん、おかあさん」
甲高い子供の声だった。イリスはたまらず顔を顰める。
「貴様のような化け物など生んだ覚えはないよ」
あれは疑似餌だ。以前、ギルベルトが教えてくれた。食ったものの過去や未来の姿さえ写し取ることができると。ずいぶん雑な作りであるが、初めて見た者を動揺させるくらいの効果はある。
言葉も、おそらくは取り込んだ人間の記憶から引き出したものだ。外敵を怯ませる言葉をその場に応じて選んでいる。村で老爺に化けていた魔物の言動も、元となった犠牲者の思考と声をただ借りていただけ。
それは死者への冒涜に他ならない。
怒りがイリスの心を支配した。たとえこの魔物を倒したとして、食らわれた者は骨すらも帰ってこない。魔物と共に崩れ、消えてしまう。遺された者たちにはただ、無が与えられるのみ。
だというのに、声を、顔を、言葉を、まるで我が物のように扱う。次の獲物を狩るために。
「徒花よ、冥府の底で散り果てるがいい……!」
花のような戦闘装束を翻し、イリスは跳んだ。
狙うは顔だ。子供の顔を模したということはそこが最も弱い場所――核である。
閃く一閃。しかし、その切っ先が届く寸前、魔物の顔が再び変化する。
「イリス!」
異変を素早く察知したらしい、狼の彼の声がした。けれど今さら止まれない。
それはまるで硬い岩石。取り込めるのは生き物だけではないのか。驚愕したイリスの剣戟ははじき飛ばされ、男鹿の角に掬い上げられた身体は宙に舞った。
衝撃で聖剣が手から零れ落ちる。戦闘装束が解け、元の軍服に戻った。このまま地面に叩きつけられれば、ただでは済まない。
しかし衝撃で強く揺さぶられた頭が意識を混濁させる。目の焦点すら合わず、受け身が取れない。
せめて、君は逃げて。
そう言いたくても言葉は出てこない。
ここで死んだら、この人も、はぐれたギルベルトも救えない。
聖剣を与えられた者として、なんと情けない最期か。
悔しさで滲む涙。ぼやけた視界に、黒い狼の姿が映った。
いいや、違う。狼ではない。――人だ。
黒い髪。金色の瞳。紺色の軍服を着た、ベールア帝国第二皇子。
イリスの夫、ギルベルト。
その人が、イリスを抱き止めていた。




