壱
蝉が五月蠅い葉月になった。一昔前まではここまでではなかったのだが、最近は五月蠅くて敵わん。一度燃やそうとしたが止められた。これのどこがいいのかは未だに分からんが、何かしら理由でもあるのだろう。それが何かも分からず仕舞いだが。
とはいえ、葉月だ。
彼奴が言うところには今日の日中、午の刻辺りから使えるらしいが、面倒だ。未か申辺りが適当だろう。日中は暑くて敵わんしな。寝て過ごすか。いや、昼餉だけでも食べておくべきか?
結局昼は素麺にした。暑いこの時期には丁度よかろう。夕餉はあちらで食べるとするかな。
今は丁度申の刻になったところ。存外昼寝の時間が長かったらしい。彼奴は今と同じようなところに建てたと言っていたし、腹ごなしに麓まで散歩していると丁度腹も空くだろう。問題はあちらの金を持っていないことか。それも山で何某か狩っていけば、幾何かの金には化けよう。全く、彼奴も妙なところで不親切なものよ。
愚痴々々言ってもしょうがない。取り敢えずは行ってみることにしようか。後ろの二人も落ち着かんことだしな。だがやはり外が夏だと思うと気が滅入る。日中よりは遥かによかろうが、夏は夏だ。
玄関の脇に下げられた木札が裏になっていることを確認して、引き戸を開けた。
劇的、というのはこういうことを言うんだろう。後ろの二人も静かになった。仄かに香る若草の匂いに、風に揺られる木の葉の音。先程までの鬱陶しい蝉の声も、微塵も聞こえなくなっている。あの噎せかえる程の暑さも何処へやら。彼奴が持ってきたのだから相当に面倒か厄介なものだろうと思っていたが、意外や意外、中々に面白いものらしい。これなら彼奴が言っていたことも真やもしれんな。
一歩踏み出し、歩き出す。少し遅れて二つの足音も続いてきた。並ぶことはなく、控えるように追従して足音が響く。良く出来た妹達だ。本当に勿体無い程の。二人には一切言うことは無いだろうが。
さて、歩き出してしばらくたったが、一向に視界が開けん。それほど山奥に家を建てた覚えはないのだが。それに先程から此方を襲う白狼が多くて敵わん。所詮犬っころに過ぎんが、こうも多いと鬱陶しい。家を出てから、およそ廿程殺したか。殺した後毛皮なり爪なり牙なり出てきては、どこぞなりへ消えていくのに驚きはしたが、それも初めだけであった。
「靑、上から見えないか登って見てくれないか」
「分かりました。暫しお待ちを」
暫く待っていると上から声が降ってくる。
「これより丑寅の方へおよそ一里程の所に町が見えます。如何なさいますか、姉さん」
一里。そこまで遠い訳でもないが、これ以上犬っころを斬り捨てて行くのも面倒ではある。
「丁度良い、町まで駆けるとしようか。遅れるなよ」
「「承知」」
打てば響くように返事が返ってくる。聞けば廿町辺りまでは森らしい。駆けるに問題になどなりはしないが、邪魔なものがない訳でもない。それらは全て斬り捨ててはいるが、やはり如何せん数が多い。これは駆け抜けるが当たりであったかな。
夕暮れ時も相俟って段々と暗くなってきた。元より視界が悪かったが、それに拍車をかけるように悪くなっていく。だからと言って見えない訳ではないが。そもそも夜に生きるものに暗闇なぞ何の支障もないも同義であろう。
町まで残り廿町を過ぎた辺りで、何やら人間の一団がいたが、何だったのか。得物を構えておった故そのまま斬り捨てたが、あまりに呆気ないもので拍子抜けも甚だしい。やはり彼奴が言ったことは嘘であったか?そうと決めつけるのは早計かな。果たして何方であろうか。
そうこうしている内に森を抜け平原に出た。轍などは周りに全く見当たらず、只々若草が風に揺られている。前方に見える塀が靑が言っていた町であろう。見たところ六尺程の塀が左右に広がり、午と酉の方に門が見える。だがそれも今は閉じようとしていた。今からでは間に合うまい。そも、真っ当に入る気なぞ更々ないが。
もう町まで五町もないだろう。堀もない高が六尺ばかりの塀が越えられぬ道理もない。
「塀を越えて行くぞ。見られるなよ、面倒は御免被る」
「「承知」」
「………しかし姉貴、入ってからはどうするんだ?ここに彼奴はいなさそうだし」
「加えて他の者の気配もありません。如何しますか?」
「まずは犬っころを銭に変えねば始まらぬ。何やらあればよいのだが、最悪剥げばよかろう」
「了解、姉貴。交渉事は靑に任せる」
「分かりました。白が言うように交渉は私がします。宜しいですか?」
「任せる」
凡その方針もこの程度決めておけば問題あるまい。交渉も靑がやるのであれば心配は無いだろう。
そうこうしている内に塀の目の前まで来た。さて、中に入ってみるとしようかね。