輝夜の参
母は濡れ鼠になって戻ったカグヤを訝しく思ったようだ。しかし、この方あの方どの方と、挨拶回りをしているうちに、追及される暇もなく日が暮れる。母とカグヤは、オオエヤマの里御三家のひとつ、渡辺家頭首が主催する宴席に招かれた。
渡辺家頭首、渡辺 満次はおかしな男だった。退魔の家を統べるものであり、自身も歴戦の退魔師でありながら、その人となりは武人ではなく、狐狸の類に思わせる。満次が自身の後継者として紹介したのは、二十代前半と思しき青年だった。
「月下殿は健やかなお世継に恵まれましたな。羨ましい限りだ。私なぞ、まるで駄目でねぇ。幾人もの女を妻として迎えましたが、どいつもこいつも駄目、駄目、駄目。挙句の果て、最後の妻に不能にされましてな。まともな子は望めぬ故、私の次の頭首の座を、為さぬ仲の異母弟に譲る羽目になったのですよ」
満次がくつくつと嗤う。満次の杯に、異母弟である青年がせっせと酒を注いでいた。客人ではなく異母兄の機嫌をとるのに忙しいようだった。
大人たちは酒を酌み交わす。饗された料理をつついていられるうちはともかく、腹が満たされると、いよいよ手持無沙汰になってしまう。客人ということもあり、退屈しないようにと持て成されるのだが、酒臭い息を嗅がされるのはげんなりする。放っておいてほしい。
カグヤは母に「お花摘みに行きたい」と耳打ちした。母に頼まれた渡辺家の下女に案内されて厠へ向かう。厠の前で待つと言い張る下女を、落ちつかないからと言って追い払おうとした。下女はきょろきょろしながら、まっすぐ宴席に戻るようにと噛んで含めるように言う。あまりにしつこいので、不審に思い問いただすと、下女は言いにくそうに言った。
「頭首様のご子息がお見えになるかもしれません。ご子息は……その、心を病んでおりまして……少々挙動がおかしなことに……。いつもは座敷牢にいらっしゃるのですが、どうやってか、時々、牢を破りお外へ出るのでございます。月下様には、万が一にも、ご無礼があってはなりませんから……くれぐれも、お目汚しにならぬようにと……当主様にきつく仰せつかっております」
病人に随分と冷たい仕向けをするものだ、とカグヤはいささか鼻白んだ。渋々去って行く下女の影が見えなくなったのを確認すると、厠に入らずに内庭に面した濡れ縁へ出た。
野原をそのままうつしてきたような庭だった。山桜の大きいのがででんとある月下の屋敷の庭と比べると見劣りするようだ。だが、縁に腰かけてぼうっと、りんりんと聞こえる虫の声に耳を傾け、月の色にそよぐすすきの波を眺めているうちに、考えが変わって来る。このように、あえて手を加えないありのままのかたちの草花をめでるのも、悪くない。
そのとき、むこうの方で女たちの悲鳴が上がった。調理場のほうだ。獣が暴れまわるような物音がする。曲者だろうか。カグヤは袂の半月刃に指を添え、狩りをする獣のように体から余分な力を抜き神経を研ぎ澄ました。
カグヤが見ている前で、斬り捨てられた生首のように、人影が内庭にごろんと転がった。カグヤはすっと目を眇め、暗闇にまぎれたその正体を見極めた。切れ長の双眸が丸くなる。
相手の驚きは、もっとずっと顕著だった。しっかりと抱えた飯桶から上がるほかほかの湯気が、イバラキの間抜け面を浮かび上がらせている。イバラキはもう口を閉じないのではないかと心配になるくらい、あんぐりと大口を開けて呆けていた。
ところが、カグヤの視線が飯桶に注がれているのに気付くと、弾かれたように反対を向く。飯桶を抱え隠そうと、もぞもぞしながらがなりたてた。
「げっ、カグヤ! テメェ、そこでなにしてやがる。返答次第じゃ、承知しねぇぞ、コラ!」
「母上が此方の当主殿に御呼ばれしている。お前はここで飯泥棒しているようだね。もしかして、お前に家は無いのかい?」
うっ、と言葉に詰まるイバラキを見下ろして、カグヤは厄介なことになった、と天を仰いだ。
みすぼらしい身形だとは思っていたが、孤児なのか。オオエヤマの里の御三家に数えられるこの屋敷で盗みを働くとは、この小僧は礼儀も恐れも知らないらしい。
カグヤがイバラキをもてあましていると、罰が悪そうにしていたイバラキが、勃然となった。擬勢を張る猫のように、からだを大きく見せようと、肩を怒らせつま先立ちをしている。
