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第9話 沙羅さんは危険な御人?

 第9話 沙羅さんは危険な御人?


 俺の作品に関わるつもりなら半端は要らねぇ。心して懸かれよ。

 日下部先生の突き抜けるように清々しい言葉。奇しくもその響きが、私の情けなく丸まった背筋をピンと伸ばしてくれた。

「はい! じゃあ少し休憩挟みまーす!」

 切られ続けていたシャッター音が、小さなこだまを残してなりを潜めた。

 現場は所変わって古い小学校。先ほどの海と違って刺すような日差しは防げるものの、木造校舎特有の湿気ともくずを思わせる埃の香りが何ともいえず特徴的だ。

 まるで本当にあの作品の中に踏み込んだような心地に、私はそっと深呼吸をした。

「ちょっと貴女! そこの飲み物をとって下さる?」

「っ、はい! ただいま……!」

 不意に甲高い指示が飛ぶ。

 私は慌てて返答すると、冷たいペットボトルを抱えて女性の元に駆けつけた。

「あのねぇ、この子は冷たい飲み物を飲み過ぎると体調が悪くなりやすいの。悪いけど温かい飲み物をもらえる?」

「は、はいっ!」

 とは言ったものの、炎天下のお昼時。本日準備している飲み物はほとんどが、クーラーボックスに詰められた冷えた飲み物だった。

 温かいものといえばコーヒーがあるけれど、確か彼女はコーヒーは苦手だって聞いている。

「もうママってば。良いよ冷たい飲み物で」

 その時、ママと呼ばれた女性の陰から、取りなすように朝比奈さんの笑顔が現れた。

「ちょうど暑くて喉が渇いてしまっていましたから。わざわざすみません、堀井さん」

「い、いいえ……!」

 その笑顔はやっぱり天使そのものだ。近付けば近付くほど、透き通る肌の白さに見惚れてしまいそうになる。

 確か、朝比奈さんの母親はマネージャーで、小さい頃から娘を相当売り込んできたらしい。ちらりと視線を向けるとちょうど鋭い瞳と目があって、慌てて顔を伏せた。

 朝比奈さんの母親はとにかく現場を仕切りたがる──と下調べの最中に目にしていたが、どうやら間違いではなかったらしい。それも、いつも決まって“女性スタッフの一人”を目の敵にするらしい、と。

 どうやら今回、予想通り私がその“目の敵”に選ばれてしまったようだ。

 この飲み物の前にも、配付資料、中継車のメンバー、撮影前のメイク環境、すでにありとあらゆる所で母親の指摘が飛び交っていた。

「大丈夫ですか、堀井さん?」

 こそっと声をかけてきたのは、映画製作スタッフの方だった。

「俺達も、撮影中にしょっちゅう口出しされて大変だったんですよ。朝比奈さんの母親に」

「朝比奈さんも母親のフォロー周りで大変そうでしたもんね。本人の人の良さがあるからいいようなものの」

「そ、そうなんですか」

 今も休憩中にも関わらず、朝比奈さんは他のスタッフの人を労るように会話している。人に見られるという仕事は、きっと私の想像に及ばないほどの苦労があるのだろう。

 気を取り直した私は、そそくさと人混みから抜け出し柊さんを探し出した。

「失礼します。柊さん、今からまたしばらく、この場所で撮影ですよね?」

 映画の監督さんと並んでいた柊さんに、私はこっそり声をかけた。

「お。どうした小鳥ちゃん。何かあった?」

「私、コンビニで飲み物を買ってきます。温かい飲み物の希望がありましたので……!」

「へっ? 温かい飲み物って……ちょ、ちょっと待った待った!」

 超特急でスタートしようとした私を、柊さんが慌てて止める。

「この辺りはコンビニもなかなか無いよ! 徒歩三十分のところにようやく一店だったような」

 告げられた指摘に、奮起した勢いが早速しぼみかける。三十分の往復で約一時間だ。

「あっはっは! 小鳥ちゃんっていうの? 可愛いねぇお嬢さん。新人さん?」

 私と柊さんのやりとりに吹き出したのは監督さんだった。豪快に笑いを飛ばした後、よいしょと大きな身体を割り込ませてくる。

 あごひげを蓄えられた顔を遠慮なしに近付けられ、思わず肩が震えるも、どうにか愛想笑いを作り上げた。大丈夫。危険な人じゃない。大丈夫。大丈夫……!

