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少しずつ距離は縮ま……る?

 月には少し雲がかかっている。

 この晴れぬ心のようで陰鬱だった。

「やぁ、こんばんは」

 睡蓮の池の畔。そこに現れた、獣の姿をした人に力なく笑いかけた。彼は小さく頷き、並んで座る。

 今のイリスの出で立ちは、昨夜と違い平服を着ている。質の良いものだが装飾らしいものはなく動きやすくて良い。座った膝の上には小さな布包みが置かれていた。

「今日は、驚いた」

 ぼそりと狼の彼が零す。なんのことだろうと少し考え、思い至った。彼は兵士だ。今日、人の姿であの場にいたのだろう。

「突然訪ねてすまなかったね。迷惑だったろう?」

 彼ら兵士にとって住処であり職場だ。そこにずかずか踏み込んで暴れた。褒められたことではない。

 しかし彼は首を横に振る。

「有意義だった。あんたの剣は、疾い。体格に合った細身の剣なら一撃目で勝負はついていた」

「ふふっ、お世辞でも嬉しいよ。ありがとう」

 お礼を言って、溜め息をつく。膝の上に載せたものの存在が空しい。

 結局、ギルベルトとはあれ以降会っていない。もしかしたら夕食には顔を出すかもしれないと思ったが、イリスのほうが避けてしまった。食事はいらないとネイディアたちに伝え、自室に引きこもったのである。

 そして、部屋で自作のケーキを貪り食った。やけ食いというやつだ。

 これを渡してお礼を言う予定だったのだ。厨房を使いたいと言うとネイディアもミアも驚いていたが、料理くらいはできる。技術と知識はいくら持っていても邪魔にはならないという両親の教えにより、身分に甘えることなくなんでも学んできたからだ。

 胡桃を入れた簡素なケーキだが、ギルベルトが好むものをネイディアに訊いて作った。子供の頃これを出せば比較的よく召し上がったように思います、という程度の情報だったが、それなりに心をこめたつもりでいる。

 なのに、いらないと言われた。必要ない、と。

 悲しいと同時に、押しつけがましかったという反省もある。でも、こんなきっかけでも作らないと話しなんてできそうになかったから。

 そう。イリスは彼と話したかった。嫌われていてもいいから、上辺だけでもいいから、せめて人前に出る時くらいは夫婦らしく振る舞えるように彼の人となりを知っておきたかった。

 それすらも、今後は望めないだろう。

 戦力としての自分の価値も示せなかった。どれだけ打ち込んでも防がれたうえに攻撃してこない。

 最後の一撃も、フェリックスが止めなくても寸止めされていたはずだ。

 そして息が上がっていたイリスに対し、彼は涼しい顔をしていた。

 イリスの強さは聖剣ミルフルールがあってはじめて発揮される。そのことをまざまざと思い知らされた。

「……これ、貰ってくれないかい?」

 膝に置いていた包みを狼の彼に差し出す。黒い鼻がひくりと動いた。

「菓子、か?」

「うん。作ったんだけど、食べきれなかったからお裾分け……いや、本当のことを言わないのは卑怯だね。正直に話すよ。これを渡したかった人には受け取ってもらえなかったんだ。それで、代わりに誰かに食べてもらいたくて。そんなの気分が悪いよね。ごめんね」

 自嘲気味に笑って、包みを引っ込める。

 食べきれなかったのは本当のことだが、無理して水で流し込めばいけただろう。

 でも、最後の一切れを前にして手が止まった。

 こんなに美味しくできたのに。誰にも食べてもらえないなんて。

 ネイディアやミア、ノーラには渡せなかった。ネイディアとミアには誰に贈るものか伝えて厨房を使わせてもらった手前、言えない。ミアと仲の良いノーラにだけあげるのも気が引けた。

