悪役令嬢転生物語
少女は一人、暗い牢の片隅で懺悔していた。
驕り高ぶるままに行ってきた悪虐非道の数々。狂った愛の標的にしてしまった最愛の人。そして傷つけ、虐げてきた沢山の人たち。
少女一人が引き起こした罪は、多大なる犠牲と被害をもたらした。その結末は極刑による断罪。
その身を捕らわれた当初、少女は悪びれもせず反省の色などどこにもなかった。しかし、彼女が行ってきた罪の数々を淡々と聞かされ、犠牲となった人物の関係者から様々な話を聞いていく内に、自らの愚かさを自覚するに至った。
処刑されることを不服とし、反抗していた少女はいつしか罰を受け入れ、自らが行った罪を悔いるようになっていた。
冷たく冴える月が最後の夜を照らし出す。
花のようなかんばせには影が落ち、かつての栄華の片鱗すら見られない。咎人となった少女はまさしく囚人然とした雰囲気を醸し出していた。
「かみさま…」
弱々しくも可憐な声が生気を失った唇から零れ落ちる。胸元できゅっと結ばれた手指は祈りの形をしていた。まるで祈りを捧げる敬虔なシスターのように、しずしずとこうべを垂れた少女は声なく願いを口にした。
――神様、どうか、どうか、聞いてください。明日、私は処刑されます。それで罪が償いきれるなど思っておりません。どうか死してなお罰をお与えになりますよう、お祈りいたします。
……もし私が、うまれかわれることがあったのならば、もうあのような愚かなことは致しません。できることなら罪を犯す前に戻りたい……。叶わぬことと存じておりますが、願うことだけでもお許しください。尊き主なる神よ…。
一筋の涙が少女の頬を伝う。月明りはそっと寄り添うように彼女の涙を眺めていた。
翌日、正午。少女は民衆の前で命を絶たれた。
イリス・ハウグスト。
王国を揺るがす稀代の悪女、後にそう呼ばれた少女の、十七歳の秋の出来事であった。
「ほら早くはやく!お父さまがついてしまうわ!」
子供らしい鈴の音を模したかのような明るい声が響く。
蜂蜜にスプーン一杯の紅茶を溶け込ませたような美しい色合いの髪が乱れるのも構わず、幼い少女は侍女であるマーガレットの手をひく。ぐいぐいと引っ張る力は弱いものの、勢いがあるため侮れない。それに領地の視察を終え、数週間ぶりに帰ってくる父に会える喜びから輝く笑顔は、見る者すべてを絆し、顔を緩ませ緊張感を奪っていく。
父の帰りを心待ちにしている少女と、そんな彼女に振り回されている侍女に、持ち場の作業の手を止めた屋敷内の使用人たちは一様に顔を綻ばせた。ハウグスト公爵家は春の陽だまりのようなあたたかな雰囲気に包まれている。騒ぎの中心にいる当主の一人娘は無邪気に笑い、侍女を道ずれに邸内をばたばたとかけていく。なんとも騒がしくも長閑な光景に苦笑は漏らしこそすれ、顔を顰める者はいないだろう。
ネヴァンボルグ王国ハウグスト公爵家とは、王都より南に領地を構えており、数多なる有能な官吏を輩出している名家である。隣国と接する立地から観光産業に栄え、また領地を流れる幾筋もの川からなる肥沃な大地を擁し温暖な気候とも相まって酪農も盛んに行われている。
国が一目も二目も置く領地を任されているハウグスト公爵家には小さなお姫様がいる。今年七歳になるイリス・ハウグストである。
少し目を離すといつの間に屋敷から逃げ出していたのか、庭で走り回るほどにお転婆な少女は成長するにつれ、無視できない美しさが滲み始めていた。今は亡き公爵夫人である母譲りの、目尻がぴんと猫のようにはねた目。虹彩は美しい初夏の夜空にも似た紺碧色。まだ七つにもならない少女は時折ひどく大人びた表情をする。
それは母が幼いころに亡くなったが故の早熟さがもたらしたものか、はたまた将来“王国を揺るがす稀代の悪女”となる彼女の今はまだ奥底に眠る本性がもたらしているのか。真相は誰にもわからない。
腕をひかれ、イリスを窘めもできぬまま、一緒に慌ただしい足音を立て邸内をかけるマーガレットはつい溜め息をついてしまった。
気を張らなければ聞こえないような小さな音を目の前の少女は耳ざとく拾ったらしい。生きいきとしていた表情をさっと曇らせ、母を亡くしてからずっと側仕えをしてくれている侍女を見上げた。
「マーガレットどうしたの?もしかして痛かった?」
ごめんなさい、と瞳を潤ませるイリスにマーガレットは慌てて首を振る。
