Fランク大学出身の俺が大手企業に採用されて、『社長彼氏』という役職に就いた。え? 何それ?
俺は今、何をやっているんだろう?
俺・早川理玖は、一日に一回はそう考える。
俗に言うFランク大学を卒業したものの、就活には失敗。一年間の就職浪人を経て、ようやく見つけた働き口はサービス残業当たり前の超ブラック企業。
毎日明るくなる前に家を出ては、終電ギリギリに退勤する。そんなのはまだ良い方で。
終電に間に合わず帰宅出来ないなんて日も、ザラにある。
「働かざる者食うべからず。だから食う暇があったら仕事に励め」。それが我が社のモットーで。
……いやいや。普通に死ぬっての。
やりがいなんてない。だからとてもじゃないけど、今自分が生きているとは言えなくて。
さながらゼンマイ仕掛けの人形のように、ただ動いているだけだ。
かといってそんな日常に嘆いて仕事を辞めたとしても、次の働き口なんてあるわけない。
俺みたいな最底辺の人間は、結局最底辺の生活しか出来ないのだ。
この日はたまたま就業規則通りの時間に出勤することになり、朝七時半発の上り電車に乗車していた。
通勤ラッシュ時の車内は、やはり混んでいる。最近始発ばかり乗っていたから、隣に立つ人に気を遣いながら吊り革に掴まるのが、なんだか新鮮な気分だった。
通勤時間はおよそ40分。座れたら仮眠でも取ろうかと思っていたけれど、流石に立ったまま寝ることは出来ない。
仕方なく車窓の外を眺めていると、ふとある光景がガラスに映った。
(ん? あれって……)
ある男性が、女性の臀部に手を伸ばしては、先程から優しく撫でている。
その手つきは、明らかにいやらしい。そう、痴漢だ。
しかも痴漢している奴、見たことがあるぞ。あれはウチの会社の社長のバカ息子じゃないか。
仕事が出来ないくせに給料は俺たちより多く貰っていて、毎日一人だけ定時退社している最低野郎だ。
今ここで「この人痴漢です!」と糾弾すれば、このバカ息子は現行犯で即刻逮捕。犯罪者まっしぐらで、ザマァみろだ。
だけど……そんなことしたら、社長の怒りを買うに違いない。間違いなく、クビになるんだろうなぁ。
苦労して手に入れた職を失いたくなんてない。自分のことだけを考えると、見て見ぬフリをするべきだ。
俺が指摘しなくても、そのうち他の誰かが気付くだろうし。
でも――女性の今にも泣き出しそうな顔を見ると、そんなこと出来なかった。
俺はクルリと体を180度回転させると、バカ息子を指差す。
「この人、痴漢です!」
……言っちまった。えぇ、言っちまいましたとも。
俺の言葉を聞いて、近くにいた乗客の視線は一斉にバカ息子に向く。
彼らの視線は、女性の臀部とそれを撫でているバカ息子の右手に注がれた。
目撃者多数。言い逃れなんて、絶対に不可能。
バカ息子は次の駅で強制的に降ろされて、警察官に連れて行かれた。
そして俺は――社長の逆鱗に触れて、案の定クビになった。
でも、女性を一人救えたんだ。後悔はしていない。
◇
職を失っても、人生は続いていく。
家賃とか食費とか、生きていく以上一定のお金は必要なわけで。だけど収入のない現状では、その一定のお金を捻出することさえ難しかった。
この状況を、一刻も早く打破しなければ。
俺は連日西へ東へ、就職活動に勤しんだ。しかし――
所詮はFランク大学の出身。その上理由はどうであれ、前の会社をクビになっている。そんな人間を雇ってくれる会社なんてまずなくて、面接したその日にお祈りメールが届いていた。
世間というのは、本当に世知辛い。
半ば就職を諦めていた俺だったが……なんと最後の最後で、一社だけ採用通知がきた。
驚くことにその会社は、ヤケになってエントリーした大企業だったのだ。
「どうしてこんな大企業が、俺なんかを採用するんだよ? 全然理解出来ない」
俺が人事担当だったら、絶対に採用なんてしないぞ?
