勇ましくてごめん
とうに日も暮れた、帝都郊外の山の中。
イリスが住まうことになったクヴェレ城は人里離れた寂しい場所にあった。
とはいえ近くには街道が通り、川の分かれ道――分水嶺もある。立地を考えれば要衝と言えるだろう。敷地内には兵舎や演習場もあり、有事には帝都を守る防衛の拠点となることが窺えた。
少し、ほっとした。帝都は煌びやかな都会で興味深くはあるものの、このように静かな場所のほうが落ち着く。
ただ、今はそれどころではなかった。
「本日より妃殿下にお仕えいたします者どもにございます」
「ええ。皆さん、よろしくお願いいたします」
ずらりと並んだ使用人たちの前で、イリスは余所行きの笑顔を浮かべながら挨拶に応じていた。
代表して口上を述べた年嵩の侍女頭以下全員、当然ながら知らない顔である。
花婿殿はといえば到着して早々に兵舎へ呼ばれて姿を消した。イリスは馬車に、彼は自分の馬に乗っていたから、結局一度も言葉を交わしていない。
「妃殿下の身の回りの雑事は、このミアとノーラにお申し付けください」
そう侍女頭が言うと、二人の少女が歩み出て一礼した。
二人とも、イリスより少し年若い。
「ミアと申します」
そう名乗ったのは黒髪を肩で切り揃えた少女。青い瞳が興味深そうにイリスのことを見つめていた。
「ノーラと申します」
次に名乗ったのは飴色のふわふわな髪を高く結い上げた少女。鳶色の瞳はどこか眠たげである。
着替えをミアが、故国より連れてきた唯一の共である聖剣ミルフルールをノーラが持って、イリスは自室へと案内された。
「こちらが妃殿下のお部屋にございます」
ミアが扉を開けた瞬間、イリスはうっと小さく呻く。
部屋中に溢れるフリルとリボン。壁には恋物語の一場面と思しき絵画が掛けられ、妖精たちが踊る彫像なども置かれている。
煌びやかすぎる。
これはあの花婿殿の趣味だろうか。だとしたら絶対に気が合わない。イリスも美しいものは好きだが、こうもごてごてとしていては落ち着かないし、まるで何でもかんでも物を置きたがる女児の部屋だ。
「どうかされましたか?」
「い、いえ、なんでもありません」
ノーラにおっとりと尋ねられ、はっと我に返ったイリスは意を決して部屋へと踏み入る。
用意されていた台座に、ノーラがミルフルールを置く。この部屋にあると聖剣もまるで玩具のようだ。
「では、お着替えを。失礼いたします」
ひとりでは着脱できない花嫁衣装をミアとノーラが脱がせていく。下着姿になると、その開放感に溜め息が漏れた。
「ええと、次は……」
畳んだドレスを腕に抱えたミアが、寝台に置いた夜着を取りに行く。小柄な少女がたっぷりとした布地を抱えてとてとて歩く姿が可愛らしく、その様子をつい見守っていたイリスは、彼女が持っているドレスの裾がでろんと垂れ下がっていることに気がついた。
あっ、と思った時にはもう遅い。引きずった裾を踏んだミアがつんのめって転んだ。しかも倒れた先にあったのは、花生けを抱えた妖精の彫像。
ミアの身長よりも大きなそれは真鍮で出来ていたが、花生けは陶器だった。その花生けが、衝撃を受けて妖精の手から離れて落ちる。――その真下に、倒れたままのミアがいた。
「きゃあっ!?」
「ミア!?」
ミアはとっさに頭を抱えてうずくまった。同僚が転んだことに気づいたノーラも声を上げたが、驚くあまり動けない。
直後、響いた破砕音。花生けはミアの頭に直撃する寸前、はじき飛ばされて壁にぶち当たり、生けてあった花と破片は無残な姿で床に散らばった。
「君、平気か!?」
その声に、固く目を瞑っていたミアが恐る恐る顔を上げる。
「あ、あの……妃殿下?」
不思議そうに、ミアは自身の傍に立つ人を見上げた。
下着――シュミーズの裾から脚を露わにしたイリスが、心配げな顔つきでミアに手を差し伸べた。その脚の脛あたりが赤い。落ちてきた花生けを蹴り飛ばして助けてくれたことを理解したミアは、ただただぽかんと口を開けるしかできなかった。そしてイリスもまた、手を差し伸べたまま何かに気づき、戸惑いの表情を浮かべる。