「いいえ、いいえ!お嬢様!普段の運動不足が出てしまっただけです。イリスお嬢様に腕を引かれて、少し駆けたからといって、息を上げるだなんてみっともないと私自身に呆れが出ただけです。お嬢様はなにも悪くはありません」
「そうですとも、お嬢様。マーガレットはちょっと楽をしすぎなんです。もっと重労働をさせてもいいんですよ」
助け舟なのか、合いの手なのか、横から従僕のアンリオールが口をはさんでくる。いつの間に現れたのか、カートを傍らに置いて話しかけてくる彼は、にこやかに笑っていた。
突然の新たな人物の登場に面食らっていたマーガレットが気を取り戻し、唸り声もかくやといった低い声でアンリオールに食って掛かる。
「ア~ン~リオ~ル~!あなたはいらないことばかりお嬢様に進言するのいい加減おやめなさい!歪んで育ってしまわれたらどう責任を取るのです!」
顔を真っ赤にして怒るマーガレットを笑顔でいなすアンリオール。これも屋敷の中では日常茶飯事の出来事なので、使用人たちは暫し止めていた作業の手を再び動かし始めた。
しばらくすれば優しく可憐なイリスお嬢様が止めに入る。これが一番この喧嘩を早々に鎮める方法なのだと皆は知っているのだ。
「マーガレットもアンリもやめなさい!しんししゅくじょのあこがれとも言われるハウグストこうしゃくけにつかえるものとしてそのような…そのようにかしま、かしましく?ふるまうなどあってはなりません!」
舌戦のボルテージが上がり切る直前、二人に挟まれて右往左往していたイリスが両手をぐっと握り割って入った。以前鬼の侍女長と恐れられるフローラに習った仲裁の文句を口上し、きっと二人を見上げた。
途中噛んでしまったのと、終盤に自信がなく、言い切る前に斜め後ろの部屋から顔を出すフローラを振り返ったのはご愛敬だ。いくら言っても治らない犬猿の仲である侍女と従僕の口喧嘩に堂々と割り入ったイリスの健闘を称え、フローラが親指をぐっと上げていたのは余談である。
可愛らしい主の仲裁により、今日もマーガレットとアンリオールの白熱した無駄な争いは一旦停戦となる。
お嬢様の前で申し訳ございません、と謝るマーガレットにイリスは腕を組みぷうと頬を膨らませた。
「どうしてマーガレットとアンリは仲良くできないのかしら。私の大好きな二人がけんかをしているのはとても悲しいわ」
私は怒っているのよ、と態度で表す少女は年齢相応の表情を浮かべていてとても可愛い。しかも何気に仕える者への最大のご褒美である好意も示されており、二人の空気がほわりと緩む。
精一杯背伸びをして、主人たる威厳を示そうととるポーズは、大きくなると迫力と何も恐れぬ度胸をつけておどろおどろしいオーラを浮かべるようになるのだ。かつての彼女が腕を組み不機嫌を露わにする時、なにかしら悪いことが起きた。
凄惨な虐めも国に関わる大罪も、恐ろしく研ぎ澄まされた美しさを孕んだ笑みを受かべ、彼女が命令を下した。その時も腕を組み、憎む相手を見下すかのように居丈高で傲慢な態度を隠しもせずに彼女は道を踏み外していった。
遠くに見える幻影が少女の姿に重なった気がして、マーガレットとアンリオールは二人そろってほろ苦さを湛えた表情を浮かべ、遠い目をしてイリスを見つめた。
「また変なかおしてる!マーガレットもアンリも庭師のセディもみーんなみーんな変よ!いつも私のかおを見ておんなじかおをするんだもの!」
その時折覗かせる微妙な表情に、小さな主は腹を立てたようで、鬱憤を晴らすがごとく言い募る。そうか、セドリックも隠せなかったか。朗らかに笑う好好爺を絵にかいたような庭師の老人を思い浮かべ、マーガレットとアンリオールは目を合わせた。
その間になにを勘違いしたのか、イリスがみるみるうちに顔を青ざめさせる。わなわなと震える手を胸元に抱きしめて、少女は口を開いた。
「もしかして私のおかお、変なかおをしてしまうくらいにおかしなかおをしているの?だから、だから、みんな…」
使用人たちが自身を見て何とも言い表しがたい表情をする原因が、顔であると思ったらしい。花咲くような可憐な顔には悲哀が滲み、あっという間に両の目に涙が光る。
悲しげに泣く少女に慌てたのはマーガレットだ。廊下に膝をつき、ひっくひっくと嗚咽を漏らすイリスの肩を優しく手のひらで包み、顔を合わせる。