「ここだ、ここがこのオレ様の縄張りだ! 誰の許しがあろうが知ったこっちゃねぇ、このイバラキ様は許した覚えはねぇぞ!」
ぴょこぴょこ跳ねる頭を押さえつけ、カグヤは、バラキの言葉を反芻した。この屋敷で盗みを働くのは、初めてではないということらしい。カグヤはイバラキの体に斑模様をつけている痣を思い出した。
ひょっとして、盗みや悪さをするから体罰を受けているのではなかろうか。しかし、ならば何故、屋敷のものたちはこの憎たらしい小僧を捨て置いているのかわからない。処分はネコより簡単だ。オオエヤマの修練場にでも放りこんでしまえば厄介払いが出来る。オオエヤマのしごきは厳しいと風のうわさにきいていた。退魔師見習いのこどもはいくらいても足りないらしい。
悶々と沈思していると、カグヤの頭に閃光が閃いた。先ほどの下女が、言い淀みながらも語った話を思い出す。いや、でも、そんなまさか。
カグヤは半信半疑できいた。
「まさか、お前が此方のご子息なの?」
言葉の意味がわからないわけがないのに、イバラキは要領を得ないようで、目をぱちくりさせる。カグヤは痺れを切らして、たたみかけた。
「お前は渡辺家当主の息子なんだろう?」
カグヤはすっくと立ち上がると、足袋のまま庭に出た。唖然とするイバラキの前に回り込み、腕をとる。墨を入れたように青く切り刻まれた腕をとり、カグヤは詰め寄った。
「どうして、実の父親に折檻されているの? 閉じ込められて、ろくに食べさせてもらえないで、殴られ蹴られているのは、どうして?」
イバラキは開いた口がふさがらない程、躾がなっていないこどもだ。だからと言って、下女が言うように、心を病んでいるとは思えなかった。野山で育った猿のように、のびのびとしているようにさえ思える。痩せぎすで傷だらけだが、健康そのものだ。喧嘩だって、特別強くないが弱くもない。座敷牢に閉じ込められて、折檻される理由がわからない。
困惑するカグヤの手を、イバラキが強い力で振りほどいた。飯桶が腕から零れ、土の上に無残に散らかる。イバラキは腰に手をあてふふんとせせら笑い、大きく胸を張った。
「フリだよ、フリ! 負けたフリをしてんだよ! あの癇癪持ちが癇癪起こして暴れたらことだろ? オレ様はどうってことねぇが、使いぱしりの連中がな。他人なんざどうなったって良いんだけどよ! あの親父はとにかく鬱陶しいだろ? だからわざとこてんぱんにやられてやってんだよ。言いなりになったフリしてんだよ。オレ様が本気になりゃ、あんな見栄だけのクソ親父、あっという間に熨してやれるんだけどな! だから、お前……」
イバラキは目を地面に落とす。地面に落ちた飯があげる湯気をぎりっと睨みつけ、ぐっと拳を握って、カグヤを見上げた。
「せ、折檻とか言うな、バカ! オレは辛くねぇし痛くねぇから! やられっぱなしで情けなくなんかねぇし、敵わなくて惨めでもねぇんだ! ひもじくねぇし寒くもねぇ、オレはへっちゃらなんだよ。閉じ込められたって、逃げてやるんだ。オレは強いんだぜ。なんてったって、あのアケミの好敵手だからよ! オレ様は最強なんだ!」
言っている途中から、イバラキはわっと泣き出した。無残に地に落ちたご飯を見ながらわんわん声を張り上げて泣きだす。
カグヤは目を白黒させた。イバラキの言っていることとやっていることは、ちっともかみ合っていない。ただカグヤにわかることは、カグヤの失言……そんなつもりは無かったけれど、無神経な暴言だったのだろう……がイバラキの心の傷をえぐり、イバラキから夕飯をとり上げたということだ。
イバラキは一向に泣きやまない。
カグヤは困り果てた。どうしていいか考えあぐねる。食物の恨みは恐ろしいと、いつかどこかで誰かが言っていた。
カグヤは袂からハンカチーフを取り出して、ぐしゃぐしゃのイバラキの顔に押し付けた。
「よく、わかった。とりあえず、これで涙……じゃなくて、汗を拭いて頂戴」
涙と言ったら、泣いてないとうるさそうなので、涙は心の汗だということにしてやった。カグヤに気遣いの甲斐あってか、イバラキは素直にハンカチーフを受けとり、思いっきり鼻をかんだ。かしたつもりだったハンカチーフは、イバラキにくれてやることにした。