第37話
レオンハルト様の手によって、ポンポンとリズミカルに押されていく王太子の印章。
沢山の書類を瞬時にチェックして押印していき、不備があるもの承認できないものは彼の右腕であるラフィの目の前に風魔法で弾き飛ばされ…ある程度纏まると文官達が受け取りにくる。
先程のワゴンを押していた文官の青年が退出してから、私は殿下の執務室をそっと覗いていた。
扉横に立つ王子付きの近衛騎士がまるで孫を見るかのように扉の隙間を覗く私を微笑みながらみているのは何故だろう。
「待ちきれずに覗いてしまうなんて初々しいなぁ。はぁ。俺の女房もこんな時代があったよなぁ。」
ため息をつきながら何やら小声で呟いているようだが、声が小さくて私には聞こえなかった。
ううん、今はそんなことを気にしている場合ではないわ。しっかりと見届けなくては。
私はこの作戦を実行するために今日の王太子妃教育を死に物狂いで終わらせてきたのだもの。
今度こそ、成功させなくてはいけないのよ。
「もうすぐだわ。もうすぐあの紙の番よ」
「何の紙でございますか?」
「そりゃ、婚約破棄証明書に決ま......ってエルケ!?」
私の下側からニョキッと顔を出し、扉を覗く専属侍女の行動に主人である私ですらびっくりする。
「エルケ!あなたねぇ、いくらなんでも主人の私の腕を掻い潜って王太子の執務室を覗くなんてそれこそマナーいは......」
「しっ。お嬢様。大きな声で話されては覗いていることがレオンハルト様にバレてしまいます。
ガーラント家使用人訓示。
『空気のように主人の生活を覗き、目に映ったものは心の箱に入れ鍵をしめよ』でございます。空気です。空気。」
「......雇っている側に教えていいの?その訓示。」
ジト目で見つめる私に斜め上に視線をそらすエルケ。
「まぁ、その話は置いといて。」
「勝手に置いておかない。」
「あまり大きな声を出すと気付かれますよ、お嬢様。」
「くっ。ほんとにもう......って、あ!次よ!私が用意した書類の番!」
エルケと話してる間に私が先程紛れ込ませた紙に印章が押される順番がきたようだ。
そして、山のような書類を流れるように目を通して押印していたレオンハルト様の手が一瞬止まったかのように見えた。
「気付かれた......?」
ハッと息を飲んだ私にエルケがそりゃそうてしょう?と言いたげな呆れ顔を向ける。
「レオンハルト様ほどの仕事のできる方が、大切な婚約者であるアリシアお嬢様からの婚約破......いえ、送付書類に気付かない訳はありません。流れるように作業なされているように見えても、きちんと一枚一枚目を通されていらっしゃるのですよ。」
「それはわかっているわ。レオンハルト様が仕事を適当にこなす方とは思えないもの。」
「だったら、書類の山に紛れこませても婚約破棄書......コホン、お嬢様からの送付書類に押印などしてもらえないことなどはじめからおわかりでしょうに。」
「でも、あの書類は......」
そう言いかけた時だった。
執務室からガタンと音がして、慌てて中を覗くと書類が飛び散る中に執務机に肘を着き、顔を片手で覆ったレオンハルト様が見える。
顔を覆っているのと反対の手には王太子の印章が握られていたが小刻みに震えているようだ。
「こんな日がくるなんて......。」
そう呟いたレオンハルト様は、目の前の書類に静かに押印した。
そう、私が用意した婚約破棄証明書に......。