しかしこちらも生活がかかっているんだ。雇ってくれるというのだから、ありがたくその申し出を受けることにしよう。
早速次の日、俺は本社へ足を伸ばした。
前に勤めていたブラック企業とは比べ物にならないくらい大きなビルに、どう見ても場違いな俺が入っていく。
社員の皆さん、着用しているそのお召し物は、一体どこでオーダーメイドしたスーツですか? 因みに私は量販店で安売りの時に買いました。
受付のお姉さんに「人事担当の方はいますか?」と聞くと、事前に俺が来ることを聞いていたのか、すぐに呼び出してくれた。
数分後、人事担当の社員がエレベーターから降りてくる。
あれは俺の面接を担当してくれた社員だな。確か名前は……馳川さんだったかな?
「早川さんですね。お待ちしていました」
丁寧なお辞儀で迎えられたので、俺も慌てて頭を下げ返す。
「先日はどうも。人事担当の馳川さんでしたよね?」
「昨日までは、ですけど。本日付けて社長秘書を任ぜられました」
社長秘書って……俺そんな凄い人と面談していたの? そんで採用して貰ったの?
今俺がここにいることは、ほとんど奇跡と言っても過言ではなかった。
「こんなところで立ち話もなんですし、取り敢えず移動しましょうか。社長室にご案内します」
「社長室って……あぁ。新入社員は、まず社長に挨拶するのが通例なんですね。こんな大企業の社長が、私のような下っ端を気に掛けてくれるなんて……感激です」
「社長が社員一人一人を大切に思っているのは事実ですが、そういった理由で案内するわけではありません。社長室こそが早川さんの仕事場だから、ご案内するのです」
……何だって?
「えーと、それって俺も馳川さんみたいに、社長秘書になれと? 申し訳ないですけど、俺に秘書の経験なんてないですよ?」
面接の時も、「就職して以来ずっと営業担当だった」と言っていた筈だ。営業成績は、多少誇張したけど。
「わかっています。秘書をやれなんて、無茶なことは言いませんよ。……早川さんには、『社長彼氏』という役職に就いて欲しいのです」
「社長彼氏ですね。わかりました……って、はい?」
一瞬聞き流してしまったけれど、全然わかりましたじゃない。社長彼氏って何? どういう仕事をするのかが、皆目見当もつかなかった。
「すみません。一つ質問を良いですか?」
「構いませんよ」
「社長彼氏って、何ですか? 聞いたことない役職なんですけど」
「それは……」
答えかけたところで、馳川さんはセリフを切る。
「説明が長くなりそうなので、詳しい話は移動してからにしましょう」
◇
社長室は、本社の最上階に設けられている。
コンコンコンと、馳川さんはノックを3回程する。「どうぞ」という返事はすぐにあった。
「失礼します」
馳川さんに続いて、俺も社長室の中に入る。
これ程の大企業だ。どんな極道の姐さんが現れるのかと思ったら……なんと部屋の中にいたのは、俺と大して年の変わらない女性だった。
「社長。早川さんをお連れしました」
「ありがとう、馳川。そして初めまして、早川さん」
「初めまして。これからよろしくお願いします」
「社長の三沢英玲奈よ。こちらこそ、よろしく。……時に早川さん。あなたは我が社の経営理念を知っているかしら?」
当たり前だ。
経営理念なら入社前どころか面接前に、暗唱出来るようになるまで頭に叩き込んでいる、
「『最高のサービスは、最高の人生の為に』。素晴らしい経営理念だと思います」
「ありがとう。その経営理念に基づき、あなたにはこれから――社長彼氏を立派に務め上げて欲しいわ」
「だから、何だよそれ!?」
おっと、いかんいかん。
社長彼氏というのが意味不明過ぎて、つい社長にタメ語を使ってしまった。
「失礼しました。ただ……社長彼氏というのが、よくわからなくて」
「他の会社じゃ、社長彼氏なんて役職設けていないからね。……社長彼氏というのはその名前と通り、社長である私の彼氏として私と一緒に行動して貰う社員のことよ。勿論彼氏というのは、勤務時間内限定のフリだけど」
