「君を愛する気はない」と言った夫と結婚して50年。過去に戻ったので初夜から逃走しようと思います
誰か来てくれ!馬車が横転したんだ
ああ、騒がしい。
夫と息子のアルフレッドの結婚式に行く途中だった。
何が起こったのかは分からない。すごい音と衝撃で車体が傾き、私たちは半壊した馬車の中にいた。体中が痛い。とてもじゃないがあと数刻も、耐えられそうになかった。ふと、視線をあげると、私は夫に抱きしめられるようにして倒れていた。はぁ、はぁ。とか細い息の夫は、すぐにでも事切れそうだった。
この人と連れ添って50年。私たちの生涯がここで終わろうとしていた。
「俺は君を愛する気はない」
これは、夫、オリバーに初夜で言われた言葉である。私は彼が好きで好きでたまらなかった。婚約者に選ばれて嬉しかった。トキメキと緊張でどうにかなりそうなだった私の初恋は、そこで無様に終わったのだ。泣いて懇願し、形だけ抱いてもらった。愛のない。入れてもらい、出してもらうだけの行為。幸か不幸か、その一度で、私はアルフレッドを授かった。
それから私たちは一度もベッドを共にすることなく、完璧な仮面夫婦として生きてきた。
毎夜、必要とされない苦しみを味わうのは辛くて、寝室も分けた。夫はひどく無口で、何も言わなかった。
ああ、昔の自分に言ってやりたい。こんな冷徹夫なんてやめて、もっと素敵な人と恋をしなさい。そんなふうに。
瞼が重い。もう、周りの声も聞こえなかった。
※
痛みがない。私は死んだのかしら?
目を開けると、そこは自分の家の寝室であった。しかしなにかおかしい。私は息子の結婚式に向かうはずだった。そして事故に遭って……。
何気なく自分の手を見てびくりと震えた。シワだらけのはずの手はしっかりと張りのある肌になっており、自分の着ている服が礼服ではなくてらてらとした薄いネグリジェであることに気がついた。
驚いて立ち上がる。いつもの腰痛もなく、体が軽い。急いで鏡の前に立つと、そこにいたのは若い娘であった。
「うそ……これ、私?」
驚くことに、私は若い姿に戻っていた。いや、私だけではない。部屋に感じた違和感の正体に気がついた。家具も調度品も全てが綺麗であった。50年使ってきた家具たちもピカピカの新品である。部屋の隅にはたくさんの贈り物が置かれ、むわっという胸詰まるよう香の匂いが立ち込めていた。
「おい……聞いているのか?」
聞き覚えのある。でも、滅多に聞かないその声にびくりと肩が震える。
ゆっくりと振り返ると、そこにはオリバーが立っていた。白髪混じりだった髪は、美しいブロンドのままで、シワやシミだらけだった顔は陶器のように白く美しい。私が恋したときの夫の姿そのものであった。この光景には見覚えがある。
忘れもしない結婚初夜である。
もしかしなくても、過去に戻ってる。神からの贈り物か今際の夢か。それは分からない。だが、戻っているというなら、やることは決まっている。
私はクローゼットの中を開け、大きなカバンを取り出すと金目のものをどんどんと詰め込んでいった。
「おい……!」
オリバーの声かけにもめげずに、どんどん詰めていく。結婚の贈り物の中には宝石やシルクの服など、高価そうなものがたっぷりあった。これを売ればしばらくは遊んでだって暮らせるだろう。
「大丈夫です!オリバー。私を愛する気はないんですよね?じゃあ、別れましょう。それではさようなら!」
やりたいことがいっぱいある。旅をしてみるのも良い。仕事をしてみてもいいだろう。そして恋をするのだ。今度はちゃんと、私を愛してくださる方と。
ルームシューズをつっかけて、出て行こうとすると、私の腕をオリバーが掴んで止めた。
「どこに行くんだ!ソフィア!」
どきり。心臓が高鳴った。嫌ね、初恋の人というのは名前を呼ばれただけでひどく動揺してしまうものなのね。
「手を離してください。私、愛のない結婚はもう、嫌なんです。だから別れましょう」
「何を言って……」
「だから貴方は私を愛していないでしょ?なら別れましょうよ」
手を振り払い、ドアノブに手をかけた瞬間。がばりと、オリバーが覆い被さってきた。驚いてカバンを落とす。抱きしめられていると気がつくのに随分と時間がかかってしまった。男の人に抱きしめられている。半世紀以上生きてきて初めての経験に胸がドキドキと脈を打った。
