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少しだけ昔話

『剣の乙女の冒険譚』の作者であるカッセル氏は市街地のど真ん中に居を構えていた。

 とはいえ一等地ではない。小さな商店がひしめく細い通りに面した、古書店が氏の住処であるらしかった。

 当然、馬車を近くに寄せることはできない。少し離れた広場に停めて、歩く。

 帝都へ着いたと同時にギルベルトはどこかへ行ってしまった。たぶん宮殿だろうけれど、どうでもいい。興味はない。

「先生。カッセル先生、ごきげんよう」

 軋む扉を押し開けてマリーナが呼びかけると、狭い店の奥で何やらごそごそと聞こえた。

「先生?」

 もう一度マリーナが呼ぶ。すると、折り重なった本の山が呼吸するみたいに上下して、その下からくぐもった声らしきものが聞こえた。

「いけない!」

 異変に気づいたイリスは腰に提げた聖剣を引っかけないように気をつけつつ床に詰まれた本をまたぎ、急いで駆け寄る。そして、わっせわっせと本を掘り、下に埋もれていた人を引っ張り出した。

「ぷはぁっ、死ぬかと思いました」

 出てきたのは白髪の小さな老人であった。齢七十といったところだろう。幸いなことに怪我もなさそうだ。

「もう、先生ったら何やってるんですの? こうなっては危ないから、宮殿の図書館にお移りくださいと何度も申し上げておりますのに」

 マリーナも、安堵と呆れの入り交じった顔で散らばった本の片付けを手伝う。そうしなければ、座る場所も確保できそうになかったからだ。

「いやはや、姫様、面目ない。しかしながら、儂は図書館の管理人なんぞできるほどの者ではないのです。ただの蒐集家でありますよ。著作も、ただの一冊きりです……から……」

 言いながら、イリスの存在に気づいた老人の、垂れ下がった瞼の奥で両の目が丸々と見開かれた。

「おお……なんと……! ヴィクトリア様! お久しゅうございます!」

「違いますわよ、先生。こちらのお方はご息女のイリス様です」

 マリーナの訂正に、カッセル氏は我に返る。

「おお、おお、では貴女様が、第二皇子殿下に嫁いでいらしたという……おお、とてもよく似ておられる……」

 興奮してか震えているカッセル氏を、本の山から引っ張り出した椅子に座らせる。ひとまずこれで話ができる状態にはなった。

 とはいえ、この店は狭い。狭い上に積み本の山が四方に築かれ、少しぶつかっただけでも崩れてきてしまいそうだ。連れてきた供全員を中へ入れることはできない。

 ひとまず、マリーナの侍女には傍にいてもらう。マリーナはベールア皇女であるから、イリスよりも身分が高いのだ。

 それだけで中はいっぱいになる。仕方なく、イリスは店の外で様子を窺っているミアとノーラに声をかけた。

「すまないが、待っていてくれるかい? ――そうだ、小一時間ほど二人で遊んでおいで。それで何か美味しいものでも食べるといい」

 それ、と言って指差したのは、ノーラに預けている手荷物だ。中にはいくらかの金と懐中時計、筆記用具が入っている。

 筆記用具だけを取り出して残りは再びノーラに持たせた。カッセル氏と話して、何か書き留めることがあればと思い持ってきておいたものだ。

「で、ですが……」

 いきなり遊んでこいと言われても困るのか、ミアもノーラもその場を動けないでいる。

「では、お遣いを頼もう。わたしは帝都のことを何も知らないんだ。だから、二人が気に入ったものを選んで買ってきて欲しい。少し多めがいいな。帰ったらネイディアや、みんなで一緒に食べられるようにね」

 そう言ってやると、二人の表情がぱぁっと華やいだ。

「わかりました!」

「おまかせください!」

 答えるや、きゃっきゃとはしゃぎながら二人は通りの向こうへ駆けていく。良い息抜きになればいい。

 店内に戻ったイリスは、マリーナが用意してくれた椅子に腰掛けてカッセル氏に向き合う。

「突然お訪ねして申し訳ありません。ですが、先生の御高著について、どうしてもお伺いしたくて。先生は母を――セパヌイールの剣士ヴィクトリアをご存じなのですね?」

 イリスの質問を、カッセル氏はうんうんと頷きながら聞いていた。

「儂が一方的に存じ上げていただけですよ。ご期待いただけるようなことは何も」

「良いのです。ささやかでも、母のことを知りたいのです」

「そうですか……。では、お話しましょう」


 ◇◆◇◆◇


 二十年ほど前のこと。

 カッセル氏は、今は亡き妻と共に世界を旅しながら稀少な本を蒐集して回っていた。

 セパヌイールを訪れたのは、古い時代の植物図鑑を入手するため。方々捜して情報を募り、滞在は長期に及んでいた。

 ようやく所持している人を見つけ、交渉に入ったがなかなか上手くいかない。その人は植物学者で、森の奥に咲く珍しい花を採ってきてくれたら手放しても良いと条件を出したそうだ。

 そこで夫妻は、ろくな装備もないままに、森に踏み入ってしまう。

 しかしそれより数日前から、森には魔物の目撃情報があったそうだ。

 少しくらいなら大丈夫だろう。そんな油断もあったという。けれど不運にも魔物に遭遇してしまった。

 もうだめだと覚悟を決めた瞬間、魔物を斬り伏したのがヴィクトリアであった。

 魔物の目撃情報を追い、駆けつけてくれた花を纏う剣士。その姿を、書き留めなければと思った。

 自らの仕事を全うし、颯爽と帰っていったヴィクトリアを追いかけ夫妻は王都に滞在場所を移した。

 そこで数年かけ、この物語を書き上げたのだという。そしてベールアに帰った後、印刷所を営む知人に草稿を見せてみると気に入り、出版に至ったそうだ。


 ◇◆◇◆◇


「ですので、お母上と何か交流があったわけではないのです。――ただ」

 懐かしむように、カッセル氏は微笑む。

「儂らがセパヌイールを離れる際、わざわざ見送りに来てくださいました。いえ、もしかしたら、別のどなたかに会いにいらしていたのかもしれません。けれど確かに、船の甲板に立つ儂らに手を振ってくださったように思うのです。その時、お母上は産まれたばかりの姫君を抱いておられました。イリス様、貴女です」

 カッセル氏の話を書き留めていた、イリスの手が止まった。

 その姿が目に浮かぶようだった。

 母は、人が好きだった。たった一瞬の邂逅でも、救った命が無事に故郷への帰路につくことを喜んだに違いない。

「こんなことくらいしか、お話しできることはなくて申し訳ない」

「いいえ、ありがとうございます。嬉しいです。母のこと、覚えていてくださって」

 最期は、人を救って亡くなった母。家族を遺していくことを母は悔いたかもしれないけど、かつて彼女の手がつなぎ止めた命は今ここにあって、こうしてイリスと向き合っている。

 誇らしい気持ちだ。

 もう一度、立ち上がってお礼を言おうとした、その時だった。

 ばたばたと慌ただしい足音が、店の中に飛び込んできた。

「妃殿下! ――イリス様!」

 飴色の髪を結い上げた少女ノーラが、入り口でつまづいて派手に転んだ。けれど彼女は身を起こすよりも先に、悲愴な声で訴える。

「ミアが……ミアがいなくなりました!」

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