輝夜の伍
カグヤがイバラキと出会ったとき、カグヤは十一歳、イバラキは十歳だった。
イバラキは粗末な襤褸を辛うじて帯で体に引っかけていた。小柄で痩せこけており、実年齢より幼く見えた。ゆるくうねる黒髪の合間から見える顔立ちはどこもかしこも刺さりそうなくらい尖っていて、飢狼のようだった。
オオエヤマ御三家の一角を担う渡辺家の現当主、渡辺 満次の一人息子とされるイバラキだが、満次との血縁はない。
後になって母から聞いた話である。イバラキの母は先々代の母代樹として立派に役目を果たした月代の女であり、カグヤの伯母にあたる女性である。イバラキは次代の母代樹と定められた伯母が「禊の儀」にて数多の人鬼儡子と交わり、孕み、産み落とした「穢児」なのだ。
伯母と恋仲であった若き日の満次は、本来ならば産褥にて火葬される筈の「穢児」の死を偽装し、我が子として連れ帰ったそうだ。
そこまでなら美談であった。ところが、満次は狂ってしまった。満次には、愛する女性を輪姦した男達の息子を愛することが出来なかったのだ。
翌年の春。アケミが『収狂の儀』に臨むことになった。人鬼儡子見習いは母代樹から人鬼の魂魄を捥ぎ取り、その身に宿し人鬼を調伏することで一人前の人鬼儡子となるのだ。
アケミは里長に連れられて月代本家を訪れた。一連の儀式を全て修めるまでの間、二人は月代本家に逗留することになっていた。
カグヤはアケミの来訪を母に知らされるより先に、イバラキの手紙によって知っていた。イバラキとの秘密の文通を初めてから三つの季節が通り過ぎていた。この頃になると、カグヤはすっかりイバラキに感化されていて、アケミを伝説の英雄のように想っていた。イバラキもカグヤも、不安が無いわけではない。収狂の儀とは文字通り、人鬼の狂気を術者の肉体に収めること。未熟者であれば人鬼の狂気に侵され、心身を喰らわれてしまう。
『アケミなら大丈夫だ。だってあいつは、すごい奴だからな』
イバラキは手紙に綴っていた。カグヤもそう思う。カグヤは、イバラキがアケミを信じるようにアケミを信じようと心に決めていた。
不死山に登頂したアケミは母代樹が祀られる神域へ直行した。そうして、アケミは難なく人鬼を調伏した。齢十一にして、アケミは史上最年少の人鬼儡子となったのである。
カグヤは喜び、早速、イバラキへ朗報をしたためた手紙を送るべく筆をとった。その最中、カグヤは母代樹零落の報せを聞いた。
それから怒涛の七日間が始まり、あっと言う間に終わった。不死山に日常が戻って来る。新たな母代樹として選ばれた従姉の存在を忘れてしまったかのように。
八日目の朝、屋敷の離れに寝泊まりしていた里長とアケミが母を訪ねた。正午には不死山を発つと言う。母は憔悴を微塵も感じさせずにこやかに、ではそれまでごゆるりとお寛ぎくださいと言った。
母はカグヤに、アケミを持て成すよう言いつけた。アケミへの配慮というよりは、伯母を亡くし従姉を失い、塞ぎこむカグヤへの配慮だったのだろう。母はきっと、カグヤがアケミとの再会を指折り数えて待ちわびていたことを察していた。
ところが、カグヤは素直に喜ぶことが出来なかった。母に気遣われても、不甲斐ない己のあさましさをつきつけられるようで、忸羞たる思いに押し潰されそうになっていた。
そんな状態でアケミとの再会を果たしたところで、ろくなことにならない。伯母はアケミに人鬼の魂を授けて、亡くなった。からからにひからびた伯母の命の最期の一滴をアケミが奪った。そのように考えてしまう。そんなことは無いと、アケミのせいではないと、アケミが収狂の儀に臨まなくても、いずれは別の見習いが収狂の儀い望み、伯母の命は尽きたのだと、わかっている。けれど、その事実をいくら自分自身に言い聞かせても、心のどこかで、カグヤはアケミを恨んでしまう。
イバラキへの手紙を運ばせた使鬼が、イバラキの血臭を纏って帰って来たことがカグヤの不安定な心をさらに揺さぶっていた。
