第38話
その瞬間まるで時が止まったかのように自分の意識が飛んだ。
終わったんだ。
5歳の時に前世を思い出してから、どうにかしてレオンハルト様から離れようとした日々は、意外にもあっさりと、そして殿下本人によって終止符がうたれた。
ぽかんと口を開けた私は、しだいにじわじわといろんな感情が体の中に沸き起こって心臓がドクドクと響き、胸元でドレスを握りしめた右手が小刻みに震えている。
嬉しい? 寂しい?
ホッとした?
それとも殿下の側にいたかった?
これで家は安泰?
辛い?楽になった?悲しい?幸せ?
どっち?私の気持ちはどっちなんだろう。
でも
終わった。終わった!......終わったんだ!
「おかしいですね。」
歓喜なのか沈痛なのか、よくわからない感情で立ち尽くす私の横でエルケが自分の顎に手を置いて唸った。
「あのレオンハルト様が、王家と公爵家で正式に結ばれた婚約を何の確認もなく破棄、了承するとは考えられませんわ。」
ちらりとエルケの視線が私へと移動する。
「お嬢様。」
ぎくり。
「いま殿下が押印した用紙からほのかに魔力を感じます。......何か細工を致しましたね?」
「あ、えーと...。あのー。そのー。」
しどろもどろになる私にエルケの澄んだ青い目がギラリと光った。
「とぼけてもよろしいですよ。その代わり、アリシアお嬢様のおやつタイムにお嬢様の大好きなガトーショコラが1ヶ月ほど姿を消すかもしれませんが。」
「うぐっ。なんて卑劣な...っ!?」
「お嬢様?」
「......わ、わかったわよ。い、言うわ。
殿下がいま押印なされたあの用紙、婚約破棄証明書は、双方が署名欄に署名する前は『婚約 証明書」と“破棄”の部分が抜け落ちて見えるマジックアイテムなの。」
ぽそっと呟いた私の言葉にエルケの目がさらにギラギラリと光る。こっ、怖いからあぁっ!
この騙し打ちのように相手に署名させる婚約破棄証明書は、私が先日フリックル男爵の書店で購入した『美しく書き美しく別れる婚約破棄証明書の綴り方2』の初版購入者にだけにもらえる特典だったのよね。
なんでも1巻を発行した際に、婚約相手がなかなか婚約破棄してくれない、との悩みが書かれたファンレターが多かったらしく、著者が思いついて高位魔導士に頼み込んで作ってもらった逸品らしい。
あぁ、素敵な著者様。文章も素晴らしいけど発想も素晴らしいですわ。
「なるほど、一見、自分の婚約者が自分の愛を証明してくれと婚約証明書を持ってきたかのように見せかけて、サインさせた後に魔法が発動して“破棄”の文字が浮かび上がる......という書類なのですね。
先程、アリシアお嬢様が文官が持ってきたワゴンに積まれた書類の山に何か紙を差し込んだなぁと思いましたが、この用紙だったのですか。」
さすが我が侍女エルケである。理解が早い。そしてさっきこの用紙を紛れ込ませた様子もすっかりバレていたのね。
「ミ、ミッションその②。お仕事に集中している殿方の隙をついてマジックアイテムの婚約破棄証明書にサインをさせる......なぁーんて?あはははは......エルケ怒ってる?」
先程までのギラリとした視線ではなくなったが、引き続きじーっとこちらを見てくるエルケの視線が痛い。バッドエンドの未来を知らない彼女は、やはり王太子妃専属侍女になりたかったりしたのだろうか?
「......はぁ。怒ってなどおりませんよ、お嬢様。
そこまで婚約がおイヤならばアリシアお嬢様の気持ちのままにお断りしたら良いと常々思っておりました。」
「エルケ......!!」
「忠誠を誓ったあの日から、わたくしの幸せはお嬢様の幸せと共にあります。周りが羨むほどの婚約であったとしてもお嬢様が不幸なら意味がないのです。
ただ、わたくしにはお嬢様がレオンハルト様を...」
エルケがそこまで言いかけた時、王太子の執務室とは反対側の扉から文官やローブを纏った人々が一斉に押し入ってきた。
そして、そのまま殿下の執務室へとなだれ込むように入って行く。
「殿下!ラフィ殿!一体これはどういうことですかああぁぁ!?」
大きく開け放たれた扉からさっきの人々の叫び声が聞こえた。
きっと例の婚約破棄証明書が問題になっているのだろう。
レオンハルト様は“破棄”の文字が浮かび上がった時どんなお気持ちになっただろうか。まだレナーテ様と愛を育んでいないバッドエンド2年前の今なら少しは残念に思ってくださっただろうか。
ハリネズミにチクチク胸を突かれながらも見届けなければと殿下の執務室を覗く。
「アリシア様。」
すると覗きこもうとした私の目の前にラフィが立ち塞がった。
「これは?この用紙は一体どういうことかご説明いただけますか?」
ぴらっと目の前にさっきエルケに説明したマジックアイテムの婚約破棄証明書が差し出された。
「これは、その...。」
「困るんですよ。急にこのようなものを持ち込まれては。」
いつもの天使のような笑顔だが、彼の背後が黒く染まっているように見えるのは気のせいだろうか。
「そっ、そうですよね。」
「そうですよ。王太子の印章が変形するなんて前代未聞です。」
「そっ、そうですよね。
......は?変形?」
ぱちくりと瞬きをして改めてラフィの持つ婚約破棄証明書の署名欄を見ると、何故かレオンハルト様がサインすべき欄に大きなハート型の判子が押されている。
「困りますよ。仕事中にこんなものを持ち込まれて殿下の愛を確認なされては。殿下が舞いあがって思わず持っていた印章を魔力でこのような形に変形させてしまったではないですか。はぁー。このあとの書類に押す印章をまた作り直さなくてはなりません。アリシア様?聞いていらっしゃいますか?」
まさか!と上部を見ると、王太子の印章ではなく、ハートの判子が押されたため魔法が発動しなかったのか“破棄”の文字は浮かび上がらず、『婚約証明書』のままになっていた。
そ、そんな......。
おそるおそるラフィの横から執務室を覗くと
「幸せだ。幸せすぎる......。」
と、真っ赤な顔を手で覆って呟いているレオンハルト様と
「殿下ああぁぁ!印章1個作り直すのに一体どれくらいの貴重な宝石を使うと思っているのですかああぁぁ!?」
と青ざめて嘆いている文官達の姿が見えた。
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