「小鳥さんはもう勤務五年目の立派な中堅ですよ、中谷(なかたに)監督」

「あ」

 そっと肩に添えられた手が、心に温かい。

「沙羅君。君と仕事をするのも久しぶりだね」

 振り返った私に短く笑みを向けると、沙羅さんはすぐさま監督さんとの会話に戻った。

「こんな美男子を会社に押し留めるなんてなぁ。宝の持ち腐れというものだよ、柊さん?」

「あっはは! それじゃ今度監督に、慧人を主演に一本お願いしましょうかね?」

「おっ! そりゃあいい!」

 監督と柊さんは仕事で何度か顔を合わせた仲だとは聞いていたが、どうやら沙羅さんとも初対面ではないらしい。勝手に盛り上がる二人に、沙羅さんは困ったように眉を下げる。

「お声がけは光栄です。でも、とても俺なんかに務まるような仕事ではありませんよ」

「またまた。謙遜が得意だな、沙羅君は」

「本物と触れてみれば嫌でもわかりますよ。逢坂さんも朝比奈さんも、お互いプロの空気をまとっている」

 静かに話す沙羅さんの言葉が、自然と役者二人の姿を追わせた。

 休憩中の今はお互い肩の力を抜いた“本人”同士だ。それでも撮影中の二人を見るや、自然とあの作品のページをめくっている感覚に引き込まれてしまう。

「それはそうと、先ほどコンビニに行く用事があると話していましたか」

「ああ、希望があったらしくてな。温かい飲み物を買いに行くって、小鳥ちゃんが」

「それなら、俺が車を出しますよ」

 にっこり。美しく象られているはずの彼の笑顔に、私は久しぶりに鋭い緊張を覚えた。


「どうぞ、小鳥さん」

 さりげなく助手席にエスコートしてくれる沙羅さんに、ぐっと意味なく喉が鳴る。

「ドア、閉めますよ」

「あ、はい!」

 バシッと音を立てて閉まった車の扉。間を空けずに沙羅さんが運転席に乗り込んでくる。

 ちらりとかいま見た横顔があんまり綺麗で、またぐぐっと喉が鳴りかけた。

「実は俺もちょうど日下部先生に頼まれたんです。ちょうど良かったですね」

「そ、そうですね……その、助かりました」

「そう言ってもらえて、良かったです」

 細められた瞳がきらきらと輝いて見えて、頬に熱が集まる。

 ああ、やっぱり私、沙羅さんが好きなんだ。

 こんなことでいちいち確認してしまう恋心が恥ずかしく、少しくすぐったい。

「さ、沙羅さんは、日下部先生から何を?」

「栄養ドリンクです。一本買っていたんですが、先生はジュース感覚で飲んでしまう人で」

「ジュ、ジュース感覚……?」

 聞いたこともない悪癖に驚くも、あの人ならやりかねないと納得する。確かに、日下部先生ほどの完璧主義者的な集中力を持たせるには、相応の気力が必要なのだろう。

(俺の作品に関わるつもりなら半端は要らねぇ。心して懸かれよ)