「君、それは……」
イリスの視線がミアの頭の上をじっと捉えていることに気づいて、彼女はとっさにそれを――飛び出してしまった獣の耳を両手で隠した。しかし腰元からは尻尾まで出ていて、そちらは隠す術もない。
「あ、あの、ごめんなさい! 驚くと、つい出てしまうんです!」
動転して戻すこともできないのか、尻尾の毛がブラシのようにぶわぶわと膨らんでいた。
「いや、こちらこそ不躾にすまなかったね。その……とても可愛らしいものだから、つい見惚れてしまった」
ベールアの人間は獣化することができる。完全に獣の姿になった兵士を見たこともある。わかってはいたが、こうして変化する様を目の当たりにするとやはり驚くものだ。ミアを傷つけてしまっただろうかと反省しつつも、可愛いと思ったのは事実なので、イリスはつい本音を口にしてしまった。
すると何故か、ミアの頬がみるみる赤くなっていく。
「どうしたんだい? やはり怪我を……」
「い、いえ、違います大丈夫です! そうではなくて、あの、妃殿下が、ずいぶん勇ましい御方だったので、驚いているのです……」
言われて、イリスは我に返った。
最初が肝要と、淑女らしくしていたのに。とっさのことでつい脚が出てしまったし、言葉遣いを取り繕うのも忘れてしまっていた。
「これは、そのっ……! 祖国では武人として生きていたものだから……!」
兵を率いる将だったのだ。聖剣を振るう者として強くあらねばならなかった。それが染みついてしまっているものだから、気を抜くとこうして素が出てしまう。これからはベールア帝国第二皇子の妃として振る舞わなければいけないのに。
「ええと、今のは忘れて……」
無理があるなと思いつつも一応言ってみる。しかしミアはイリスの背後に視線を向け、その言葉を聞いていないようだった。彼女の顔がみるみる青くなっていく。
その視線の先で、ひぇっと息を飲む声がした。ノーラの声だ。
どうしたと訝りながらイリスは振り返り――思わず戦闘の構えを取ってしまうほど驚いた。
「なんだ、これは」
その人の声を初めて聞いた。冷たく、鋭く、刺々しい。愛想というものをまるで知らないその声音は、粗相をした若い侍女とその同僚を震え上がらせるには十分すぎる威力を持っていた。
「あ、あああ、あの、申し訳……」
座り込んだままガタガタ震え、涙目になったミアが許しを乞おうとするも上手く言葉にならない。ノーラもただ怯えるばかりでその場から動けないでいる。
イリスはとっさに、ミアを背後に隠すように立ちふさがった。するとその人――ギルベルトは式典の時と同じように、不愉快そうに顔をしかめる。その視線の先には砕け散った花生けがあった。イリスは毅然と彼に向き合う。
「わたくしの不注意です、殿下。まことに申し訳ございません」
はっとミアが顔を上げ、何か言いたげに口を開いたがイリスは手のひらを彼女に向けてそれを制した。
「責は負う覚悟にございます」
「どうでもいい」
心底そう思っているみたいに、ギルベルトの金色の眼差しには冷たく凍えきっていた。イリスにはまるっきり興味もないようだ。しかもその身体からは酒精の香りが漂っている。姿を消していた間に、どこかで飲んできたのだろう。
ほんの刹那、夫婦となったばかりの二人は睨み合う。しかしそれを、物音を聞いて駆けつけた侍女頭が遮った。
「なんの騒ぎです!? まぁ、なんと! 妃殿下、お怪我は? まだお着替えの途中ではないですか! ミア、ノーラ、あなたたち何をぼんやりしているのです!?」
侍女頭は足早に部屋へ踏み入ってくると、寝台に置かれていたガウンを掴んできてイリスの肩に掛けた。そこでようやく、イリスは自身が下着姿のままだったことを思い出し、慌ててガウンの前を掻き合わせる。
侍女頭はおろおろするばかりのミアとノーラに掃除道具を持ってくるよう指示を出し、自身は大きな破片をてきぱきと回収し始める。その手際の良さに感心しつつ、ふと部屋の入り口に目を向けると、そこにはもうギルベルトの姿はなく、イリスはほっと安堵しつつも苛つきを募らせるのだった。