第一話
「だから、何度も言っているじゃないですか。来月の保護費で今月分の過払いを調整させてもらうって」
市役所の一室の電話口で、栄太郎は口を尖らせた。その口調は懇願するようではあっても、栄太郎の顔は鋭く電話を見つめている。その瞳はどこか恨めしげだ。
「だから、来月の保護費は今月より少なくなります」
栄太郎がそう言った途端、離れた距離でも罵声とわかる声が受話器から漏れた。栄太郎は苦虫を潰したような顔をすると、メモ用紙に書いた丸を黒く塗りつぶし始める。
「収入があったんだから仕方ないでしょう。それとも何ですか、収入を申告しないで不正に生活保護を受けた方がいいとでもおっしゃるんですか!」
今度は栄太郎が声を荒げた。事務所の空気に緊張が走る。その緊張を解いたのは、ほかならぬ栄太郎であった。
「あなたがそんなことをできないことは、僕が一番よくわかっていますよ。ね、今月は収入があったんだし、やりくりしてください。働き始めることはいいことじゃないですか。自立の助長が生活保護の目的なんですから、頑張ってくださいよ。応援していますから」
そう言い終え、栄太郎は受話器を置いた。そして、「ふう」と軽いため息を漏らすと、ぬるくなったコーヒーを口に含む。砂糖もミルクも入れないブラックコーヒーの方が、ぬるくなっても栄太郎には飲みやすかった。栄太郎はそのまま電卓を叩いた。保護費はコンピューターが自動で計算してくれる。しかし、やはり手計算で確認してしまう。そして調書を難しそうな顔で睨むと、「うーむ」と唸った。
「来月は大分、少ないな……」
栄太郎は記録紙にペンを走らせると、決裁欄に自分の印鑑を押した。そして、パソコンに向かい、数字を打ち込む。栄太郎の大きな瞳が線のように細くなった。
北島栄太郎はこの帰帆市役所に勤めて五年になる。大学を卒業してからすぐ市役所勤めをしているので、まだ二十七歳という若さだ。だがどことなく、くたびれて見えるのはなぜだろうか。別に身なりが汚らしいわけでもない。風貌が老けているわけでもない。それでも彼にたちこめる匂いがくたびれているのである。いや、栄太郎だけではなかった。彼の所属している生活福祉課のほとんどの課員がくたびれた匂いを放っているのだ。
生活福祉課の主な業務は生活保護である。生活保護とは日本国憲法の第二十五条の生存権を具体的に保障する制度で、生活に困窮する人々に対し、無償で金銭等を給付する制度である。それは最低限度の生活が営めるレベルのものとなっている。
栄太郎はこの生活福祉課に来て二年になる。生活保護は通称「生保」とも呼ばれており、市役所の中でも不人気ナンバーワンの業務だ。それは常に追い立てられるように多問題な仕事が山積みになることばかりでなく、ケースと呼ばれる受給者や時には民生委員や近隣の住民からの苦情も多いからである。栄太郎は人事異動になった時、まだ生活保護のことを知らなかった。上司から「生保だぞ」と言われて、「市役所で生命保険を取り扱っているんですか」と問い返したほどである。
栄太郎は腕時計を見た。既に針は午後二時を指そうとしている。
「そろそろ、訪問に行くか……」
栄太郎は椅子の背もたれにかけてあった上着を羽織り、ビジネスバッグを無造作にひったくった。
「おう、北島、行ってくるか」
高橋係長が笑っている。栄太郎はいつも不思議に思うのだ。係長クラスともなれば、矢面に立たされることも多く、辛いことは多い。それなのに高橋係長にくたびれた印象や悲壮感はどこにも漂っていない。栄太郎は自分でも、自分がどこかくたびれていることを自覚していたのだ。
「はい。佐々木を何とか働かせたいんですよ」
「そうだなぁ。子どもを保育所に預ける算段までつけたんだから、何とか働かせたいよなぁ」
高橋係長が椅子の背もたれに深く寄りかかって、栄太郎を眺めた。
「まあ、話をつけてきます」
「おう、頑張れや。気を付けて行ってこいよ」
栄太郎は口元に微笑みを浮かべると高橋係長に背を向けた。そして、公用車のキーを取りにいく。高橋係長はしばらく栄太郎の背中を追っていた。口元は少しニヤニヤと笑っている。階段へと続く扉は鈍い音を立てて、栄太郎を吐き出していった。
