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ほら言わんこっちゃない

 兵舎を訪ねると、イリスの姿に気づいた兵士たちは整列して敬礼の姿勢をとった。

 これは相当怖がられてしまったなと、先日のことを反省する。

「すまない。楽にしてほしい。――今、殿下はどちらに?」

「えー、そのー、兵舎の裏にいらっしゃるんですけど……」

 もごもごと歯切れの悪い返答だった。きっとまた、イリスが喧嘩を売りに来たと思っているのだろう。

「教えてくれてありがとう。――大丈夫。今日は暴れたりしないから」

 苦笑を見せ、イリスは兵舎の裏に向かった。

 ベリー類の良い香りがする。ベリーは強い果樹なので育てやすい反面、繁茂しやすく手入れが大変だ。これは助言したほうがいいかもしれないと思いつつ、そこにあるはずのギルベルトの姿を捜す。

 人の気配がした。自然とそちらに目が向く。

 果樹に遮られた陰の中に、それを見た。

 金色の長い髪。長身だが華奢な背中だった。その背に手を回し、抱きしめているのは、イリスの夫であるはずの男。

 二人、密やかに何かを語らっている。遠くて声は聞こえない。じっと見つめ合って、やがて顔を寄せ合い――イリスは足音を殺してその場を走り去った。

 演習場の前を通り過ぎる時、兵士たちに声をかけられたが立ち止まることはできなかった。

 走って、走って、いつもの奥庭に辿り着く。まだ明るい時間だ。誰もいない。

 それで良かった。今、もし狼の彼に会っていたら、酷い愚痴を聞かせてしまっていただろう。

 そして、これでようやく得心がいった。ギルベルトがどうしてあそこまでイリスを邪険に扱うのか。

 彼には他に愛する人がいるのだ。身分の差でもあるのか、あの女性とはわけあって結ばれなかったのだろう。

 そこにイリスが割り込んだ。邪魔に思われても仕方がない。

「別に、わたしだって、好きで結婚したんじゃない……」

 もう何度も思ったことだ。でも言葉にすると悔しさがこみ上げてくる。家族のもとを離れて寂しさを堪えてここにいるのに、愛する二人の仲を引き裂く魔女のように思われているのだ。憎まれ、疎まれているのだ。

 うずくまり、服の袖を噛んで声を押し殺しながらイリスは泣いた。

 愛してなんかいない。それ以前にろくに話したこともない男だ。

 それでも、好いた相手のいる男の隣に、妻の顔をして立つのは苦しい。何も悪いことなんてしていないのに、大罪を犯しているような気持ちになる。

 ひとしきり泣いて、ゆっくりと立ち上がった。頭がぼーっとする。

 なんかもう、どうでもいい。

 いっそ可笑しくなってきた。傍から見れば滑稽だろう。道化もいいところだ。最初から最後までイリスはひとりきりで踊っていたのだから。

 部屋へ戻ると、待っていたマリーナはぎょっと目を見開いて駆け寄ってきた。話し相手をしていたらしいミアとノーラも心配そうに顔を覗き込んでくる。

「まぁ、お義姉様! どうなさったの!? ギル兄様が何かひどいことをしまして!?」

「違う……違うんです。殿下には、会えなくて……。話はできませんでした」

「じゃあ、どうして……」

「マリーナがとても可愛らしいから、故郷にいる妹や弟のことを思い出してしまいました。それで、少し寂しくなって……。でも、もう大丈夫です。――大丈夫」

 また嘘をついてしまった。そしてその嘘は通じなかった。マリーナは自分自身が傷ついたみたいに泣きそうな顔をして、ぎゅっとイリスに抱きついてくる。

「ご安心なさって、お義姉様。マリーナがお傍にいますから」

「うん、ありがとう」

「それにね、ギル兄様がだめだめなのはよーく知っていますから。わたくしが爪紅を初めて塗った時に、嬉しくていろんな人に見せて回っていたら、あの人なんて言ったと思います? 『それは血豆か?』ですって! ほんと信じられない!」

「ははっ、それはひどいね」

「でしょー!?」

 そして二人、声を上げて笑った。

「マリーナ。明日、わたしを帝都に連れて行ってくれる?」

「ええ、もちろんです」

「ミア、ノーラ。明日出掛けることをネイディアに伝えて。そして、彼女から殿下に言伝するように頼んできてほしい」

「はい」

「わかりました」

 乳母であったネイディアからなら話を通しやすいはずだ。手間をかけてしまうのは申し訳ないけれど、これからは何事においてもそうしよう。出掛けたければ好きな時に出掛けよう。むしろ彼にとって、イリスはいないほうが良いに決まっている。好いた女と思う存分逢瀬を重ねれば良い。

 その晩は、一緒に寝たいとせがまれマリーナと共に床についた。

 いつもの東屋で狼の彼が待っているかもしれなかったが、まだ目元が腫れているから、行けなかった。

 明日、帝都の土産を持って行って謝ろうと思う。

 

 早朝。

 聖剣を携え、用意してもらった馬車の前で、イリスは愕然とした。

「なんで……」

 ここにいるんだ。その言葉は尻すぼみになって出てこなかった。

「帝都に用がある。それだけだ」

 愛馬を連れた彼はそっけなく答える。イリスの腕にしがみついているマリーナが噛みつくように尋ねた。

「カイ兄様はどうなさったの」

「あれは昨日のうちに帰した。そのほうが静かでいいだろう」

「まぁ、そうですけどぉ」

 知らない名前に、イリスは視線でマリーナに問いかける。

「従兄ですの。さすがにこちらまでの道中、侍女だけを連れてくるわけには参りませんから。無料で使える護衛です」

「そ、そう……。ご挨拶しなくて良かったのかな」

「必要ない」

「必要ないです」

 ギルベルトとマリーナ、二人の声が見事に重なった。声の調子がまったく同じで、やはり兄妹だなと妙に感心してしまう。

 ずいぶん扱いの悪い従兄とやらが気にならないでもないが、帰ってしまったものは仕方がない。またいずれ会うこともあろう。

 イリスはマリーナと馬車に乗り込む。マリーナが乗ってきたほうの馬車には、彼女の侍女と、ミアとノーラに乗ってもらった。皇子の妻である以上、共を連れずに出歩くことはできない。

 皇子の妻。その言葉を思い浮かべ、傷む心はもうない。むしろ鼻で笑いたくなってくる。

「お義姉様、大丈夫ですか?」

「平気だよ。ありがとう」

 そう答えつつ、まとめた髪に挿した髪留めに触れた。

 大粒の真珠がついた金細工。父が母に贈ったもので、形見としてもらい受けたもののひとつだ。

 母に縁のある人を訪ねるのなら、道中のお守りとしても丁度良いだろう。

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