朱の参
真っ暗だ。いつの間にか降り出した激しい雨がオオエヤマから色彩を奪ってゆく。茂る草木も豊かな大地も、流された血さえ色褪せた。白と黒の世界のなかで唯一、僕を睥睨する苛烈な眼差しだけが、鮮烈な色彩を放ち、僕の目を眩ませる。
火葬される故郷で、僕は三年ぶりの再会を果たした幼馴染と対峙していた。里が黒々と燃えている。物見櫓も長屋も燃えている。黒い焔と黒煙が鈍色の空を塞ぎ、見渡す限り闇に閉ざされた。
「よう、遅かったな。こいつら皆、俺達が殺ったんだぜ。どんなもんだい、たいしたもんだろ?」
同胞とその人鬼儡は皆、黒い焔によって灰燼に帰した。イバラキの言葉を鵜呑みにするなら、イバラキと、イバラキの総身を鎧うようにぴたりと寄り添う鬼によって。
鬼である。人鬼儡ではなくて、正真正銘の鬼だ。その証拠に、イバラキの身体には鬼面創が存在しない。鬼面創として退魔師の身体に宿らなければ、人鬼儡は実体化出来ない。
無残な亡骸は全て、鬼の魂魄と契約し人鬼儡を使役する人鬼儡子のものだ。オオエヤマの人鬼儡子が束になってもイバラキが従えるこの鬼には敵わなかった。
「……殺ったのはお前じゃなくて、そいつだろ」
「まぁ、そうとも言う。殆どがこいつの手柄さ。だが俺だって、ぼうっと突っ立っていた訳じゃねぇ。よく見ろよ、首を刎ねられている死体があるだろ。あれは俺だ。お前のクソジジイも俺が殺ったんだぜ。確か、あそこらへんに……ああ、ほら! あれだ、あれ! 見ろよ、あの間抜け面! はははっ!」
イバラキが退魔刀で指示した先に養父の生首が転がっているらしい。確認することはしない。見たいとも思わないし、今更、イバラキの言うことを疑う道理もない。
僕は考える。この鬼を斃せるか? 斃せる。楽勝とまではいかないだろうが、苦戦することもないだろう。いくら強大な力をもつ鬼とは言え、生まれて間もない赤子だ。力の使い方を知らない。逆を言えば、これが力の使い方を掴んでしまえば、難敵になりかねないということだ。つまり、可及的速やかに調伏するべきなのだ。
だが、そうするにはまず、鬼の前に立ちはだかるイバラキをどうにかして退かせなければ。大人しく退いてくれるとは思えないが。僕は溜息まじりに言った。
「悪趣味だねぇ。お前の冗談は笑えない」
「なんで? 笑えよ。滑稽じゃねぇか。オオエヤマが誇る天下無敵の人鬼儡衆が、生まれたての赤ん坊に後れをとったんだぜ」
小首を傾げたイバラキが口角を吊り上げる。めくれた唇の端から鬼歯がちらりとのぞく。漆黒の鬼が、イバラキの動作を真似るかのように小首を傾げた。
鬼は長い前肢をイバラキの身体に絡ませ、血塗れの鋭い鉤爪でイバラキを傷つけないよう、器用にしがみついている。蝙蝠のようだ。頭に生えているのは二つの耳では無く二本の角で、前肢の指の間から後肢の足首までを結ぶのは、被膜の翼ではなく漆黒の焔だけれど。鬼から目をはなさず、僕はイバラキに訊ねた。
「その化け物は?」
「化物だと? 酷いことを言いやがる。こいつは母親想いの、立派な孝行息子だぜ。こいつは化物なんかじゃない。化物とはお前達のことだ」
「は? なんだって?」
イバラキがせせら笑い「わかっている癖に」と千切って投げるように言う。
わかっている。イバラキにここまで言わせたんだ。僕だってバカじゃない。
この鬼はカグヤ様の落とし子、穢児だ。穢児が鬼と化したのだ。イバラキが禁呪の類を行使したのか。或いは、積もりに積もった母代樹の怨念の為せる業なのか。いずれにしても、厄介なことになった。
そして、イバラキは知っている。恐らく、あいつの父親、僕、そしてカグヤ様が隠しておきたかった真実のすべてを。
右手の甲に宿した鬼面創が疼痛を訴える。イバラキの殺気に呼応している。食い意地汚い僕の人鬼儡は、とんでもないご馳走を前に涎を垂らしている。人鬼儡を顕現させてしまえばその後に待っているのは殺し合いだ。
