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結婚は人生のなんとやらって言いますし

 ベールア帝国の帝都ヴォルフェンに、祝福の鐘が鳴り響く。

 目抜き通りは婚儀の隊列を一目見ようと集まった人々でごった返していた。

「ねぇ、おかあさん。これはなぁに? おまつり?」

 見物客の中で幼い子供が目をきょときょとさせながら母親に尋ねる。豊穣を祝う祭りより人が多くて、こんなのは初めてだった。

「皇子様がご結婚なさるのよ。あぁ、ほら見て。馬車の列が来たわ!」

「みえないよぅ」

 嬉しそうに遠くを指差す母に、人混みの中の子供はぶすっと頬を膨らませて俯いた。見かねた父親が抱き上げ、目線を高くしてくれる。

 人々の頭の隙間から、馬車がゆっくりと、何台も通り過ぎていくのが見えた。足並み揃えて行進する音楽隊の、喇叭や太鼓の音。なんだかよくわからないけれど、すごく楽しい。

「坊や、今夜はきっとご馳走が食べられるよ。宮殿からお祝いが配られたからね」

 隣にいたおばあさんがそう言って笑いかけ、手に持っていた籠の中から花を一輪くれた。周りの人も花を手にしている。

 やがて一際豪奢な馬車が見えた。金銀の飾りがしゃらしゃらと鳴る。その馬車の中に、大輪の花が咲いていた。

 鮮やかな赤紫の花。それが人だと気づいたのは、馬車が通り過ぎてからだった。

 白い花嫁衣装の上にたっぷりと流れる、ゆるく波打つ菖蒲あやめ色の髪。一吹きの風で揺れた面紗ベールから垣間見えた、翡翠のような凜とした光を宿す緑色の瞳。人々はわぁっと歓声を上げ、花を馬車に向かって投げた。

「綺麗な花嫁様だねぇ。あんな髪の色は見たことがないよ」

「どこの国のお生まれだったかな?」

「セパヌイールだってよ」

「どこだい、そりゃ?」

「確かここより南西のほうにある、小さな島国だったかな。花の国って呼ばれているくらい緑豊かな国らしいが、まぁ平たく言えば田舎だな」

「なんだってそんな辺鄙なところからお迎えになったんだろうね?」

「しばらく前に大規模な魔物討伐があったろう? あれで随分なご活躍をされたそうだ」

 訳知り顔で得意げに話す若者に、周囲の人々がへぇっと感心したような声を上げた。

「あんな細っこい姫様が魔物と戦ったのかい。セパヌイールのお人なら、ベールアの軍人のように獣化して戦うわけじゃないんだろう?」

「あぁ。でもセパヌイールに伝わる聖剣の使い手でそりゃあ勇猛な戦いぶりだったらしい。俺の兄貴が軍医の助手やってて、あの姫様に助けられた兵士が何人も担ぎ込まれたって聞いたぜ」

「そいつはご立派だ。しかし……だったらやっぱり軍事同盟としての結婚なのかね。お可哀想なことだ」

「まぁね。しかも優しくて社交的な皇太子様と違って、あの弟君だから……」

「寡黙といえば聞こえはいいが、無愛想で何を考えているのかわからねぇんだよな。人前に出てくることもほとんどないし、件の戦では部隊に大きな損害を出したそうじゃないか」

「魔物に捕まった子供ごと斬ったっていう話を聞いたことがあるよ。そこんとこどうなんだい?」

「い、いやぁ。兄貴も上司にどやされながら、てんてこまいで働いてたらしいからそこまでは……」

 興味津々で若者を取り囲んでいた人々が、なんだぁっと嘆息して方々に散っていく。そんな噂話のざわめきがそちらこちらで起きていた。馬車の隊列もすっかり通り過ぎて音楽も遠ざかり、さてどこに飲みに行こうかと、祭りの余韻に浸った群衆がぞろぞろ移動を始める。

 父親の腕に抱かれたままの子供の手には、投げそびれた花がまだ残っていた。握った手の温かさに負けて少し項垂れてしまった花。

 さっき見た美しい人に、似ていると思った。


 「あぁ、帰りたい」

 馬車の中、ひとりきりなのを良いことに、イリスは乾いた笑みを浮かべながら何度もそうつぶやいていた。

 嫁いできたことを後悔しているわけじゃない。それはもう覚悟が決まっている。煮るなり焼くなり好きにしろと思っている。

 ただひとつ、侍女のひとりも連れずに来たことが不安でならなかった。

 母を亡くして以来、武人として国を守るため己を鍛えてきた。だが、それまでのイリスはどちらかと言えば引っ込み思案で大人しい少女だったのだ。

 知らない人と対面するのは苦手……いわゆる人見知りである。

 母国で世話になっていた侍女たちは、皆揃って一緒についていくと手を挙げてくれた。しかし彼女たちはセパヌイールの民である。民は国の宝だ。この身と聖剣を求められ、さらには女たちまでベールアにくれてやる謂われなどない。

 だからベールアから来た迎えの船にはたったひとりで乗り込んだ。魔物討伐で赴いたことのある地だという慣れもあった。しかしあの時は部下の兵たちもいたわけで、いざこうしてひとりきりになってみると思っていた以上に心細い。