生活保護は最低生活を保障するとともに、自立の助長をその目的に掲げている。その目的のためにも定期的な家庭訪問を実施して個々の世帯の問題を把握することは必要不可欠なのだ。家庭訪問の頻度は問題が多ければ毎月となり、少なければ三ヶ月ないしは六ヶ月に一度となる。中には家庭訪問に拒否的な世帯もあったが、大多数が仕方なく受け入れてくれた。生活保護の地区担当員が財布の紐を握っていると思えば、家庭訪問を受け入れざるを得ないのが実情だ。
これから栄太郎が訪問する佐々木律子という母子家庭は毎月訪問することとなっていた。母子家庭の場合、子どものことや自立の計画など問題も多く、栄太郎のような地区担当員は逐一状況を把握し、助言をする必要がある。
栄太郎は公用車に乗り込むと、キーを勢いよく回した。車庫に爆音が響く。
「ふう……」
ため息を一回つくと、栄太郎はハンドルを握った。そして、公用車はゆっくりと滑り出す。
栄太郎は律子の家に行くのが辛くもあり、楽しみでもあった。その相反する感情をどのように整理してよいのか自分でもわからないでいる。ただ幸いなことに、律子は家庭訪問をいつも快く承諾してくれた。
律子には健一という五歳になる息子がおり、健一は今、保育所に通っている。これも律子が働きやすいようにと、栄太郎が児童福祉課に話をつけ、無理矢理頼んだのだ。健一はもうすぐ小学校に入学するが、やや言葉が遅い。律子はそのことを心配しているが、母親として至極当然な感情だと栄太郎は思う。そんな律子の不安のために栄太郎は児童相談所や就学指導委員会へも出向いたりしたものだ。律子はそんな栄太郎にいつも感謝をしてくれている。
「だったら、働けよ……」
公用車の中で栄太郎が独り言を唸った。
そう、律子はなかなか働こうとはしなかった。それが栄太郎には、「生活保護に胡坐をかいている」としか思えなかったのだ。
(今日こそは、何とか「働く」って言わせてみせる……!)
栄太郎はハンドルをギュッと強く握った。そんな栄太郎の前に律子の笑顔が浮かぶ。すると、信号が赤に変わった。
「畜生!」
そして、栄太郎は「はあ……」と重いため息をつくと、ハンドルから手を離した。律子の微笑みは、いつも強力な指導を躊躇わせる効果が栄太郎にはあるのだ。律子が美しいということもある。だが、どこかはかないような脆さと芯の強さという、相反する面影を抱いた律子の雰囲気は、栄太郎の男心をくすぐって止まないのだ。支援する側と、される側。その関係以外の何物でもないのだが、つい不埒な妄想が頭を過ぎってしまう。
生活保護ではケースの生活歴を事細かに尋ねる。そこから問題を分析し、個人の社会診断を行うのだ。現に律子の母親、佐々木伸江も生活保護を受けている。伸江は保護費をパチンコや酒に注ぎ込んでは浪費することで、民生委員などからもよく苦情がくる、いわば「有名人」だ。伸江はそれこそ、生活保護に胡坐をかいて生活してきており、働く意志など微塵にも見られない。そして、伸江もまた離婚していた。そんな環境の中で律子は育ってきたのである。
律子は高校へは進学せず、スーパーのレジ打ちとして働いていた。しかし、男性店員と仲良くなり、やがて妊娠。その店員には妻子がおり、結ばれる仲ではなかった。母親も無責任なもので、律子が妊娠五ヶ月になるまで、その兆候に気付かなかったという。結局、子どもを産むこととなったが、当然のことながら、不倫相手から認知してもらえるはずもなかった。子どもをめぐって律子は母親と対立するようになり、家を出る。臨月になるまで工場で働くが、出産と同時に退職。以降は無職となり、生活保護で生計を営むようになる。
健一が保育所に入った今、律子に働けない理由はなかった。経済的な自立とまでいかなくても、自分で収入を得て生活していく喜びを律子に味わってもらいたかった。貧困の再生産とよく言うが、このままでは親子二代にわたり生活保護を受け続けることとなる。その連鎖を何とか栄太郎は食い止めたかった。
栄太郎は公用車を古ぼけたクリーム色のアパートが見える空き地に停めた。そこからアパートまで歩く。アパートはいかにも寂れており、扉の前に乱雑に物が置かれている部屋もある。どこか昭和の匂いが漂うアパートだ。栄太郎は一番右端の扉の呼び鈴を押す。呼び鈴はしわがれた声で主を呼び出していた。
「はーい」
明るい声が扉の向こうから返ってきた。佐々木律子の声だ。栄太郎の気持ちはまだ複雑だ。決心と不埒な期待が妙に入り交ざった落ち着かない気持ちとでも言おうか。
律子が扉を開けると、屈託の無い笑顔が栄太郎の目に飛び込んでくる。
(しまった、やられた……!)
