輝夜の陸
血迷いそうになるカグヤを余所に、アケミは沈思黙考の最中であるようだ。しばらくしてから、アケミは俯いたまま、ぽつりとつぶやいた。
「なるほど……カグヤ様もそうなのか」
顔を上げたアケミの幼子のような顔を目の当たりにして、カグヤは目を瞠る。
なんと答えたものかと、カグヤは迷う。誉められているのか貶されているのか、いまひとつぴんとこない。
わからないことに、次第に腹が立って来て、舌をうちつっけんどんに切り返した。
「なに、それ。どういう意味?」
「あなたはきっと、ご自分を犠牲にしてでも、他の誰かを守ろうとするひとだ。あなたみたいなひとを、善人と呼ぶのでしょう」
アケミのその一言に、カグヤは雷にうたれたような衝撃を受けた。
月代の女として、オオエヤマの里の為に生きることを信条としてきた。けれども、あまりに残酷で理不尽な呪縛がその双肩に圧し掛かるとき、カグヤの矜持を支える根幹が揺らいでいた。
母代樹である叔母を亡くしたとき。月代は、新たな母代樹を立てる必要に迫られていた。
カグヤはまだ初潮を迎えていなかった。子を孕むことが出来る身体でなければ、母代樹は務まらない。長老をはじめとする寄り合いの面々が嘆息してそう言ったとき、従姉の姐様が名乗りを上げたのだ。
『姐様は長きに渡り、私たちの為にお役目を勤めてくださいました。姐様のご意思は、このわたくしが継がせて頂きます』
伯母の娘である彼女ならば適任だった。
カグヤはいずれ母代樹の役目が自分に回って来るものだと覚悟をしていた。母代樹とは、当主の長女が務めるものであると定められていたから。
しかし、その覚悟は漠然としていた。こんなにもはやくに、全てを失う覚悟を迫られるとは、思ってもみなかった。
伯母が呪詛に呑まれたと聞いたとき、カグヤはオオエヤマを呪った。月代の女は消耗品であると、弁えているつもりだったのに。伯母が蟄居する鬼母子殿から悲鳴と奇声が響き、いてもたってもいられず駆けつけた先で、変わり果てた伯母の姿を目の当たりにして膝をついたとき、カグヤはオオエヤマを呪った。そして、己を待ちうける残酷な運命を心の底から恐れたのだ。
伯母に次ぐ母代樹として従姉が選ばれたとき、カグヤは役目を果たせず落胆するどころか、安堵してしまった。人鬼儡子に輪姦され、産まれた子を取りあげられ、異形と成り果て、鬼に凌辱され鬼を産み落とす苦役を科せられるのが、自分ではないことに安堵していた。
カグヤのかわりにその役目を担うのが、実の姉のように慕う従姉であることを知ったとき、カグヤは己が怯懦と卑怯に絶望した。
アケミの言葉は、カグヤの心に深く根ざした傷口に爪を立てられ、こじあけるものだった。
「……口を慎め! お前になにがわかる! お前のような……」
込み上げる激情が喉に閊え、カグヤは唇を閉ざし、アケミを憎々しいと睨みつけた。
アケミは適当なおためごかしを言っただけなのだろう。しかし、彼の養父はオオエヤマの里長である。里長ならば母代樹の術の根幹を担う月代の事情を把握している。里長を務める老人が里の大事を軽々しく触れまわることはないだろう。しかし、もしかしたら、養子であり史上最年少の人鬼儡子となるアケミには、真実を知らせているのではないだろうか。アケミはそれを知った上でカグヤを軽蔑しているのではないだろうか。
アケミの鏡面の瞳はカグヤをうつしている。その顔は醜悪に歪んでいる。
わからないだろう。死地に立たされても友を見捨てず守り抜く、強く美しいアケミには、自分可愛さに、従姉が自分の身代わりになることに安堵する、弱く醜いカグヤの気持ちなんて、わかるわけがない。イバラキの言う通り、アケミは特別な存在なのだから。
アケミが溜息をつく。カグヤの肩がびくりと跳ねた。恐る恐るアケミの方へ目をやると、アケミは尻の後ろに両手をついて、足をぶらぶらさせている。先ほどまで行儀よくしていたアケミの、幼子のような振る舞いに目を丸くするカグヤを流し見て、アケミはくすりと含み笑った。
「僕のような、人間の出来損ないには、わからないだろうなぁ。きっと、心が欠けているんだ。実際、あなたがどうして怒っているのか、僕にはさっぱりわからない」
アケミは足をぶらぶらさせながら、濡れ縁に仰臥した。困惑のあまり腰が引けているカグヤを見上げて、アケミは言った。
「カグヤ様がイバラキを助けてくださったときのことを、思い出していました。ご自身の危険も顧みず、見ず知らずの薄汚れた小僧を救う為、玉体を激流に投げ出されたカグヤ様のご勇姿を、イバラキは忘れられないようだった。僕が知らないだけで、他に何かあったのかもしれないけど、あいつはあなたにめろめろだ。命の恩人だからなのかと、試しにあいつの命を救ってやったこともあったけど、あなたはあいつの特別のままだった。どうしてなんだ、あなたにあって、僕にないものは何なんだろうって、ずっと考えていました。お陰さまで、いまようやっとわかりました」
きょとんとするカグヤにアケミは微笑みかける。
「イバラキは、清らかな水の流れみたいな奴なんです。澱みも凝りも受け容れて、それなのに、綺麗なままで。あなたもそうなんでしょう。あなたにも優しい心がある。似合いの二人だ」
アケミの言葉の真意はカグヤには分からない。アケミは謎めいている。ただ、敵わないな、と呟いた彼の淡雪のような儚い微笑みは、カグヤの瞼の裏に焼きついた。