 港で馬車に乗り換えて、人々の好奇の視線を浴びながら帝都に向かうのはまるで見世物にされているみたいで居心地悪いことこの上なかった。

 どんよりと重い気持ちと花嫁衣装の裾を引きずって、介添人に導かれるまま寺院に入る。

 聖歌隊の美しい歌声は見事だったが聞き惚れている余裕はなかった。顔を隠す面紗のおかげで視界は悪く、気配だけを頼りに周囲を窺う。

 司祭の待つ祭壇まで歩み出た時、隣に介添人ではない誰かが立ったのがわかった。俯いたまま面紗の隙間から足元に視線を向ける。軍靴が見えた。男だ。

 その瞬間、どっと汗が出た。たぶん、きっと、いや間違いなく、花婿殿だ。

 びっくりした。まったく気配を感じなかった。この男、できる。

 いやそうじゃない。ここは戦場じゃない。イリスにとっては戦も同然ではあるが。

 花婿に関することはほとんど何も知らない。名前と年齢、そして良からぬ噂くらいだ。会うのもこれが初めてで、当然ながら言葉を交わしたことだってない。

 実際のところどのような人なのか。気にならないと言ったら嘘になる。

 司祭による祈りの言葉が続いていた。顔は正面を向いたまま動かせない。相手を横目で窺おうにも面紗が邪魔でよく見えず――

「――誓いますか?」

「え?」

「……誓いますか?」

「あっ、は、はい! 誓いまひゅ!」

 噛んだ。言い逃れできないくらい思いっきり噛んだ。いつの間にか聖歌隊の歌も止んでいて静まりかえった寺院の広い堂内に、それはそれは高らかに響き渡るほど盛大に噛んだ。

 参列者たちの間から忍び笑いが聞こえた。面紗の下の顔が熱くなる。

 よそ見をしていたのが悪い。わかってはいるが、今すぐ面紗をはぎ取って床に投げ捨てて国に帰りたい衝動に駆られた。好きでこんな所に来たわけじゃない。誓いの言葉なんて上辺のみだ。そんな言葉、噛もうが何しようが別にいいだろうと開き直りたくなる。

 司祭は何事もなかったように式を進行していく。ベールアの伝統に則り、誓いの言葉を述べた後は誓約書に署名をして終わりだ。

 名を記し、筆を置いた瞬間、イリスの人生も終わった気がした。

 これでもう、イリスはセパヌイールの王女ではなくなった。

 父の、亡き母の、弟妹の顔が脳裏に浮かぶ。

 これで良かったのだ。家族とセパヌイールの民を守るためなら安いもの。誰にも悟られないようにひっそりと溜め息を零して、湧き出してきた望郷の念は捨てた。

 婚姻の儀を終え、花婿の手によって花嫁の面紗が取られる。

 視界に入った手の大きさにまず驚いた。ひとつだけとはいえ年下だったはずだが、イリスのそれよりもずっと大きい。

 視界を遮っていた薄絹が取り払われ、目の前に立つその人と初めて対峙した。

 ぐっと首を反らして見上げる。イリスは決して小柄なほうではないが、そうしないと相手の顔が見えなかった。

 深い夜のような漆黒の髪。それに隠れがちになっている黄金色の双眸がイリスをじっと見下ろしていた。

 精悍さと、女性と見紛うほどの繊細さを併せ持つ顔つきだった。王族の努めを全うするつもりで生きてきて、色恋になど興味のなかったイリスだったが、この青年の容貌が飛び抜けて優れているのは一目で理解した。歴史に名を残す彫刻家による一世一代の力作と言われたならば信じてしまいそうなほどである。

 故に、つい美術品を鑑賞しているような錯覚を覚えてまじまじと見つめてしまった。

 どれほどの間、そうしていたのか。はっと我に返り、彼が花婿であり夫であることを思い出す。

 思い出した瞬間、まるでこの身の内から地響きでも起きているのかと思うほど心臓が大きく暴れ出して冷や汗が出た。

 公務で見知らぬ者と形式的な挨拶を交わすのならば、気を張ることなくできる。しかし相手は夫。これから先の人生を共にするのだ。噂通りの冷酷な人間であったとしても、せめて友好な関係を築かなければ。

 そう思うと余計に顔が強張る。どうにかこうにか笑顔らしきものを取り繕って、見下ろしてくる金色の眼差しに応じ――彼の眉間に、深々と皺が寄った。

 いかにも不愉快だと言わんばかりに目を細めてイリスを睨めつけると、ふいっと視線を外してしまう。

「なっ……」

 必死に持ち上げた口角が引き攣った。

 なんだそれは。今のどこに怒る要素があったというのだ。誓いの言葉を噛んだからか。彼の父である皇帝に命じられたとて、望まぬ結婚はお互い様だ。こちらは聖剣まで携えて嫁いできたというのに。

 ぐっと拳を握って、夫である若者の横顔を睨む。しかし彼はもうこちらを一瞥すらしない。腹が立ち、イリスもまたそっぽを向いた。

「女神の御名の許、ギルベルト殿下、イリス妃殿下、御両名を夫婦と認めます。皆様どうぞ祝福を」

 司祭の厳かな声に拍手と歓声が上がる。

 しかし当の夫婦はといえば、互いに顔を背けて目を合わせることすらしなかった。

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