長いストレートヘア、大きな瞳、口元から覗く八重歯、そして頬で窪むえくぼ、どれを取っても美しいではないか。栄太郎の男心が揺らぐのも無理はなかろう。
「すみません、ちょっとお話が……」
「ああ、どうぞ上がってください。相変わらず汚い家ですけど……」
「お子さんが小さいうちは仕方ないですよ。子どもは汚すのが仕事みたいなもんだから」
栄太郎はそそくさと律子の家に上がった。普通、生活保護を受けている者は役所の者が来ることを嫌う。生活保護を受けていることを周囲に知られたくないという心理が働くからだ。しかし、律子はいつも嫌な顔一つせず、屈託の無い笑顔で迎えてくれる。かえって栄太郎がコソコソと家に上がるくらいだ。
律子は「汚い家」と言っているが、子どもがいる割には部屋の中は掃除が行き届いている。それは律子のまめな性格によるものなのだろう。
「今、お茶を淹れますね」
「ああ、どうぞお気遣いなく」
それでも律子はお茶を淹れてきた。
「健一君はどうですか」
「ようやく保育所にも慣れまして。でも、まだ『ちゃ、ちゅ、ちょ』がうまく発音できないんですよ。ひらがなもまだ覚えていないし、数字も頭に入っていないんです。このまま小学校に行けるんでしょうか」
栄太郎はお茶には手を出さず、律子の目をジッと見つめ返した。
「大丈夫ですよ。就学指導委員会でもそのくらいのお子さんはたくさんいらっしゃるって言っていましたからね。それよりお母さんが活き活きとしているほうが子どものためになりますよ」
「まあ……」
律子は正座を崩さず、困ったような顔をしている。勘のいい女性ならば、ここで栄太郎が何を言わんとしているかわかったであろう。しかし、律子はそのまま口を噤んでしまった。
「私が何のために健一君を保育所に通所できるようにしたかわかりますか」
「……」
「佐々木さんに働いてもらうためなんですよ」
そう切り出した栄太郎は膝に置いた拳を固く握り締めていた。額には薄っすらと汗が滲んでいる。
「私、北島さんには本当に感謝しているんです。健一のために親身に相談に乗っていただける方は北島さんしかいないと思って……」
「私だって健一君のことが心配ですよ」
「もうちょっと、もうちょっとだけ待ってください。気持ちを整理しますので」
「何を整理するんですか。どのくらい待てばいいんですか」
栄太郎は視線を落としながら、頭をかいた。その口調はどこか恨み節だ。栄太郎にしてみれば、早く苦しい時間を切り抜けたかったこともある。だが、それ以上に律子が自分で働きながら生計を支える自立した母親としての姿を健一に見せてもらいたかったのだ。
「もう少し子どものことを考えさせてください……」
律子が力なくつぶやいた。栄太郎は「はあ」とため息をつくと、「わかりました。それでは来週の月曜日にまた来ます」と言って立ち上がった。
「あの、気を悪くなさらないでくださいね」
律子が不安げな顔を栄太郎に向けた。
「ふんぎりがつかない自分が情けないんです」
「あまり思いつめるより外に出たほうがいいこともありますよ」
そう言って栄太郎は律子の家を辞した。
「そうか、今日も佐々木はダメだったか……」
栄太郎からの報告を受けた高橋係長はパソコンの画面から目を逸らすことなく返した。
