第35話
◇
「おや。アリシア様ではございませんか。」
王太子の執務室に続く扉からひょっこりと顔を出したのはふわふわの薄茶色の髪をした青年だった。レオンハルト様の側近であるラファエルだ。
「ごきげんよう。ラフィ。」
「レオンハルト殿下とのお茶会の時間までまだ半刻ほどありますが、もしや、すでに講義を終わらせていらっしゃったのですか?」
「えぇ。今日は早めに来て殿下のお仕事をしていらっしゃる姿を見てみたいなぁと思ったの。」
うふふとはにかむように笑う今日の私は女優である。横で「さっきまで不敵な笑いをしていらっしゃった方はどなたでしたっけ?」とエルケが眉をひそめているけど気にしない、気にしない。
執務室に来るために全力で本日の王太子妃教育を終えてきたのだ。普段なら婚約破棄をしてもらうためにわざと問題を間違ったり、ダンスを覚えなかったりするのだけど、今日は一問も間違えず、ダンスも完璧!講師の先生達がついに本気を出されたと涙していたのが、これから遂行するミッションを考えるとちょっと心苦しいけども。
「そうですか。それは、それは。アリシア様がそのようなことを仰ってくださったなら殿下もお喜びになりますよ。」
ラフィが薄い黄緑色の瞳を細めて天使のように微笑む。
「それを聞いたら、いつもより倍は働いてくれそうですね。文官に書類を追加で持って来させましょうか。」
「へ?」
今天使のような笑顔で何やら不穏なこと言わなかった?き、聞き間違いかしら?
「いえ、何でもありません。では、どうぞ。お入りください。」
ふわりと笑うラフィ。
こんな優しい笑顔の青年が、書類追加がどうのなんて言うわけがないしきっと幻聴よね。幻聴が聞こえるなんて、私ったら今日こそはミッション成功するわよと気負って緊張しすぎているのかしら。
おちつくのよ。アリシア。
深呼吸。深呼吸。スーハー、スーハー。
ラフィは、話している間後ろ手に閉めていた扉を今度はカチャリと大きく開いてくれた。
「............っ」
部屋に入った途端に空気が変わった。
ピリピリとした緊張感とかではない。
何か、何か神聖な...この執務室の空気だけが清浄されているような、そんな空気に。
大きな窓から溢れる日差しの中、大きな執務机にその人は座っていた。
真剣に書類に向かう姿に思わずドキリとする。
レオンハルト・シーガーディアン。
この国の第3王子。
銀髪の貴人。そして、前世で私の推しだった人。
長めの前髪が邪魔だからだろうか、サラサラの銀糸のような髪は、後ろ側になでつけてあり彼の端正な顔立ちが顕になっていた。
いつもの黒縁メガネはかけてはいなかったが、仕事用らしき銀縁の瓶底メガネをかけていてやはりその瞳は見ることはできない。
「ラフィ、どうした......?」
振り向いたレオンハルト様が予想もしていなかった私の存在に気づき固まったのがわかった。
「殿下。アリシア様が......」
「なんてことだっ!!」
ガタガタン!!
ひっ!?
レオンハルト様が執務机から急に立ち上がり、両手で頭をおさえ真っ青な顔になって首を振っている。立ち上がった拍子に座っていた椅子が後ろにバタン!と大きな音で倒れてしまった。
ーーそ、そんなに私が来たことが嫌だったのだろうか。
好感度を上げることをしなかったから今の殿下の私に対する数値は最悪だったりするの?
そう仕組んできたのは私なのだから、わかってはいるけど、やっぱり本人に目の前であからさまに拒絶されるとショックだった。
だったら、そんなに嫌なんだったらさっさと婚約破棄してくださったらい...
「なんてことだ!!ラフィ!!
私は、僕はついにアリシアの幻覚が見えてきたらしい......!!」
「は!?幻覚!?」
わなわなと震える手を今度は耳に当てて驚愕の表情をしている。
「あああああぁ!!しかも幻聴までっ!!
重症だ!アリシアが足りないっ!ラフィ頼む!この書類は夕刻に必ずやり遂げると誓う!僕をアリシアと今すぐ茶会させてくれっ!!一生のお願いだ.....!!」
「ラフィ、ちょっ、レオンハルト様が...何かおかし......え?ひっ!?」
ぐわしっと肩を掴まれ、上を見上げると真剣な顔のレオンハルト様がこちらを眼鏡ごしに見つめていた。
い、いつの間に近づいてきたのっ!?
「掴める...。触れれる。すごいぞ!僕の見る幻覚は話せるし触ることもできるのか!」
いえ、違います!本人です!幻覚じゃありません!!と言いたいのに、殿下のあまりの気迫に声が出せない。
誰か助けてと横を見ると、
『ご武運を』と書かれたメモを掲げたエルケとラフィが退室して行くのが見えた。
「5分後にまた来ますね」とラフィが天使の笑顔で悪魔のようなセリフを残して扉を閉めてしまった。
ま、待って!1人にしないでっ!
エルケ達の消えた扉のドアノブに手を伸ばそうとしたが、その手が殿下にからめとられる。
「あぁ、素晴らしい...!僕の婚約者は幻覚ですら完璧だ。陶器のような白い肌、透き通るエメラルドのような瞳。」
レオンハルト様の口元に誘導された手の指は1本ずつ掠めるように口付けられる。
「はひいぃっっ!?」
瓶底メガネなのでよくわからないが、すごく熱い視線を殿下から感じた。
気づけば両手は自分の後ろの扉に彼の両手によって縫いとめられている。
「僕のアリシア」
甘い声が耳元をくすぐる。
自分の顔が真っ赤に熱をもっていくのがわかった。
瞬きすらできなくなった私の瞳には、だんだんと近づいてくる殿下の顔だけが映っていた。