「偽物の彼氏ってことですか? ストーカー被害に遭っているとか?」
「そこまで深刻じゃないわ。でも、大企業の若い女社長となれば、言い寄ってくる男も少なくない。週に一回は、私と結婚してゆくゆくはこの会社を乗っとろうと考える男と会うわ」
三沢社長の場合、大企業の経営権や莫大な資産だけでなく、この美貌だからな。男たちが放っておかないのも頷ける。
「つまりそんな男共から言い寄られないようにする為の、所謂防波堤の役割を担っているのが、社長彼氏というわけですね」
「そういうこと。彼氏がいれば、言い寄って来る男の数は激減するからね。その分仕事に集中出来る。……以上が社長彼氏の役割なんだけど、何か質問は?」
「質問というか、一つだけ聞きたいことがあります。……社長彼氏に、どうして俺が選ばれたんですか?」
フリだったとしても、対外的には俺と社長は今後恋人同士として見られることになる。
パートナー同伴のパーティーなんかでは、当然俺は「彼氏」として業界の重鎮や大手取引先に紹介されるわけで。……Fランク大学卒で前職をクビになったような男だぞ? そんな奴が彼氏だと公言して、恥ずかしくないのか?
下手すると、社長の評判を落としかねない。
自分に自信を付けるという観点からも、是非とも聞いておきたかった。
「早川さんを社長彼氏にした理由? サイコロを振って目が「1」だったら、あなたにしようと決めていたのよ」
ただラッキーだっただけかよ!
ていうことは、え? 6分の5の確率で、俺は社長彼氏に選ばれていなかったってこと? 今も絶賛無職中だったかもしれないってこと?
実力や経歴ではなく、完全に幸運でこの仕事を手に入れたわけだから、当然自分に対する自信なんて芽生える筈となく。
だけどまぁ、俺の運も捨てたもんじゃないな。それだけは確かに言えることだった。
◇
社長彼氏の仕事は、基本的に何もない。
だって営業は営業担当がいるし、経理は経理担当がいるし。社長のスケジュールの管理なら、馳川さんが完璧にこなしている。
パーティーとか会食も、連日連夜あるわけでもない。
社内業務での俺は、誰がどう見ても役立たずだった。
だから基本は社長室でボーッとしているわけだが……例えば社長にちょっと時間が出来た時なんかに、突然忙しくなる。
「馳川、今後の予定は?」
「18時から取引先と打ち合わせが入っております」
「それまでは?」
「特に予定はございません」
多忙な社長だが、たまにこうして予定のない時間が存在する。そういう時こそ、俺の出番だ。
「そう。今は15時だから、3時間は時間があるわね。行くわよ、早川」
「行くってどこに?」
「映画館よ。私とデートしろって言ってるの」
どうしてデート場所に映画館が選ばれたのかというと、3時間という時間を潰すのに丁度良いから。
そんな行き当たりばったりな計画なので、俺も社長も特別観たい映画があるわけじゃなかった。
それどころか俺に至っては、今何の映画が上映されているのかすら知らなかったし。
デートなので無難にラブストーリーを観ようかと考えたものの、次の上映回は1時間半後。時間潰しとしては不適合だ。
上映時刻と空席状況を鑑みた結果、女児向けのアニメ映画を観ることになった。
いい大人が二人仲良く女子向けアニメ映画を鑑賞だなんて……いや、悪くはないんだけど、個人的には趣味じゃない。
魔法少女の変身シーンや戦闘シーンに愉悦を感じる時期は、とっくに過ぎ去ったんだよなぁ。
そんな俺に対して、社長はこの女児向け映画に感動したようで、ハンカチがぐしょぐしょになるくらい号泣していた。
「最近の女子向けアニメって、こんなに泣けるものなのね。これはまさに大作よ」
消去法での鑑賞となったが、満足してくれたのなら何よりだ。
映画が終わると、時刻は17時半を回っていた。
これで会社に戻れば、18時からの打ち合わせに間に合うだろう。送迎用の車を呼ぶべく、俺が馳川さんに連絡を取ろうとすると、