「はあ。何が不安なんでしょうかね」
「そりゃあ、発達が遅れている子を持つ親の持つ悩みよ」
高橋係長が栄太郎に向き直る。深く椅子にもたれながら、背伸びをした。いい加減、パソコンとのにらめっこにも疲れたとでも言いたげだ。
「いいか北島、そりゃあ生保は自立させてナンボだが、目の前の餌に食らいつかせるばかりが能じゃないぞ」
「どういう意味ですか」
「その家庭の問題を包括的に解決していかねば、結局はまた生保に落ちてくるんだ。そのためには、お前が佐々木とどれだけ向き合って付き合えるかにかかっているんだ。来週の月曜日、もう一度ちゃんと話し合ってこい」
栄太郎は今日の律子とのやり取りを思い出す。それはやや一方的であったかもしれないと反省していた。
「はい」
「俺は煙草を吸うぞ。お前もちょっと付き合えや」
高橋係長がニヤッと笑った。栄太郎もニヤッと笑い返す。栄太郎は煙草を吸わない。それでも高橋係長が煙草に誘ったのには理由がある。健康増進法が適用されてからというもの、庁舎内では煙草が吸えなくなった。灰皿は市役所の表玄関と裏口にある。職員が利用するのはもっぱら裏口だ。高橋係長はヘビースモーカーだった。一時間おきに煙草で席を立つくらいだ。もっとも、本人に言わせれば気分転換をして、効率よく仕事をしているのだとか。高橋係長が地区担当員を煙草に誘うことは、そう珍しいことではない。事務所の中ではどうしても肩書きに縛られ、教科書どおりの答えしか返せない時がある。しかし、こうして煙草を吸いながらの雑談ならば違う。本筋からは外れるが、仕事の裏技などを教えられるのである。それだけ、高橋係長は生活保護の業務に従事して長いということになる。
程なくして、市役所の裏口の寂れた扉の前に高橋係長と栄太郎の姿を見ることができる。栄太郎は缶コーヒーを片手に、高橋係長の言葉に耳を傾けている。
「そもそもだな、佐々木にとっての自立とは何なのか。そこを考えないといけない。厚生労働省は少しでも働かせようと躍起になっているが、僅かなパートで無理して働かせても目先のことだけだ。彼女の世帯の自立とは何なのか、何が必要なのか、もう一度検討してみよう」
「佐々木の自立ですか」
「経済的な自立もそうだが、彼女自身が活き活きと生活していけるような自立が好ましいんじゃないかな」
高橋係長は煙草の灰を灰皿にポンと落とした。そして、おもむろに煙草を吸う。紫の煙が筋となって立ち昇り、口からは灰色の息が吐き出される。
「今の佐々木は子どものことで頭が一杯なんじゃないですかね」
「そこよ。子どもの不安を減らす材料をお前は作ってやっているじゃないか。後は本人の問題だ。そこをどうするかなんだ。大きい声では言えんが、あまりギューギューやるなよ。せっかくここまで築いてきた関係が壊れるぞ」
「うーん……、どうやったらいいんですかねぇ。そろそろ俺、煮詰まってきましたよ」
「そうか、今日は金曜日だし、残業もそこそこにして飲みに行くか」
「あ、行きます、行きます」
高橋係長が満足げな顔をして煙草を灰皿でもみ消した。堂々と歩く高橋係長の後に栄太郎が続く。
