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近くにいるのに心は遠い

「イリス様、大丈夫ですか?」

 朝、いつもは侍女たちが身支度を手伝いにくるより早く起きているイリスが寝台から出てこない。

 毛布を頭からすっぽり被り、まるでダンゴムシのような姿になっている主にミアとノーラは困り果てていた。

「せめてお粥だけでも召し上がりませんか?」

 その誘いに、昨夜もまともに食事をしていないことを思い出したイリスはのっそりと身を起こした。ただでさえ癖毛なのが、さらに酷いことになっている。

 粥の載った盆を膝の上に置いてもらい、寝台に入ったままで食事をする。まるで病人のようだ。食べている間にミアによって髪を整えられ、情けない気持ちになる。

「すまないね。気を遣わせてしまって」

「いいえ、お気になさらず! だって大事なお体ですから!」

「え?」

 妙に張り切った調子で答えるミアに違和感を覚えた。それと同時にノーラが慌てた様子で、空になった食器を下げる。

「そ、そうだイリス様! マリーナ様が帝都へお戻りになるそうでして。お見送りはいかがしましょう?」

「あぁ、もちろん行くよ」

 せっかく遊びに来てくれていたのに、ほったらかしにしてしまった。せめて帰り際くらいは顔を見せなければ。

 身支度を調えてマリーナが泊まる際に使っている部屋を訪ねる。しかし彼女はすでに辞した後で、部屋の掃除をしていた侍女によると演習場に向かったらしい。

「カイ様を捜しに行かれたようです」

 マリーナが帰るには護衛役のカイが必要だ。なるほどと納得してイリスはミアたちと共に演習場へ向かったのだが、そこは謎の喧噪に包まれていた。

 どうやら、ギルベルトとカイが兵士たちと手合わせをしているらしい。その様子を、用意された長椅子に腰掛けたマリーナが退屈そうに眺めていた。

「どうしたんだい、マリーナ?」

「あら、お義姉様ごきげんよう。――どうもこうもありません。わたくし早く帰りたいのに、カイ兄様が訓練に参加すると言うので終わるまで待たされているんです。いつもはだらだら怠け者のくせに、こんな時に限って張り切っちゃって」

 侍女のリリエラが掲げる日傘の下で、むすぅっと頬を膨らませるマリーナ。

「帰りたくない理由でもあるのかしら」

 また何かやらかしてレオ兄様を怒らせたのかもしれないわ、とマリーナは呆れたように呟いたけれど、背中合わせで戦うギルベルトとカイの姿に、イリスは諦念じみた溜め息を零した。

「仲の良い者同士を引き離すのは無粋だよ。――急ぎの用事なのかい?」

「え!? い、いえ、そういうわけでは……!」

 どういうわけかマリーナは慌てだした。そんなにおかしなことを訊いただろうか。

「そ、そうだ! お義姉様も観戦しません!? ギル兄様、戦ってる姿はかっこいいんですよ!」

 マリーナは長椅子の空いている場所をぽんぽん叩いて、座るようイリスに促す。彼のことは見ているだけで空しくなるけれど、それを言うわけにもいかず素直に従った。リリエラがさりげなく、日傘の陰にイリスも入れてくれる。

 マリーナの言う通り、ギルベルトの剣捌きは見事だ。時には剣を手放し空中高く放り投げ、当て身や蹴り技を打ち込んでから再び剣を手に取るという曲芸のようなことまでやってのける。

 カイもなかなかのものだ。彼は魔道士であったらしい。素早く複雑な印を結び、光の盾を発現し攻撃を防いでいる。

 その時、カイと対峙していた兵士に異変があった。一旦大きく跳び退ると、次の瞬間その背中に黒い翼が出現する。

 しかしカイがぱちんと指を弾くと、兵士はその力を発揮する間もなく突風で吹き飛ばされしまった。

「俺に空中戦を挑んでくる気概は気に入ったぜ」

「はい! 手合わせありがとうござます!」

 素早く立ち上がった兵士が背筋を伸ばして敬礼する。

 その姿を見て、イリスの背筋に冷たい汗が流れた。

 そうだ。ここは多くの兵士たちがいる。ああして獣化できる者もいる。

 であれば、あの人もここにいるはずなのだ。人の姿ではどのような顔をしているのか、名前すらも知らないけれど、必ずいる。

 今こうしている間にも、彼はイリスに視線を向けているかもしれない。

 そう思うと罪悪感で息が苦しくなった。呼吸が浅くなる。酸素が回らなくなって、頭痛と同時に吐き気がこみ上げてきた。とっさに口元を押さえ、背中を丸める。

「お義姉様、大丈夫ですか!?」

「へ、平気だよ。でも、ごめん。部屋に戻って休ませてもらうね。準備ができたら、わたしのことは気にしないで帰ってくれて構わないから」

 ミアとノーラに支えられてよろよろと立ち上がる。危うく、さっき食べたものを戻しそうになった。そんな醜態をこんな大勢の前で晒すわけにはいかない。

 心配げなマリーナをその場に残し、イリスは足早に立ち去った。


 ◇◆◇◆◇


 何か考え事をする時は身体を動かしていたほうがいい。

 兵士たちとの鍛錬は日課であり、彼らの攻撃はほぼ無意識に受け流すことができる。

 よって、ギルベルトは普段通りの涼しい顔をしながら剣をふるい、しかし頭の中では必死でイリスのことを考えていた。

 もうだめだと思う。完全に嫌われてしまった。強引に迫ってはいけないと言われていたのに、焦るあまり友達からその先へ進みたいと欲を出してしまった。

 別の誰かに向いているであろう彼女の心を取り戻すことなんて二度と適わない。

 ふと気がつけばマリーナを捜しにきたのであろうイリスが演習場の側にいて、しかも体調が悪そうな素振りを見せると侍女たちに付き添われてすぐに帰ってしまった。

 その後ろ姿に胸が締め付けられる。

「お、おい。ギルベルト。さすがにまずいぞ」

 マリーナを足止めするため、手合わせに飛び入り参加していたカイが焦りながら肩を叩いてきた。回りの兵士たちもなぜか遠巻きにしている。

「……あぁ、まずいな」

「いや、そうじゃなくて。それ」

 言いつつカイが指差したのは、ギルベルトに絞め技をかけられてじたばた藻掻いている兵士だった。慌てて放してやると、ぜぇはぁ息を整えながら地面に転がる。

「すまん」

「い、いえ、勉強になりました……!」

 兵士は殊勝にも立ち上がって礼をしたが、無意識すぎて危うく部下を手に掛けてしまうところだった。本当にもうだめだ。

 それに、イリスが本当に子を宿しているのなら、迷っている時間はない。

「……彼女と話してくる」

「おいおい、大丈夫か? お前ひとりでなんて不安すぎるぞ」

「ちょっとカイ兄様! どこ行くんですの!? さすがにもう帰りますわよ!」

 カイがついて来ようとしたが、しびれを切らしたマリーナがそれを阻む。

 覚悟を決めたギルベルトは、拳を強く握ってイリスの部屋へと足を向けた。

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