「違いますよ!お嬢様!お嬢様の顔は誰よりも愛らしく、月の女神も嫉妬してしまうほどに輝いておりますもの!」
「本当?」
「ええ!ね、アンリオール。あなたもそう思うでしょう?」
「ああそうだね。お嬢様はとてもお可愛らしいです。泣いている顔もとてもうつく…っごほん、ほらあまり泣いていると旦那様が悲しまれますよ」
マーガレットの必死で誠実な言葉により、少し涙が引っ込んだイリスが、上目遣いで首を傾げた。なんて私の主はかわいいのかしら、そうくらりときつつ、マーガレットはすかさずアンリオールへ援護を求める。
正しくその救援要請を受け止め、アンリオールは令嬢ですら見惚れるような甘く優しい表情をつくり、イリスの頬を流れる涙を清潔なハンカチーフで拭い始める。マーガレットの言葉に同調し、安心させるように穏やかに語り掛けて、以前より泣き虫に育ってしまったご令嬢を慰めた。
途中不穏な言葉はマーガレットの悪魔のような一睨みで黙らせられたが、父親を引き合いに出したことによりイリスの涙はきれいに止まった。
容姿を褒められたことが気恥ずかしくも嬉しいのだろう。イリスは頬を僅かに紅潮させて、ありがとうと口にした。そのいじらしい様は使用人二人にクリーンヒットしたのは言うまでもない。
そんな甘酸っぱい空気が漂う中、当主の帰還を知らせるベルが邸内に響く。はっとして顔を見合わせた三人は、エントランスへ向かうべくやや早足で歩き始めた。途中アンリオールがイリスを抱き上げ、なんとか玄関の扉が開くまでに、エントランスへと辿り着く。
三人が着いたタイミングで示し合わせたかのように、扉がゆっくりと開きハウグスト公爵家当主が邸内へ姿を現した。
「お父さまぁ!」
使用人たちが帰還の挨拶をする中、先程まで泣いていたのが嘘のように、満面の笑みを浮かべたイリスは父の元に駆け寄った。ハウグスト公爵アルセウスは体勢を低くし、久方ぶりに会う愛おしい娘を胸に抱くべく、両の手を広げる。
最後は飛びつくように父親へ抱き着いたイリスは、愛らしい微笑みを惜しげもなくアルセウスに向け、頬へとキスをする。
「おかえりなさいませ、お父さま!」
幼い淑女の出迎えに、顔をとろかせたアルセウスは、お返しに柔らかな頬へとキスをおくった。髭がくすぐったいのかきゃっきゃと笑うイリスに目を細めてから、アルセウスは改めて邸内を見渡す。公爵家当主の帰りをエントランスホールで出迎えた使用人の面々に、娘に気付かれぬよう目配せをし、一つ頷く。最後に一番傍に傅く老執事へと言葉をかけた。
「…私が留守の間、大事はなかったか」
「はい、旦那様。万事つつがなく、お嬢様も健やかに」
「そうか」
短い報告ではあるが、大事な娘が問題なく過ごしていたことに胸を撫で下ろし、アルセウスは一歩を踏み出した。しかしその歩みは誰でもない、最愛の娘の何気ない一言により止まることになる。
「そうですわ、お父さま。らいしゅうラインハルト王子の七才になるお誕生日のパーティーがあるの知っていまして?」
無邪気に笑う娘の言葉に、取り巻く空気がぴしりと緊張に染まる。
その渦中で空気の変化になど気付きもせず、イリスは「アズリーおば様がおしえてくださったの」と嬉しそうに報告している。
イリスを狂わせた一番の原因と言って過言ではない一人の男。イリスと同じ年齢で、王位継承権第一位の幼い王子。絵本から出てきたような美しい王子は、王国中で話題とならない日がない程評判が高い。そんな王子の情報は、なるべくイリスの耳に入らないよう細心の注意を払い、使用人たちに緘口令を敷いてまで徹底して排除してきた。
この行動は事情を知らない使用人たちにとって、可愛い一人娘を王子に取られたくない父親の微笑ましい行動として受け入れられていた。そんな風にふんわり受け止められているせいで、たまについうっかりぽろっと口を滑らせてしまうメイドもいたりして、イリスは断片的にではあるが、王子のことを知っていた。
しかし、少女が王子と会う可能性のあるパーティなどに関しては、決して漏らされることはなかった。まさか、隣の領地に住むアルセウスの姉であるアズリーが、留守中に屋敷を訪れ、イリスへの秘匿事項を本人へ伝えているなど夢にも思わなかったのだ。隣で驚く老執事や信頼の篤い使用人たちが一斉に固まっているのを見るに、おそらくイリスがこっそりとアズリーから聞き出したことがわかる。