「はい、ストップ」
何を考えているのか、社長が俺からスマホを取り上げた。
「社長……社会人にサボりなんて許されませんよ? サボりが許容されるのは、学生までです」
「学生も授業をサボってはいけないと思うけど……。というか、別にサボるつもりはないわよ。ただ車は呼ばずに、電車で帰りましょうと提案しているの」
電車でって……どうしてゆったり快適シートの車に乗って帰れるというのに、わざわざ混んでいる電車に乗りたがるのか? 金持ちの考えることは、庶民にはわからない。
しかしそれが社長の要望であるならば、従うのが部下の務めだ。彼女のお願いであるならば、叶えるのが彼氏の役目だ。
ICカードを持っていない社長の為に切符を購入し(金持ちあるあるだ)、それから改札をくぐる。
ICカード専用の改札で何度も切符をかざし続けるし、降車専用ホームで電車を待ち出すし、乗車するまでで一苦労だった。
車内は満員というわけじゃなかったが、かといって空いているわけでもなく、俺たちは並んで吊革に掴まる。
電車に揺られていると、ふと社長が話しかけてきた。
「ねぇ、早川」
「何ですか?」
「実を言うと私、一つだけあなたに嘘をついたのよね」
「嘘?」
いきなりそんな告白をされても、一体何が嘘なのか予想も出来ない。「あなたを採用したことが嘘」だなんて言われたら、流石にショックが計り知れないけど。
「あなたが初めて出社した日、どうして自分を社長彼氏に選んだのか聞いたわよね?」
「えぇ。それに対して社長は、サイコロの目が「1」だったからと答えました」
「そうだったわね。……だけど、それが嘘なの」
……はい?
混乱してきたので、頭の中を整理してみよう。
嘘というのは、「1」の目が出なかったということ? それとも、そもそもサイコロなんて振っていないということ?
疑問の答えは……後者だった。
「あなたが我が社にエントリーした瞬間に、私はあなたを社長彼氏にしようと決めていた。ううん、それは順序が逆ね。あなたが我が社にエントリーしたからこそ、社長彼氏なんていう役職を作ったの」
つまり社長彼氏という役職は元からあったものではなく、俺が入社するにあたって新設されたポストで。
もっと言えば、俺の為に作られたような役職だった。
「社長、肝心な疑問にまだ答えて貰っていません? どうして俺に、そこまでしてくれるんですか?」
「それはーー恩返しよ」
そういうと、社長はその場から移動して、俺に背を向ける。そして車窓に反射した俺を見つめた。
「……ねぇ、何か気付かない?」
「何かって……あっ」
同じように車窓に反射した彼女を見ることで、俺は以前にも似たような光景を見たことを思い出す。
あれは確か、俺が前の会社をクビになった日の朝。すなわち例のバカ息子を痴漢として糾弾した朝だ。
驚くことに、社長はあの時痴漢の被害に遭っていた女性だったのだ。
「ようやく思い出してくれたようね。わざわざ電車に乗った甲斐があったわ」
「俺にあの朝のことを思い出させる為だけに、電車に乗ったんですか? それは申し訳ないことをしましたね。忘れててすみません」
「良いのよ。私のことを覚えていなかったいうことは、あの朝のあなたに一切の下心がなかったという証拠なんだから」
「ありがとう」。社長は俺にお礼を言う。
だけど彼女が本当に伝えたかったことは、嘘の告白でも感謝でもなかった。
「あなたが好きよ。これからは社長彼氏じゃなく、三沢英玲奈の彼氏になってくれないかしら?」
社長のバカ息子を痴漢容疑で逮捕させて、前の会社をクビになって。俺の人生ドン底に落ちたと思っていた。
だけど決してそんなことはなくて。
「社長彼氏って、どのくらい時間外手当が付きますか?」
「新設されたばかりの役職だから、まだ決まっていないわ。逆に聞くけど、どれくらい欲しい?」
「そうですねぇ……じゃあプライスレスの愛情でお願いします」
あの時見て見ぬフリしないで良かったな。良い行ないをすれば、必ずどこかで自分に返ってくるのだ。