金曜日の夜ということもあり、居酒屋はどこも混み合っていた。栄太郎たちが腰をすえたのは三軒目の居酒屋だった。チェーン店ではない、地元の居酒屋だ。それでも高橋係長と栄太郎の二人が座るのがやっとだ。すぐさま、女性店員がおしぼりとつきだしを持って飲み物の注文を伺いにきた。栄太郎はその店員の顔を見て愕然とした。
「さ、佐々木さん……!」
高橋係長の目も丸くなった。それは紛れもなく律子だった。艶やかな美しさはそのままに律子は口に手を当て、ただただ驚愕している。
「どうしてこんなところにいるんですかっ!」
栄太郎の口調は荒かった。胸の内で赤い憤怒の激情が噴出しそうだった。だが、すぐに高橋係長が栄太郎を制した。
「気持ちはわかるが、相手は客商売なんだぞ。いいじゃないか、月曜日に話を聞けば。とりあえず生二つね」
律子は注文を復唱することなく、カウンターの向こうへと消えた。栄太郎はややもすると殺気のこもった目でその行方を追った。
(何だよ、俺は道化師かよ)
そんな思いが栄太郎の頭の中で逡巡していた。栄太郎のはらわたは煮えくり返っていた。心の中で振り上げた拳を、振り下ろせないでいる気分だ。そんな栄太郎の心を見透かしたように高橋係長がクスッと笑った。
「まあ、落ち着け」
「はあ……」
栄太郎は気のない返事しか返せないでいる。
ビールを運んできたのは男性の店員だった。とりあえず、高橋係長と栄太郎はジョッキを鳴らす。高橋係長はグーッと半分近くのビールを胃の中へと流し込んだが、栄太郎はチビチビと舐めている。
「どうした、進まないようだな」
「こんなまずい酒、初めてですよ」
「ふふふ、そうかな。祝い酒になるかもしれんぞ。もしかしたら月曜日に保護の辞退届が提出されるかもしれん」
「それじゃ、自立にならないじゃないですか」
「よし、まだ見所はあるな。月曜日はきっちり話をつけてこい」
高橋係長はグーッとビールを飲み干した。
「お前も早く飲んじまえ。河岸を変えるぞ」
「はい」
栄太郎は苦味の強いビールをグーと胃の中へと流し込んだ。強い炭酸が栄太郎にゲップを吐き出させた。
「ふう……」
栄太郎が振り返る。すると、律子は柱の陰から怯えるようにして、栄太郎を見ていた。栄太郎はひょっとすると冷ややかな視線を律子に送ったかもしれないと、自分で思った。だが栄太郎は気付いているだろうか。「可愛さ余って憎さ百倍」ということを。
「ごちそうさん。お愛想」
高橋係長が男性店員に愛想よく声を掛けた。律子は柱の陰から出てはこなかった。苦悶に満ちたその顔はとても客商売の顔ではなかった。
翌日、栄太郎は昼近くに起きだした。土曜日ということもあり、存分に寝坊をしたのである。いつも土曜の寝起きは悪い。それは、一週間の疲れが取れきれていないからだと、栄太郎自身も思っていた。それほど生活保護の現場は激務なのだ。起きだした栄太郎はのっそりとキッチンに向かう。アパートでやもめ暮らしをする栄太郎のキッチンはお世辞にも綺麗とは言い難い。いや、キッチンだけではない。六畳間の部屋も雑然と散らかっているではないか。
(佐々木の家の方が綺麗だな……)
栄太郎は思わず苦笑した。律子の困惑した顔が脳裏を過ぎった。
(俺をだましたこともあるが、子どもはどうしているんだ?)
