5.
夕食会は散々だった。なにしろミルカの食事マナーがなっていないのだ。
ゲームとは違い前世知識があるミルカではあったが、もともとの育ちも庶民だし、前世のヒロインも男爵の庶子であったので、マナーなど当然身についていなかったのだ。
前世の王太子はそんなところもかわいくて好きだと言ってくれたものだが、本性が明らかとなった今では馬鹿にされていたのだろうとわかる。
もちろん事情を理解してくれているダールアイアー家の皆は、マナーを気にしてカトラリーを持とうとしないミルカに最初はできなくて当たり前だと言ってくれ、ミルカの拙い作法を細かく指摘してくれたが、それが余計に前世の自分とその末路を思い起こさせた。あまりの悔しさ情けなさにミルカは涙をぽろぽろとこぼしながら食事をした。当然、味などわかるはずもなかった。
咀嚼するよりも「申し訳ございません」を発する回数のほうが多かった食事をなんとか終え、ミルカはダイニングホールを後にした。廊下の鏡を見れば、鏡に映る自分は泣きすぎて目の周りのメイクが流れ、パンダみたいになっている。
あとでアリスに頼んでメイクし直してもらうか、あるいは学園寮に戻るだけなのでいっそメイクを落としてもらうかしなければ。そう考えていると、ふいに鏡に映る顔が二つになった。
「ミルカ」
慌てて振り返ると、ディートリヒが相変わらず感情の読めない表情でミルカの名を呼んだ。
「もう寮に戻るのか」
「そのつもりです、ディートリヒ様。外泊届は申請しておりませんし、まだ初日ですから」
「義兄と」
「えっ?」
「義兄と呼んでほしい、ミルカ」
ディートリヒは表情を変えずに言った。いや、よく見ると寂しそうに少し眉が下がっている。
ミルカの視界に選択肢が現れた。
《「はい、お義兄さま」》
《「ディートリヒ様、身分の差がございますので…」》
「ディートリヒ様~」の選択肢が赤黒く染まっている。ミルカはもちろん「はい、お義兄さま」と答えた。
「無理はしていないか?」
「問題ありません、お義兄さま」
「そうか。学園生活でわからないことがあれば相談するように。一年生でも優秀な成績を修めれば、生徒会に推薦される。生徒会は必ずミルカの助けとなるだろう」
「ありがとうございます、お義兄様。誠心誠意努力を重ねてまいります」
ミルカの返事に軽くうなずいて、ディートリヒは去った。
出会った初日に義兄呼びを許すとは、イベントの進みが少し早い気がする。マナーを学びながら夕食をとったことが彼の好感度に影響したのかもしれない。ゲームのヒロインは特にマナーなど気にせず、庶民の食べ方をやめなかったのだ。
また、ここで生徒会に入るための道筋も示された。攻略対象の中には生徒会に参加することが攻略の前提となるものがいるので、逆ハーを目指すには生徒会に参加することが必要不可欠。しかし、ゲームと違ってここでは自分が勉強しなければ優秀な成績を修めることができない。
恋愛だけでなく勉強も頑張らなければ、とミルカは気合を入れた。
翌朝、起床の鐘が鳴るよりも早くミルカは寮を出た。朝靄のかかった学園内はまだ静かで、空気も昼間よりおいしいような気がする。
この時間でないと遭遇イベントが起きない攻略対象が一人いる。ゲームではランダムで早起きするヒロインだったが、ミルカは善は急げとばかりに入学式の翌日からイベントが発生するまで早朝散歩をすることにした。
本来わたしが主人公の世界なんだ、多少好きにしたって許されるだろうという思いがなくなったわけではないが、前世を思い出すとどうしても怖くて身分差を気にしてしまう。そうして気疲れした心が朝靄に洗われるような心地がして、ミルカは足取り軽く校庭を歩いた。
噴水のある広場に着いたミルカは、噴水の横にしゃがみ込む黒髪の少年を見つけた。少年はこちらに背を向けていて、ミルカには気づいていない。
初日で当たりを引いた。ミルカは心の中でガッツポーズをする。
人の近づく気配を感じたのか、少年は素早く振り向いた。
「どなたですか?」
「びっくりさせてごめんなさい!」
ミルカは頭を下げる。
「ダールアイアー侯爵令嬢、ミルカです。あなたは?」
学園に入ってから初めて、ミルカは先に名乗った。ゲーム知識が身を助けたが、そうでなくても少年の特徴的な見た目でその身分はすぐにわかったことだろう。
「…バルチュ伯爵令息、クリストフ」