 そこで思い浮かんだのが、狼の彼の顔だった。

 友人に手作りの菓子を贈る。何もおかしくないはずだ。そう思って最後の一切れを清潔な布に包んで持ってきたものの、身代わりのような扱いをされて嬉しい人などいないだろう。黙っていればわからなくても、罪悪感を覚えずにはいられなかった。

 しばしの沈黙。やはり不愉快だったのだと思い後悔する。

「貰う」

「え?」

「食べる。今、ここで」

 静かだが強い口調で言われた。その圧に負け、イリスは慌てて包みを解く。

「本当にいいの?」

 布の上に載せたまま差し出すと、返事の代わりにぺろりと一口でいかれた。

「美味い」

 たったの一言だった。それだけで、冷え切っていた胸の底が温もりを取り戻す。

「そう言って貰えると、嬉しい」

 つい、声が震えてしまった。格好が悪い。我が儘に付き合ってくれて、優しい言葉もくれて、そのうえ気を遣わせるなんて申し訳ないにもほどがある。

 髪を掻き上げるふりをして目尻の涙を拭い、イリスは立ち上がった。

「ありがとう。またね」

 再会を約束する言葉は、どこにでもありふれている誰にでも言える言葉で。

 だけどイリスにとっては、彼との縁を結び続ける命綱のように感じられた。


◇◆◇◆◇


 イリスが兵舎に訪ねてきた。それはもう驚いた。

 けれど会いに来てくれたのが嬉しくて、もし獣の姿であれば尻尾が荒ぶりすぎて千切れていたかもしれない。

 薬のお礼をとのことだったが、それなら昨晩のうちにもう言われているし、あれはフェリックスが調合したのであって手柄はほぼ彼のものである。重ね重ね感謝されても、逆に申し訳なくなってくる。

 それに、イリスの態度がなぜだかよそよそしい。人前だからだとしても、他人行儀に接してくるのは嬉しくなかった。昨晩のように慕わしく話してほしかった。

 それを伝えるとわかってくれたのか、彼女との間にあった壁のようなものは消え去った、ように思う。彼女が去った後にフェリックスや兵士たちに囲まれて、「ないわー。殿下、ないわー」と責められたが、友達から始めて愛を育むというのは彼女との間の秘密の約束であるから誰になんと言われようと構わない。

 実際、手合わせを申し出てくれたイリスとの真剣勝負は有意義であった。

 彼女の強さの神髄はその疾さにある。膂力の不利を補って余りある疾さの連撃は瞬きする余裕さえ与えないものだった。攻撃に転じる隙を見出せないままギルベルトはただ耐えるしかなく、相打ち覚悟で繰り出した一撃はほんのわずか、彼女のほうが上手であった。首筋に冷たい金属がひたりと触れていた。

 刃を交えて育む友情からの愛情というのも悪くない。ここで焦ってはいけないのだ。がっつく男だと思われたくはなかった。

 しかし。

 先ほどの、彼女の言葉が引っかかって仕方がない。

 手作りの菓子をいったい誰に渡そうとしていたのか。

 侍女たちとは仲良くやっているようだから、彼女らにだろうか。けれど侍女たちがそれを拒む理由など思い当たらない。出来上がったのが酷いものだったというなら理解もできるが美味かった。なるべく昨夜と同じ状況を保っていようと獣の姿でいたことが功を奏して、いわゆる『あーん』といういうやつも体験できた。ただでさえ美味いものが、あれにより百億倍くらい美味くなった気がするし中毒性がある。できれば毎日食べたい。

 だが、それもこれも彼女の作った菓子を拒んだ者がいたために得られた幸運である。

 誰だ。いったい誰なんだ。こんな素晴らしいものを拒むなんて阿呆の極みだ。そのおこぼれに与れたのは複雑もいいところである。

 イリスにとって特別な存在でいたい。事実上の夫であるという立場に胡座をかいていてはいけないのだ。

 彼女の気持ちが他の誰かに向かないように、しっかりつなぎ止める必要がある。

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