月代本家の内庭には、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいものが生えている。春にはねっとりとしたような褐色の若葉とともに、絢爛な花が咲き誇る。カグヤにとっては見慣れた風景はそこにアケミが存在するだけで、幽玄な美観に変わる。
その身に鬼を宿した少年は、まるで風に浚われた羽衣を探して人の世に降り立った天女のようだった。
およそ一年ぶりに再会したアケミは、能面の様な顔をしていた。瞳は磨き上げられた鏡面のようにカグヤの陰鬱な顔をうつしている。アケミは紋切り型の社交辞令を口にしたが、その態度を好意的に見ようにも、無愛想のぎりぎり一歩手前と見るのがやっとのことである。
カグヤとアケミには面識があると言っても初対面の一度きり。多感な年頃のアケミが他人行儀なのも素っ気ないのも、当然と言えば当然のことなのかもしれない。しかし、カグヤは面白くない。
カグヤは、アケミがイバラキの唯一無二の親友であることを知っていた。カグヤとアケミは孤独なイバラキを友として大切に想う同志である筈だ。イバラキの親友であるアケミと姉貴分であるカグヤ、この二人が顔を合わせれば、イバラキについて語り明かすことになるだろうと想像していた。
それなのに、アケミはカグヤがまるで赤の他人であるかのように振る舞う。カグヤの知るイバラキの近況について話しても、イバラキの様子について訊ねても、上の空で生返事をするばかり。
カグヤは「イバラキが怪我をしたようだ。たぶん、満次にやられた」と告げた。するとアケミは、右の手にぐるぐると巻きつけた包帯の結び目を弄りながら「死なない程度にやってくれているでしょう」と呟いた。カグヤの腹の底でぐつぐつと煮え滾っていた激情が、その素っ気ない一言に穿たれた穴から噴き出した。
「なんだい、その言い種は! お前、それでもイバラキの親友なのか!? あいつの父親は狂っている。このままじゃ、あいつは殺されてしまうかもしれない!」
アケミが顔を上げる。べた凪のような白い顔がカグヤの焦燥を煽る。アケミの唇が咲き染めの花のように綻びかけたけれど、言わせるものかと思い、先んじてカグヤは言った。
「知ったことかって顔だね。親友がその父親に虐待されていると知っているのに、何とも思わないの? だとしたら、お前も正気じゃない。一番は満次だけどね。知っているかい? あの男、イバラキに死ねと吐き捨てたそうだ。親が子にかける言葉じゃない」
イバラキは満次に虐待を受けている。手を変え品を変え、幼い身体を傷つけては抉る念の入れようだ。不倶戴天の敵にするように執拗な攻撃である。
カグヤはきっとアケミを睨みつける。アケミがまんじりとカグヤを見つめていた。目をぱちくりさせて、アケミはカグヤに訊ねた。
「では、親は子になんと言葉をかけるものなのですか?」
とんちんかんな質問に、カグヤは眉を跳ね上げた。
質問の意図がつかめない。親がこどもに伝えたいことは、十人十色だろう。十把一絡げに、これだと決めつけられるものではない。満次のように、死ね、などと暴言を吐く親は極めて異質であるだろうとは思うけれど。
カグヤは考えあぐね、しかし、わからないと答えるのは年上の矜持にさわるので、逆説的な答えを捻りだす。
「わたしの母上は、わたしに死ねとは、口が裂けても仰らない。と言うか、親に限った話じゃない。誰であろうと、心ない罵倒で、あいつの心を傷つけちゃいけないんだ」
イバラキの泣き顔を思い出すと、カグヤの目頭は熱くなる。イバラキは哀れな子だ。イバラキを慈しみ育むべき父親は彼を憎み虐げた。それでも、イバラキは優しい心をもっている。イバラキがどんなにアケミを大切に想っているか、イバラキとの文通でカグヤが知った全てをぶちまけたなら、この薄情者の澄まし顔に亀裂を入れることが出来るだろうか。