輝夜の漆
遠い山の輪郭が消えて、深深とした夜の褥に沈む時分。カグヤは使鬼の背に乗って、こっそり不死山をおりた。
二人が出会った河原へ赴くと、書状でカグヤを呼び出したイバラキは先に到着していた。砂洲に佇立し、水底に沈んだような月の光に青ざめた水面を凝視している。瞼を閉じ、瞼の裏に潜んだ瞳で、冴え冴えとした銀影を追いかけている。
ぬばたまの闇の端で、銀影が跳ねる。イバラキは鋭く右足を引き、佩刀の鞘を払う。鞘鳴りの音と砂を踏みしめる音が重なり、静謐の暗闇を一閃する。
水飛沫があがり、カマイタチが墜落する。イバラキの頸を狙っていた前肢の鎌は水底に突き刺さり、カマイタチ自身の流した血に塗れている。イバラキはしばし残心していた。
カグヤはイバラキの背に歩み寄る。せせらぎに、ささやかな衣擦れの音が交じるのを、聞き逃すイバラキではないだろう。
カグヤは三度、手を打ち鳴らす。
「お見事様」
イバラキは残心を解き、露払いをして刀を納める。いつもなら得意満面で振り返るイバラキはカグヤと目が合うと、くしゃりと顔を歪めた。カグヤがゆっくりと瞬きをする間に、イバラキの表情からは今にも泣き出しそうな幼子は消えていた。
「このイバラキ様を待たせるなんざ良いご身分だな。ええ、カグヤ様よ」
腕組みをして尊大な態度をとるイバラキの、不機嫌な犬ような顔を見上げて、カグヤは袂で口元を隠して含み笑う。
「自分勝手に呼び出しておいてその言い種はなに? と言いたいところだけれど、今日のところは勘弁してあげましょうね。お前は少し苛めるとすぐに泣いてしまうから」
「ああ!? バカも休み休み言いやがれ」
「嫌だね。本当のことだもの」
「……こいつめ!」
イバラキは唇を尖らせて拗ねてみせてから、くすくす笑うカグヤの額をぴんと弾く。不意をつかれて目をぱちくりさせるとカグヤの顔を覗きこみ、イバラキは悪戯っぽく微笑んだ。鋭い眼光、切れ上がった目許、きりりとした眉。つんとした鼻尖、笑うと唇の端から鬼歯がのぞく口唇、尖った顎。不遜な表情が良く似合う精悍な顔立ちをしているけれど、イバラキの本質はこの無邪気な微笑みそのものなのだろうと、カグヤは思う。
あの人は、イバラキを清らかな水の流れに喩えた。澱みも凝りも受け容れて、清らかなままで在りづけるのだと。そう語ったあの人の微笑みを、カグヤはよく覚えている。死面のような無表情から生まれた、奇跡のような微笑みを、忘れたくても忘れられない。
俯いたカグヤの頬に、イバラキが手をかける。そっと促されるままに顔を上げると、イバラキがカグヤの顔を覗きこんでいた。凛々しい目許は赤らみ、円らな瞳は潤んでいる。隠しようもなく切ない気持ちを向けられて、気付かない程、カグヤは鈍くない。だからこそ、カグヤの胸は締め付けられた。
カグヤはイバラキの髪に指を差し入れ、手櫛で梳いた。無造作に一つに束ねられた蓬髪は複雑に絡みあっている。カグヤは苦笑した。
「おいで。御髪を梳ってあげる」
カグヤに促されるとイバラキは「面倒臭ぇ」とぼやきながらも、ぺたんと腰をおろす。まるで大きな犬みたいだとカグヤは思う。ぎゅっと抱きしめて「良い子良い子」と撫でまわしたくなる。あの人も同じように感じているのかもしれないと思うと、実際にそうしようとは思えなくなるのだけれど。
カグヤはイバラキの髪を解き、袖から鼈甲の櫛を取り出して、ゆっくりと梳った。絡まる毛髪を丁寧に解いていく。頭皮を優しく引かれるのが心地よいのだろう、イバラキは目を細めている。
カグヤはイバラキの髪を梳きながら
「ちゃんと手入れをすれば……ほら、ご覧。まるでお姫様みたいに綺麗な御髪だこと」
と言って、梳った一房の髪を手にとり、イバラキの鼻先に突きつける。その際に密着してしまい、イバラキの耳が真っ赤に染まった。しまった、とは口にも態度にも出せなくて、カグヤは真っ赤なイバラキの耳朶を摘まんで軽く引っ張って茶化す。イバラキは「やめろ」と唸るけれど、口先の拒絶をするばかりで、振り払おうとはしなかった。
イバラキはカグヤを慕っている。ひょっとしたら、と思っていたうちは「いやでもまさか、私のような顔立ちはきつく気性は烈しい女を慕う男なんている筈がない。あいつは私に恩義を感じているだけだ」と思うようにしていたのだけれど、そのうち、そんな誤魔化しも通用しなくなってしまった。送った書状を宝物だと大切にしてくれたり、顔を見せるだけで大喜びしてくれたりして、それを隠そうともしないのだから。
「なぁ、カグヤ。会えなくなるって、どういうことだ」
繊細に櫛を扱う手が、時計の針を指で押さえたように動きをとめた。カグヤの心が黒蜻蛉の翅のようにおののく。
「書状に認めた通りだよ。私は選ばれた月代の女だからね。神域に籠り、この命尽きるまで、古の鬼の魂を鎮める為に祈りを捧げ続ける。それが私の宿命なのさ」
イバラキはやおら立ち上がった。カグヤの手から、一房の髪がするりと逃げ出す。追いかけようとしたカグヤの手を掴んだ。
「だから、それはどういうことなんだと訊いているんだ」