年齢以上に聡いこの子が、わざと王子の情報を隠されているのに気付いている可能性は高い。なんと賢い娘だと手放しで褒められないのが歯がゆいと、半ば現実逃避にアルセウスは思った。
「それでね、お父さま…あのね」
言いにくそうにもじもじする愛娘は目に入れても痛くないほどに可憐で愛らしい。しかしその甘い色をした唇から出るであろう言葉は、ここにいるすべてを凍り付かせるに十分な威力を持っているはずだ。どうにかして、止めなければいけないというのに、悲しい父親の性か、アルセウスの口から零れたのは先を促す言葉だった。
「な、なんだい?イリス、言ってごらん」
語尾が震えているのはもう仕方がないだろう。にっこりと引き攣った笑みを貼り付け、アルセウスはイリスを窺い見る。
顔を赤く火照らせ、緊張からか忙しなく手遊びをする少女は、どこからどう見ても恋に恋する乙女のように目にうつる。あっ、もう泣いてもいいかな。哀れな父親は腕に抱きあげた娘を見つめ、涙腺を緩めた。
「私、一度でいいからラインハルトさまにお会いしてみたんです!だから、そのパーティに行きたいな、って」
「そ、そうか…そうか」
「お父さま!?どうしましたの!?」
突然降り出した雨に視線を上げれば涙を流す父の姿。イリスが驚きに身を竦めるのも訳はない。
慌てて小さな手をアルセウスの頬にあて「泣かないでお父さま」を繰り返すイリスは、数分前に止まったばかりの涙を再び浮かべ、父親を思いやる。その麗しい親子愛は見ている使用人の心を揺り動かし、目頭を押さえる者まで出る始末。
イリスの優しさに立ち直ったアルセウスは、ぐすぐすと泣いている娘の涙を拭ってやりながら一つ決心をした。今までなるべく隠してきた王子についての情報をもうこれ以上隠すことはできない。いくら娘の為とはいえ、遠ざけるべく招待を断ってきたのもそろそろ不審に思われる頃合いだ。ならば、運命に従い彼女を王子に会わせてみよう。そう心に決めた。
「すまない、イリス。イリスのドレス姿を想像したらあまりに可愛らしくてね。つい感動して泣いてしまったのだよ」
苦しい言い訳だと思ったけれど、幼いイリスはきょとんとしたあと、ふにゃりと照れ笑いを浮かべ、「やだわ、お父さまったら」とはにかんでくれた。
これが反抗期最高潮、愛の暴走真っただ中の十七歳イリスであったなら、実父であろうが、なにかしらの罰を与えていただろう。そう、例えば冷え切った双眸で言葉もなく非難され、汚らわしいものでも見てしまったかのような表情で責められる。的確に父親というものを罰するあの方法で。
身に覚えのある怖気を感じてアルセウスはぞわりと背を震わせた。
「イリス、パーティーに行くことを許可しよう。来週まできちんと淑女たるべく勉強に励むように」
息をのむ音が方々から聞こえる。アルセウスの本当の懸念をわかっている者も、愛娘を大事にするあまり箱入りにしてしまっていると勘違いしている者も、皆一様にこう思った。
確かに、このホールに集う者たちの気持ちはひとつになったのだ。まさか、あの旦那様がお許しになるなんて、と。
不安を払拭するために、強引に笑顔を作れば、イリスも美しい笑みを返してくれる。
ああ、どうかこの笑顔が歪むことなく真っすぐに育ってくれますように。今は亡き妻とこの世におわす神に向けて祈りながら、アルセウスはイリスの頭を撫でて、邸内を進みだした。
こうして止まっていた時間は進みだす。そして物語の歯車も。
これは悪役令嬢を一心に案じ、大切に思ってきた者たちのみが記憶を有し、悪役令嬢は何も知らぬままに元の生を歩む転生物語である。
そう、彼らの戦いは今始まったばかりなのだ。
今後のイリス令嬢(とその周囲)の活躍にご期待頂きたい。
悪役令嬢(の周りが記憶持ちで)転生物語でした。
本人に近しく、断罪されるまでその身を案じてくれていた家族や使用人が記憶をもっていて、張本人のご令嬢は記憶がないってのも面白いんじゃないかなと。
王子と初対面を果たしてからもパパや使用人たちは胃を痛めつつ、イリスの幸せを願ってあの手この手でまっとうな道を示してくれるはずです。
彼らの隠れた献身を知らぬイリスは以前より泣き虫で純真な娘に育ってくれたらいいなぁ。そんで嫁に行くときパパを幸せと寂しさで泣かしておくれ(願望)