輝夜の弐
いっちゃん、と叫んだアケミが川に飛び込もうとするのを、カグヤは鋭く制止した。
「そこを動くな。あいつは私が引き受ける!」
カグヤは両の袖に忍ばせた半月刀の感触を確かめた。背に鎖を通し左右を繋げたカグヤの得物は、鉤の要領でつかうことも出来る。
カグヤは素早く視線をめぐらせ、対岸にせり出すがっしりとした木に目を付けた。魚を狙う水鳥のように川の流れへ身を躍らせる。
押し流されてくるイバラキの体を受け止めた。上等な余所行きの着物が水を含み、拘束衣のように重くなる。着衣泳の心得があるカグヤでも、あっぷあっぷと溺れもがくイバラキが一緒では溺れてしまいかねない。カグヤは右腕を鞭のように振るった。鎖は腕の延長であるようにカグヤの思い通りの輝線を描く。あらかじめ狙いをつけておいた対岸に生える木の幹に巻きついた。
激流はまるで龍のように、カグヤとイバラキをそこ顎へ捕らえ、あっと言う間に飲み込む。したたかに全身を打ちすえられて眩みながら、カグヤはなんとか意識を繋げた。
鎖がぴんと張り詰め、流されていた体ががくんととまる。ぎゃあぎゃあ暴れるイバラキのみぞおちに肱を入れおとなしくさせてから、慎重な手つきで鎖を手繰り寄せ、やっとの思いで対岸に辿りついた。
まず、昏倒したイバラキを砂洲に放り出す。重荷を放り出して、ようやく人心地がついた。仰向けに伸びているイバラキがうんともすんとも言わないので、膨らんだ水腹を踏みつけてやる。すると、イバラキの唇はクジラが潮を吹いたように水を噴出した。それに伴い意識も取り戻す。ぱっと跳ね起きたイバラキは四つん這いになり、げほげほと激しく咳き込んだ。
カグヤは半月刃を回収し袂に忍ばせると、イバラキを見下ろした。イバラキはしばらく噎せ返っていたが、やがて落ち着くと、涙と鼻水をたらした汚い顔をぱっと上げた。濡れた髪が纏まって、遠目に見ていたときよりその顔がよく見える。
カグヤは呆れてしまった。あれだけ勝ち誇っていたというのに、イバラキの顔は彼が追い払った三人の男児の誰よりもぼこぼこにやられていたのだ。左の瞼が岩のように腫れ上がっているし、頬は頬袋をぱんぱんにした欲張りなリスのよう。よくもまあ、この有様で大口を叩けたものだ。
これだけこてんぱんに熨されてもしつこく食い下がる尋常ではない執念深さに、三人組は恐れを成して、尻に帆をかけて逃げ出したのかもしれないけれど。
イバラキは、ウサギが跳ねるようにぴょんと居上がった。そして、カグヤの冷ややかな視線にたじろぐことなく、のけ反るほどに胸を張った。
「フリだよフリ! 溺れたフリだよ! 激流さえ騙すこのオレ様の完璧な演技なんだよ! 溺れるわけねぇだろ、このイバラキ様が! 騙されたの、お前? ばっかじゃねェの!? やーい、バーカバーカ!」
呆れが礼に来るとはまさにこのことだと、カグヤは心の底からうんざりした。こんな男がいるから、従姉の姐様は
「殿方って、おバカさんよね」
と呆れて苦笑いするのだろう。
カグヤは長い黒髪を掻きあげた。カラスの濡羽色と称賛される黒髪は、今は文字通り濡れている。カグヤはイバラキを一瞥して、ちぎって投げるように言った。
「溺れたフリで死にかけたなんて、とんだお笑い種だね。自分の手に負えることと負えないことの境目くらい見極めな。手に負えないなら諦めるか、誰かを頼るかしないと、くだらない理由で命を落とす羽目になる」
「情けネェな、諦めるなんて、男のすることじゃねぇよ! 他人をあてにするなんて、惨めだ! それこそ、男のすることじゃねぇ!」
「無茶をして死ぬのは勝手だけれど、お前に何かあったら迷惑する人たちがいるだろう。あの子だけじゃない。他の友達、親兄弟、六親眷族。そこのところを、もっとよく考えることね」