僕は右手をかたく握り締めた。
残念だったな。お前の出番はない。僕はイバラキと殺し合いをするつもりはないんだよ。
イバラキの方へ、僕は一歩踏みだした。水と血が混淆した汚らしい飛沫が上がる。握りしめた右手の甲で、人鬼儡子の証である鬼面創がぎょろりと目を剥いた。イバラキの黒瞳に、冷たい光が一閃する。
背をしたたかに地面に叩きつけられ、息が詰まる。目の裏でちかちかと星が瞬いた。胸郭を踏みつけられ、圧迫される。くぐもった苦鳴を上げた僕の胸を踏み躙りながら、あいつは舌を打つ。顔面に叩きつけられる雨粒のせいで、表情は分からない。
「お前は変わらねぇな。俺をとことん見縊ってやがる。その慢心が命とりになるぜ……僕ちゃん」
イバラキは吐き捨てるように言った。見縊っている訳じゃなかった。僕はただ、イバラキは馬鹿がつくほどお人よしだということを知っているだけだった。
イバラキは、あいつに残酷な仕打ちをする父親のことを恨まない。里の者が皆揃ってあいつを厄介な野良犬みたいにあしらって除け者にしても、あいつは誰のことも呪わない。
イバラキがすることと言ったら、僕の背中を追いかけること。イバラキは只管、脇目もふらずに僕の背中を追いかけて来た。僕はあいつに先を譲ったことは無いけれど、それでもひたむきに僕を追いかけて、追い越そうとする。イバラキは僕を好敵手と呼び、そして友と呼んだ。僕を必要としていた。
イバラキは他の奴らとは違う。頭に二本の小さな角を生やす鬼子である僕を恐れないし、神童と祀り上げられ、齢十七にして大帝都守護を拝名した僕を妬まない。
イバラキは、僕の幼馴染は、特別な存在なんだ。
そんなイバラキが、鋭く凍える怒りに燃え、それを僕にぶつけた。故郷を焼き払い同胞を惨殺した。
「……僕を殺したいのか?」
僕はイバラキを見上げて問い掛けた。先を行く僕を見上げては眩しそうに目を細めていたイバラキが今は、冷やかに僕を見下ろしていた。
暫時を経て、イバラキは呟いた。
「さぁ……どうだろうな」
間の抜けた答えに、僕は失笑を返す。
「なんだ、それ……ふざけているのか?」
「俺は大真面目だ。まだ、決めかねている。……まぁ、そう焦るな。時間はたっぷりあるんだ。まずは……そうだな。俺の質問に答えてくれよ」
イバラキが僕の右手の甲を指差すと、黒い焔は鞭のようにしなり、僕の右手を打擲する。
指の関節が曲がるべきではない方向に曲げられ、拉げた。鬼面創がその禍禍しい顔を苦痛に歪ませる。でも、それくらいたいしたことじゃない。
「お前はどうして、カグヤを見捨てられたんだ?」
僕を睨みつけるイバラキの、憎悪に蝕まれた一瞥こそ、僕には致命的だった。僕の胸倉を掴んだあいつの背に抱きついた漆黒の鬼が慟哭する。母を恋しがる赤子のように。
これはまずいぞ。こんなことになるとは、夢にも思わなかった。
ああ、なんてこった。こんなにも大きかったのか。僕達の世界を壊すくらいに。カグヤ様の存在は、こんなにも大きくて、イバラキの心を占有していたのか。
僕は笑った。イバラキが何か言ったが、聞きとれなかった。僕は哄笑した。イバラキが何か怒鳴ったが、やはり聞きとれなかった。
蹴られている。殴られている。ような、気がする。痛みも苦しみも、分厚い膜を隔てているかのように、ぼんやりとしている。僕はそれが残念でならなかった。どうでも良い苦痛ははっきりと感じられたのに、どうして。
僕はイバラキを見上げた。イバラキは僕を見下ろしている。
良いよ。お前の好きにしな。爪先から頭の先までじわじわと切り刻んでも良い、臓腑に火を付けてじわじわ焼き殺しても良い。お好きにどうぞ。お前が壊れても僕はお前を殺せないからさ。
やはり、カグヤ様も特別なひとだった。イバラキをこんなになるまで壊してしまったんだから。……敵わないな。
やっと、二人の世界に帰れると思ったのに。