ふと、そんな疑問が湧いてくる。健一を保育所に預けられるのは日中だけのはずだった。居酒屋の営業時間に健一を預かってくれるところがあるのだろうか。
(友人か、それとも母親か)
律子と母親の伸江とは出産を機に絶縁状態が続いていると聞いていた。その可能性は低いだろうと栄太郎は推測する。
(友人に健一を預けているのだろうか)
だが、律子は近所付き合いはもちろんのこと、友人らしい友人もいないと以前、栄太郎に漏らしていたことがある。だとすると一体、健一をどうしているのだろうか。そんな、釈然としない疑問を胸に抱きながら、栄太郎はフライパンに卵を落とした。
「あー、いかん、いかん。オフは仕事のことを考えないって決めていたのに!」
卵を焼くジューッという音より大きい独り言が栄太郎の口から漏れた。
トーストと目玉焼きと野菜ジュースの簡単な朝食兼昼食を済ませた栄太郎は、散らかった部屋の片隅に立てかけてあるエレキギターに手を伸ばした。栄太郎は高校の時からギターを弾いていた。最初はポップスなどを弾いていたが次第にビートルズに傾倒していった。栄太郎が手にしているギターもビートルズが日本公演で使用したエピフォン・カジノというギターだ。アコースティックギターも持っているのだが、今は実家に置いてある。何せここはアパートだ。アンプにつながずにかき鳴らす、エレキギターくらいの音量がちょうどよい。
自分の耳を頼りにチューニングを済ませると、栄太郎はギターソロのフレーズを弾き始めた。ビートルズの「ゲット バック」のギターソロだ。映画「レット イット ビー」でもジョン・レノンがエピフォン・カジノを抱え、颯爽とギターソロを弾いている。ビートルズファンならば、お馴染みのシーンだ。
栄太郎は何故、「ゲット バック」を弾いたのか自分でもわからなかった。ただ、困惑する律子の顔が胸に棘のように引っ掛かり、抜けないでいる。そしてフラッシュバックのように、今まで律子が見せた笑顔や、戸惑いなどの表情が浮かんでくるのだ。
(あの時、追い詰めちまったのかな……)
そんな、少し後悔に近い念がフッと心の中に湧いた。だが、あの時は仕方なかったと思い返す。一方で、律子の困惑の表情は栄太郎の胸の中で増大していった。いつの間にか、心を縛り上げ、動けなくしていく。
「ゲット バック!」
近所迷惑も顧みず、栄太郎が叫んだ。ふと、栄太郎はその意味を考えてみる。「ゲット バック」とは「原点へ還れ」という意味もある。
高橋係長はよく言っていた。「ケースは嘘つきも多いが、何故、嘘をつかなきゃいけないのかを考えろ。信頼関係の第一歩は相手をまず信じることだ」と。
栄太郎はギターを弾く手を止めた。そして、目を天井に向ける。その瞳にはいくらか力がこもっていた。
「どうだ、土日はゆっくり休めたか」
月曜日の朝、高橋係長がコーヒーを啜りながら、栄太郎に話しかけてきた。
「いつもは日曜の午後になると憂鬱になるんですけどね。今回は大丈夫でしたよ」
「ほう……」
感心したように高橋係長はカップを置いた。その目は心から笑っている目だ。どうやら、栄太郎が「仕事の面白さがわかってきた」と思っているらしい。
「俺なんか、今でも日曜の夕方は辛いね」
「係長が……、ですか」
「おいおい、俺は仕事の鬼みたいに思われているようだけど、結構ナイーブなんだぞ」
栄太郎が思わず苦笑する。
「そこは笑うところじゃない。まあ、サザエさんの時間になると憂鬱になる『サザエさん症候群』ってやつだ」
「いつもの自分もそれですよ。でも、今回は早く佐々木に会いたくて」
「そうか、そうか。じゃあ早く行ってやれ」
「はい」
栄太郎が頷くと始業のチャイムが鳴った。それを待っていたかのように、数人の中年の男女が窓口に駆け寄った。いつもの朝の光景だ。
「あー、順番、順番。押さないで!」
小島という面接担当員がいかにも煩わしそうに怒鳴った。栄太郎はそれを横目でチラッと見ながらケースファイルを広げた。もちろん、佐々木律子のケースファイルだ。ケースファイルには律子の個人情報が事細かく記されている。生活歴から病歴、資産の状況に親族関係などである。栄太郎は保護台帳と呼ばれる紙面に目を通すと、納得したように頷いた。そして、大事そうにビジネスバッグをさする。栄太郎の口元が少し緩んだ。
窓口では小島が腕組みをして、何やら話を聞いている。
「そんなこと言ってもねぇ……」
小島のその言葉が栄太郎の耳についた。だが、栄太郎は何食わぬ顔をして、小島の横を擦り抜けると、公用車の鍵を掴んだ。フッと小島の方を顧みる。小島と男はまだ対峙していた。それは、どちらかが妥協しない限り、永久に平行線を辿る態度に見えた。
(だからと言って卑屈になる必要はないな)
ふと、栄太郎はそんなことを思いながら、階段を下っていった。