「……アケミ以外なんて、いねぇよ、そんなもん。他の連中とは、口もきいてねェ」
地団駄を踏んでぎゃいぎゃいと喚き散らしていたイバラキの勢いが、しゅんと萎えしぼむ。いぶかしんでカグヤが振り返ると、イバラキはとっくの間に気を取り直していた。ひっくりかえりそうなくらい胸を張っている。軽くどつけば、亀のようにひっくり返ってじたばたしただろう。
「オレ様にとっちゃ、それがふつうなんだよ! オレ様はココウを持する益荒男だからな! 群れるなんざあ、草食いみてぇな真似はまっぴら御免だぜ。強ぇ奴は群れねぇんだぞ。クマは群れねぇ。トラも群れねぇ。ってことは、オレ様も群れねぇ! 当然だぜ」
イバラキはぐっと親指で鼻を弾いてみせる。カグヤは仮借なく困憊の溜息をついた。気の毒なくらい、バカだ。親の顔が見てみたい……否、見たくもない。似たようなバカが出て来たらうんざりしてしまう。
立ち去ろうとするカグヤの前にイバラキが立ちはだかった。濡れ鼠が己を獅子だと勘違いしているのか。行く手を遮られたカグヤが歩みをとめるのは、当然だとでも言うように。
無礼者は悪びれもせず、横柄な態度を保ったまま、カグヤに訊ねた。
「アケミはどこだ?」
言われてみて、カグヤは思い出した。対岸を振り返ると、アケミは小走りに川沿いを駆けて来る。下流に渡してある橋を使って此方側に来るつもりだ。
カグヤの視線を辿って、カグヤの言わんとしていることを察したイバラキは、ここにきてようやく、肩の力を抜いたようだった。死にかけた癖に助けられたことすら認めようとしない、見栄っ張りで生意気なイバラキのほっと弛緩した顔を見ていると、意地悪な気持ちがふつふつとわいてくる。カグヤはイバラキの向こう脛を軽く蹴って、冷笑した。
「見え見えの痩せ我慢はみっともない。猫の方がずっとうまくやるさ。 恰好つけたって無駄。あの娘だって、お前の強がりにはとっくに気付いてるに決まっているよ」
女の勘は侮れないのだ。しかし、イバラキは鼻先で笑い飛ばす。
「ふん。テメェのは鈍ら眼だな。なんて役立たずだ、いっそのことえぐり取っちまえ。オレ様は無敵で最強だぜ」
むっとしたので、向う脛を蹴ってやる。痛みを痩せ我慢しながら、イバラキはぴょんぴょんととび跳ねて怒鳴った。
「痛がってんのも苦しがってんのも、フリだよ、フリ! このオレ様の完璧な演技なんだよ! やーい、騙されてやんの、バーカ、バーカ!」
小蠅のようにうるさいので、足をひっかけて転ばせて黙らせる。イバラキはぐぬぬと呻いてカグヤを睨みあげた。高い鼻をしたたかにぶつけたらしい。受け身も出来ないのかと、その不甲斐なさが哀れにすら感じる。いつもこの調子ならば、腕や足が黄痣から青痣、乾いた瘡蓋からじゅくじゅくと濡れた新鮮な傷口まで、雑多な怪我で隙間なく覆われているのも納得だ。
しかし、こんなはったりだけのイバラキも、アケミにとっては大切な友人らしい。アケミは息を切らせ時折躓きながら、懸命に駆けてくる。健気な駆け足を眺めていると、足元のイバラキが不意に声を低くした。
「絶対に言うなよ。オレ様の演技は完璧だから、あいつが見たら、泣くかもしれない。いや、あいつが泣いたとこ、見たことないけどさ。オレが死にそうになったら泣くかもしれないだろ。あいつが死にそうになったら、流石のオレ様も泣いちまうだろうし……。とにかく、ぴぃぴぃ泣かれたら困る。オレ、泣かせんのは得意だけど、泣きやませんのは苦手だよ。驚いたか、このオレ様にも、苦手なものはあるんだぜ」
そう言うと、イバラキは痛みをこらえ、ふてぶてしい顔をして立ちあがった。駆けつけてきたアケミに当て身のように抱きつかれ、体が軋んだのだろう。顔をひきつらせたが、苦鳴はあげない。それでも痛みを発散したかったらしく、帽子をハリセンみたいに使って、アケミの頭をばしんと叩いた。
