腹を割って話し合おう
寝台に腰掛け、ミアとノーラに左右から扇で扇いでもらう。それだけで少し気分が落ち着いてきた。
「ありがとう。もう大丈夫だよ」
頭痛と吐き気は治まってきた。でも、今度は下腹あたりが捻れるような痛みを伴って重い。手のひらにぴりぴりした感覚がある。あぁ、これは……と覚えのある予兆に憂鬱が増した。ベールアに来てそろそろ一月になる。前回は結婚式より少し前だったから、そろそろだとは思っていたが。
幸い、セパヌイールから持ち込んだ薬がある。しかし数に限りがあるから、フェリックスに相談して同じものが作れるか確認しておくべきか。いや、軍医である彼にそんな私用を頼むのは憚られる。病気ではないのだし、我慢できないこともない。
今、その薬は鏡台の片隅に置いた小箱にしまってある。水と一緒に持って来てもらおうと、ミアに視線を向けた時だった。部屋の扉が控え目に叩くものがあった。
すぐにノーラが応対に向かう。マリーナが何か伝え忘れたことでもあったのだろうか。
この部屋を訪ねてくる者は限られている。いくつかの顔を思い浮かべ……扉を開けたノーラの反応に、その誰でもないことを悟った。
「あ、あの……」
「お前たちは席を外してくれ」
そう告げられたノーラとミアが、指示を求めるようにイリスを見た。イリスもまた動揺したが、平静を装って彼女たちに頷いてみせる。
「大丈夫。二人も少し休憩しておいで」
「は、はい。では……」
一礼し、ノーラとミアは退室した。部屋に残されたのはイリスと訪問者――ギルベルトのみ。
「何か用かな」
少しだけ待ってみて、彼が何も言わないものだから嘆息しつつ訊ねてみる。
金色の目がじっとイリスを見ていた。やはり彼は美しい人だと思う。絵画めいて現実味がない。どう足掻こうと彼の寵愛を得ることはできないとわかっているから、より強くそう感じた。
「イリス」
感情の読めない声で彼が名を呼ぶ。――そして。
「お前には死んでもらう」
「……は?」
数拍の間を置いて、ようやく出たのがそんな間の抜けた声だった。
「な、何、言って……」
「必要なことだ。覚悟してくれ」
冗談を言っているようには聞こえない。彼は本気だ。
何故、なんて考えるまでもない。彼にとってイリスは邪魔な存在なのだから。
けれど、それだけで命を奪うまで至るだろうか。
彼が猛獣という噂通りの人物であるなら、それもあり得るだろう。
しかし今まで見てきた限り、このギルベルトという男は感情まかせに力を振るう愚か者ではない。
それに、気に入らないというだけで殺すなら、今までにいくらでも機会はあったはずだ。それこそ、彼の接近にまるで気づかなかった初夜にでも。
今である理由。考え至った瞬間、血の気が引いた。
寝台から立ち上がったイリスはギルベルトの眼前まで歩み寄り、その場で膝をついて項垂れた。抵抗する意思なく、首を差し出した姿だった。
「すべての咎はわたしにある。けれど、あの人は……あの人は、ただわたしの我が儘に付き合って、話し相手になってくれていただけ。わたしが巻き込んでしまっただけ。どうか、この首に免じて、寛大なご処断を」
あの兵士との逢瀬が知られてしまった。それしかない。
あなただって同じことを……いや、それ以上のことをしているくせにという不平が過ぎるものの、言っても詮ないことだ。一般に女の不貞は男よりも罪が重いとされる。貴人である男が妻に不義密通を働かれることは恥であるからだ。
もちろんイリスとあの狼の兵士との間には何もなかった。しかしそれを主張したところで、イリスも彼も尋問を免れはしない。だったらせめてこの命と引き替えに、彼の無罪放免を乞うしかない。それがイリスにできる、彼への唯一の詫びだった。
ギルベルトは答えなかった。代わりに、肩に何かが触れる。しかしそれは刃の冷たさではない。まるで労るような温もりを持った、彼の手だった。
驚いて顔を上げる。そして、見た。揺れる金色の瞳。苦痛に耐えるように歪んだ眉。
悪意も嫌悪もそこには感じられなかった。
「……違う」
絞り出すような声とともに、彼はイリスの手を取る。怖々と遠慮がちに。
「違うんだ。すまない、話す順番を間違えてしまった……」
訥々と話すその様子は、まるで歩き始めた幼子のようにたどたどしくて、目が離せなくなる。
ギルベルトはゆっくりとイリスを立ち上がらせた。手を引かれるままそれに従い、イリスは視線で話の続きを促す。
「お前はセパヌイールに帰るんだ」
「……離縁ということ?」
それはできないはずだ。女神を祀る寺院で夫婦の誓いをたて、署名した。その誓いを破るということは神への裏切りであり禁忌。二人を分かつものは唯一、死のみ。ましてやこれはベールア帝が決めた婚姻である。当人たちの好きだ嫌いだで勝手にどうこうできる話ではない。
その疑問に応えるように、彼は首を横に振った。