カグヤは口許にのみ仄かな微笑を浮かべた。その冷笑を向けられたイバラキが、突き放されたと感じることを、カグヤは心得ている。
「もうこうして、お前の遊び相手をしてあげられないということ」
「はぐらかすな」
「困った子だね。私に会えなくなるのがそんなに寂しい?」
「寂しいなんてもんじゃねぇ」
「まぁ。本当に困った甘えん坊さんだね、イバラキ。良いこと? お前が退魔師としてモノノケを退治しているように、私も選ばれた月代の女として務めを果さなければならないの。お前が駄々をこねたところで、覆ることではない。……もう、この話しは終わりにしましょう」
カグヤはイバラキから目を逸らし、手を打ち払うと、足早にイバラキの傍らを通りすぎようとした。カグヤが遠ざかるより先に、イバラキの腕が鳥籠のようにカグヤを囲いこむ。カグヤは虎挟みに足を挟まれた小鹿のように飛び跳ねた。
「なにをする!?」
「行くな」
カグヤはイバラキの腕のなかで凍りついた。イバラキはカグヤを掻き抱き、カグヤの首筋に顔を埋めた。
「行かないでくれ」
カグヤは肩越しに俺を振り返った。カグヤは痛みを堪えるように眉を顰めたが、眉間によった苦悩はすぐに打ち消した。
「それは出来ない」
イバラキが腕の力を緩めると、カグヤはイバラキに向き直った。黄昏のように満ちたりた寂寥の漂う微笑を浮べ、イバラキはカグヤを正面から抱きしめた。
カグヤが瞠目する。イバラキはきつくカグヤを抱擁している。
「カグヤ、俺と一緒に来てくれ。後生だから……頼む」
「聞き分けなさい、イバラキ。私は」
「俺を説得しようとしているなら、時間の無駄だぜ。お前の書状、何度も何度も読み返した。それで、悩んで悩んで悩み抜いて、ようやく出した結論なんだ」
書状で別れを切り出すなんざ、舐めた真似をしやがって。そう言って苦笑するイバラキの震える吐息がカグヤの耳朶を擽り、カグヤの心を揺さぶった。だらりと下げた両の手がかすかに痙攣する。その手をイバラキの広い背に回した。
「ありがとう、イバラキ」
カグヤは細く小さな、けれど、強い意思を通した声で言った。イバラキの胸をそっと押し返し、身を放す。二人の胸の間に生じた空隙に、カグヤの決意が零れた。
「私は月代の女。この命は同胞の為につかうと定めております。姐様方のようには、いかないかもしれない。それでも、出来るだけ、長くお役目をつとめます。妹たちに、同じ思いをさせたくないから」
カグヤは微笑んだ。見開いたイバラキの黒瞳にうつる微笑みの出来栄えは、あの日あの人が見せた微笑みには遠く及ばないけれど、それでも、イバラキは綺麗だったと、覚えておいてくれるだろうか。
去り行くカグヤの背中にイバラキは訊ねた。
「俺じゃ駄目か。アケミじゃなきゃ、駄目なのか。俺がアケミみたいに、特別じゃないから」
「……バカだね、イバラキ。でも、それで良い。お前は何も変わらないで、そのままでいて。アケミの傍にいてあげて。あの人には、あんたしかいない」
カグヤは振り返らなかった。不死山を見据えたまま、立ち止まりそうになる足を決意で進める。
イバラキの言う通り、アケミは特別な存在だった。それを言えばイバラキだって特別な存在なのだ。
あの日、あの微笑みを贈られた瞬間、カグヤは恋に落ちていた。あの人の世界にはイバラキしか存在しないと知っているのに、恋慕うことをやめられなかった。
カグヤが次代の母代樹として立つと決定した二日後、アケミから手紙が届いた。カグヤは驚かなかった。母代樹の代替わりは里の一大事。里長がアケミに伝えない筈が無い。そして、その報せを受けたアケミが、イバラキの感じやすい心が傷つくことを未然に防ごうとする。それはわかりきっていたことだった。それでも、切なくて、嬉しかった。
時候の挨拶、安否を尋ねる挨拶と続き、里長からカグヤが母代樹として立つという報せを受けた、カグヤならば必ずや立派に役目を果たすと確信している、と儀礼的な言葉の羅列が続き。そうして、本題に入った。
『イバラキは何も知りません。御母堂が先々代の母代樹であったことも、自身が禊の儀によって生まれた穢児であることも。そもそも、母代樹の成り立ちそのものを知らぬのです。あなたとあれは長らく文通をしていた仲ですから、あれの気性についてはよくご存じでしょう。イバラキは豪放磊落を気取っておりますが、実のところ、感じやすい心の持ち主です。自身の出生について、あなたの宿命について、あれの知るところとなれば、あれの心は壊れてしまうやもしれませぬ。杞憂ではないでしょう。あれはあなたを慕っているようですから。カグヤ様にお願い致します。母代樹に纏わる諸々について、あれには御内密にお願いしたいのです。カグヤ様はお優しいお方です。あれを哀れに思い、情けをかけてくださると信じております』
目を通した文面を心の中で読み返し、カグヤは苦笑する。アケミは自身を「心の欠けた、人間の成り損ない」であると自嘲していたが、てんで的外れだ。
カグヤの知るなかで、アケミよりもひとらしいひとはいない。