「バーカ! 心配なんかするんじゃねぇよ! オレ様がしくじるわけねぇだろ!」
しくじったからこうなったんだろう、と喉元までせり上がった苦情を、カグヤは苦労して飲み込んだ。アケミはイバラキの肩口に額を擦りつけながら、くぐもった声で言い返す。
「心配してない」
「えっ? 心配してくれねぇの? なんで?」
「いっちゃんは最強だから。心配要らないでしょ?」
「……そうとも! オレ様は今世紀最強の歴史に残る男なんだ! テメェに心配される筋合いはねぇんだっての。わかったか、バーカ、バーカ」
拙く罵りながら、イバラキはアケミに帽子を深く被らせた。アケミは首を竦め、くすぐったそうに笑っている。
前が見えるように帽子を引っ張り上げたアケミは、足袋を脱いで絞っているカグヤに視線を寄越す。バーカ、アーホ、マヌケ! などと喚いているイバラキの相手をするのは時間の無駄だ。アケミは引っ込み思案のようだけれど、イバラキよりはましな話し相手だろう。カグヤはアケミと向き合った。そして驚く。
本当に綺麗な子だった。彫刻された人形でなければこうもうまくはゆくまいと、目を疑ってしまうくらいに。そして、端正なだけではない。薄紫の暈に縁取られた双眸は大きくぱっちりとしているから、その瞳が際立っている。翡翠の焔を上げて燃えるような、稀有な色彩を宿した瞳。見つめられると、引き摺り込まれその焔に焼き尽くされる、そんな恐ろしい錯覚に陥ってしまう。
つい魅入っていると、アケミはぺこりと頭を下げて、消え入りそうな声で言った。
「いっちゃんを助けてくれて、ありがとう」
「ああん? オレ様は誰の助けも借りちゃいねぇよ! バカも休み休み言え、バーカ! こんな奴……んん? 見かけねぇ顔だな。お前、里の者じゃねぇだろ? ……ま、どこの誰だか知らねぇが、どうでも良い! こんな蓮っ葉女、名乗るほどのモンじゃねぇんだぜ!」
アケミの後でけたたましく吼えるイバラキを今以上に勝ち誇らせるのは我慢ならない。カグヤは腕を組んで、イバラキを睨み付けた。不死山の妹分たちを震え上がらせる冷たい眼差しは、イバラキのような無神経な輩には通用しないようだ。睨みつけると、髪を引っ張ってきたので、脳天に拳骨を落としてやった。
「全然痛くねぇ!」
と半べそをかいているイバラキを無視して、カグヤはアケミに向き直った。
「名乗る程の者だから教えてあげるよ。私の名は月代のカグヤ。母と共に不死山を下り、渡辺殿のご厄介になっている」
イバラキが目を丸くする。無礼な小僧だが、無知ではないようだ。
雲上人を信仰しその叡智を継承し守護する『智慧の番人』である月代の民と、ヒノモト大帝に忠誠を誓いヒノモトの敵を絶滅することを使命とするオオエヤマの里。大儀は異なるが、この地を守護する為にモノノケを退治する同志である。
アケミは眉ひとつ動かさず、こっくりと頷いた。それきり、黙ってしまう。カグヤが訝っていると、イバラキがずずいと前にでてきた。
「テメェら、勝手に仲良くしやがって! 気にいらねェからオレ様が名乗ってやる! オレ様の名はイバラキ。字をどう書こうが関係ねぇ、オレ様はイバラキ様なんだぜ! そんで、こっちはアケミだ! オレ様の親友! な!?」
こくりと首肯するアケミと、むやみやたらに自己主張をするイバラキ。カグヤは適当に相槌を打ってやった。
「ああ、そう。それはすごいね。それじゃ、私はもう行くよ。お前たちも、日が高いうちに、さっさとお帰り」
あっさりと去って行くカグヤの背を、イバラキとアケミは黙って見送った。カグヤはずぶ濡れの袖を絞りながら、母上になんて言い訳しよう、と考えをめぐらせていて、気が重かった。