「おっ、オリバー!?何を……」
「……よかった。生きている……」
「えっ……?」
その言葉にときめきとは別に胸が跳ね上がる。静かにその腕をのかし、オリバーに向き直った。
「貴方も過去に戻ってきたの……?」
「ああ、馬車が事故にあっただろう。意識が遠のいて、気がついたら……お前もなんだな。」
体の力が抜け、その場に座り込んでしまった。
「そう、貴方もなの……でもじゃあ、わかるでしょ。やり直しができるなら、私は貴方と離縁して、愛してくれる方と結婚生活を送りたいの。だから別れてください」
オリバーは私の横に座り込むと、そっと手を上げた。
「だから、俺でいいじゃないか」
「は?聞いていました?私は愛してくれる人がいいんです」
「だから、俺」
「……え?」
「え………?」
何を言っているんだ。美しい顔で首をかじげる目の前の男に、はあ。と大きなため息が出た。
「50年前の今日!君を愛する気はないと!言ったのは貴方ですよね!!」
覚えていないとは言わせない。そう言いかけたが、私の言葉に夫は詰まったように口を紡んで俯く。そして重ねるように聞いたことのないぐらい大きなため息を返した。
「君を愛する気はないというのは、初夜の……今夜に限っての話だ!!!」
顔を真っ赤にして、夫はずいっと私の眼前にその顔を向ける。
「は?」
「あの日……その、つまり今日だが……酒も飲んでたし、疲れていた……、俺にはそういう知識もあまりなかったから……その……君を満足させられる自信がなかったんだよ……」
「でも……しっかりアルフをこさえたじゃないですか?!」
あの日のことは覚えてる。渋る夫に泣きながら懇願し、無理に行為に及んだことも。情緒も何もなかったが、しっかりと夫のそれは機能して私の腹を刺したことも。
「それは初めてだったし……。俺は、き、君のことが好きだったんだぞ!?君の裸を見ただけで……その…持たせるなんて無理だった……いろいろ限界だったんだ……」
あまりの事の顛末に、力が抜けてしまう。
「それ以来君は、寝室を別にするし、そういう雰囲気にはさせてくれないし……。あの一度でアルフを孕んでしまったから……跡取りを作る口実もないのなら……俺のことが嫌いな君に無理はさせられないじゃないか」
なんということか、あんなに大人びていたと思っていたオリバーは、私と同じいたいけな子供だったなんて。そして私に構わなかったことも、私に嫌われていたからと思っていたなんて……。
「今日の貴方はおしゃべりよ。今日だけで今までの50年分ぐらいありそうだわ」
「死ぬ間際に後悔したんだ。君に嫌われたって、もっと話しておけばよかったって……過去に戻ってきて決めたんだ。見損なわれてもきちんと話そうと……俺は君を愛している。頼むからよその男の元にいくなんて言わないでくれ」
オリバーは鼻をすすりながら、子犬のような上目遣いで訴えかけてきた。ああ、なんて可愛いのかしら。こんな感情。50年前なら知らなかったわ。小さく震えるその唇に私はそっと自分の唇を重ねた。キスなんて言えないような。軽いついばみ。それでも夫は面食らったように顔を赤くしながら私を見つめている。自分でもびっくりするけど、これって私たちのファーストキスになるのよね?
「ねぇ、これはきっと神様が私たちに与えてくれたチャンスに違いないと思うの」
私は微笑むと、その場に彼を押し倒し、自分のネグリジェをたくしあげた。
「ソ……フィアぁ!?」
「ねぇ、オリバー」
顔を真っ赤にして驚く彼に、私は告げる。
「アルフレッドに会いたくない?」
※
おめでとう!おめでとう!
フラワーシャワーが息子夫婦に浴びせかけられる。たくさんの参列者に祝われ、息子たちは嬉しそうだった。私は右手で、夫は左手で息子たちに花をかける。
「俺たち、幸せになるよ。母さんたちみたいなオシドリ夫婦になるから!」
息子が笑顔で手を振る。
私たちも手を振りかえすが、余った方の手をお互いに握っていた。
「私たちみたいにですってよ」
「どうかなぁ、なんせ俺たち長いから」
「長い?まだまだよ」
「そうだな。もう50年あったりして」
「それでも足りないくらい貴方を愛しているわ」
「俺もだよ」
この新たな50年を、誰がくれたかは分からない。だが、私たちにとっては素晴らしすぎる贈り物であった。
おわり