「無理だ。だから、お前には死んでもらう……いや、急な病に倒れて死んだということにして、母国へ帰るんだ。帰ったところで、もうセパヌイールの王女として表に出ることはできなくなるが、父君や弟妹のもとへ身を寄せることはできる。聖剣も遺品として送り届けよう」
つまりは出て行けということだ。ぎゅっと胸が痛む。今さらまだそんな感傷を抱いてしまう自分に呆れ、イリスは乾いた苦笑を浮かべた。
「……わかったよ。ただ、ひとつだけ。さっき、わたしがお願いしたことを叶えてもらえるだろうか……?」
「あぁ、わかっている」
そう答えたギルベルトは、より一層、苦しげに表情を歪めた。
「よほど、その者が大事なんだな……」
視線をそらし、イリスは小さく頷いた。彼は大切な友達だ。友達だった。もうすべて終わってしまったけれど。
「お前が国へ帰れば、その者も後を追っていくかもしれない。それを見咎めはしない。俺は、お前が幸せならそれだけで……。三人で、達者に暮らしてくれ」
「……うん?」
ギルベルトは真剣そのものである。しかし何かがおかしい。特に最後の一言は明らかにおかしい。言い間違いだろうか。
「三人? えっと、誰と誰と誰?」
父や弟妹のことだろうか。いや、それでは計算が合わない。イリスを入れれば合計で四人である。
すると、はっとしたようにギルベルトは目を見開いた。
「そうか、双子や三つ子という可能性もあるのか……」
イリスの弟と妹はそれぞれひとりずつで、年子である。双子ではない。いよいよわからなくなってきた。
「君はさっきから何を言っているんだ」
「何をって……その……子ができたんだろう?」
「……はぁっ!?」
自分でも驚くほど大きな声が出た。イリスは慌ててギルベルトの手を振り払い、後退る。
「そんなわけがないだろう!? さっきも言ったように、あの人とは本当に何もなかったんだ! わたしは、まだ誰とも……!」
「え? いや、しかし……」
「信じられないというなら、君が直接その目で確かめてみればいいじゃないか!」
言ってから、はっとして両手で口元を覆った。まるで誘っているみたいなことを口走ってしまった気がする。
ギルベルトは目を丸くして言葉も出ない様子だった。それもそうだ。こんな言い掛かりをつけてまで遠ざけようしている女に誘われたとて嬉しいわけがないし、むしろ不愉快なはずだ。羞恥で顔が茹で上がったように熱くなる。頭がくらくらしてきた。そういえば薬を飲めていない。
「ち、違っ……! そんなつもりで言ったんじゃないんだ!」
慌てて撤回する。これ以上、気のない男にしがみつく無様な女だとは思われたくなかった。
「君の気持ちは知ってるよ」
言うと、彼はぎくりと震えた。そして気まずそうに目を伏せる。
「それは……嫌な思いをさせて悪かった」
「別に構わない。人を愛する心というのは何より高潔なものだからね。その気持ちを大切にするといいよ。でもね、自分が、その、そういうことをしているからって、わたしも同じだと思わないでもらいたい」
「……そういうこと、とは?」
まるで何もわかってないみたいな、とぼけたことを言うギルベルトに腹が立った。言葉にするのも恥ずかしいのに、全部言わせるつもりかと。
「だからっ! していただろう!? 兵舎の裏で……!」
その時、廊下からばたばたと慌てた足音がいくつも重なって聞こえてきた。無遠慮に押し開かれた扉から最初に駆け込んできたのはマリーナだ。次いでミアとノーラが顔を出す。二人とも息が切れている。きっと言い争う声を聞いて、慌ててマリーナを呼びに行ったのだろう。
良い判断だ。だが、余計なものも連れてきてしまった。いや、おそらく勝手についてきたのだろう。今一番、イリスが見たくない顔だった。
勢い余って、その顔に向かって指差しながらイリスは叫んだ。
「く、口づけを! あれと!」
「「「「「えっ」」」」」
その場にいた、イリスを除く全員の声が重なった。
ぽかんとした少女たちの表情を見て、他人の秘め事を第三者の前で告発してしまったことに気づく。しかも指差して『あれ』とか言ってしまった。急に視界に飛び込んできたものだから、つい。
などと頭の中で言い訳していると、視界がぐにゃりと歪んだ。キーンと鋭い耳鳴りがして、全身の感覚が失われていく。
膝が折れ、仰向けに倒れたイリスを抱き留めたのはギルベルトだった。歪む視界に映った彼の瞳は動揺しているように見えた。
「イリス……!?」
心配してくれているのか。その態度に偽りはないように思えた。どうして、と思いながら、意識が遠ざかっていく。
最後まで残っていた聴覚は、こんな会話を拾った。
「やっべ。俺、鼻でベリー食うしかないわ」
「急に何言い出すんですの!? 今はカイ兄様のトンチキな芸を見ている場合ではないですけど!? いいからさっさとフェリックス先生を呼んできてください!」
マリーナがカイを追い立て、なぜか窓が開く音がした。それから、羽音。大きな鳥だろうか。わからない。イリス様、と涙声で呼ぶミアとノーラの声もする。
そこで完全に意識は途切れた。