 彼の死角できゅっと拳に力を込める。みんなで必死にまとめてきたプロジェクトの集大成だ。

 この二日間は、沙羅さんにはあくまで「とても素敵なプロジェクト仲間」として接しよう。それが、私が出したひとつの答えだった。

 今は絶対に失敗できないことがある。目を逸らしてもどうしても消えてくれない恋心なら、せめて横に置いておこう。

 そしてプロジェクトが終わった後に、改めて向き合って考えればいい。

「小鳥さん」

「っ、あ、はい!」

「左側。見てみてください」

 言われるままに左の窓に視線を向け、はっと目を見開いた。

 風に揺れて光を蓄える橙色。一面に広がるのは鮮やかなヒマワリ畑だった。

「もしかしてここは……作中で、小さい頃の勝っちゃんと瑠璃が遊んだところ……!?」

「やっぱり、そのシーンが頭によぎりましたか」

 穏やかに告げられた言葉に、慌てて後ろを振り返る。

「実はこの道を通るようにと、日下部先生から言い遣ったんです。貴女がどんな反応をするか報告するようにと」

 先ほどの海での会話を思い出す。どうやら日下部先生は、私が思い描く作品の世界観が自分のそれに近いことに目を付けたらしい。

 思えばこのヒマワリ畑のシーンも、主人公の回想でしか語られていなかった部分だ。なのにすぐさま思い出されたのはあのシーンで……。

 もしかして私、先生に試されたのだろうか。

「今回の作品は、先生がデビューする前からずっと構想は練られていたそうです。ようやく自分の書きたいものを書けるようになって、初めて紐解いたのがこの作品だと」

 囁くように教えてくれる沙羅さんの声に、小さく頷く。日下部先生の想いに、沙羅さんもまた応えようとしているのだとわかった。

「先生のこの作品に懸ける思いは、俺も理解しているつもりですから」

「はい、そうですね」

「だからこそ、小鳥さんに確認したいことがあります」

「えっ」とこぼれた私の声は、突然踏まれたブレーキ音に難なくかき消された。

 目を丸くする私をよそに、沙羅さんは着々とギアを入れ直しエンジンを切る。

 風に揺られるヒマワリの音だけが、窓ガラスの向こうから気紛れに奏でられた。

「小鳥さん」

 シートベルトを外す音に、思わず肩が跳ねた。ゆっくり向けられた瞳が、容易く私を捉える。車の中。密室。二人きり。誰でもない、沙羅さんと。

 細切れなキーワードがぱらぱらと頭に降り注いでくる。そして気付けば、私の心臓は凄まじい勢いで駆けだしていた。

「あ、あ、あの、沙羅さん……っ?」

「俺の目を見てください小鳥さん。決して、逸らさないで」

 少しずつ、でも確かに近付いてくる沙羅さんに、頭が混乱していく。

 せっかく、沙羅さんへの恋心を一時保存出来ていたはずなのに。これでは、さらにレベルアップして上書き保存だ。

「俺は何か……貴女に嫌われるようなことをしたんでしょうか?」

「……」

 え?

 開けてきた視界に私の返答を待つ沙羅さんがいた。その瞳には、微かに憂う色が揺れている。

 沙羅さんが私を嫌うのならわかる。いつまでたっても会話がスムーズにいかないのが嫌になったとか、いまいち気が回らないとか、その他いろいろと。

 でも、私が沙羅さんを嫌うなんて、そんなこと。

「そんなことっ! ある訳ないじゃないですか!」

 車の中ということも忘れ、私は大声を上げた。

「私が沙羅さんを嫌うなんてそんなことっ、絶対にありません……!」

 感情が高ぶって、胸がグシャグシャに潰れたみたいに痛む。あんまり必死になりすぎて、涙まで滲みそうになっていた。

 それはまるで、胸に押し留めている恋心さえも、否定されている気がして。

「すみません。情けないことを聞いてしまいました」

 宥めるような優しい声が、耳のすぐそばから流れ込んでくる。しばらくしてようやく、自分が彼の腕の中にいるのだと気付いた。

「最近、貴女にどこか、避けられているような気がしていたんです」

 その言葉に、私は目を剥いた。

 恋心を自覚した私は戸惑って、慌てふためいて、思い悩んで、沙羅さんとなるべく二人きりにならないようにしていた。

 沙羅さんは、そんな私に気付いていた?

「でも、それは勘違いだったんですね」

「は、はい!」

 まるっきり勘違いとは言えないまでも、彼に誤解されたままにはしておけない。私の肩に顎をかけた沙羅さんが、ほっとため息をついたのがわかる。

 ああ。私ってば、好きな人になんて誤解をさせていたんだろう。

「さっきも言いましたけど、私が沙羅さんを嫌いになるなんて、有り得ませんから!」

「……本当ですか?」

 え、と返す前に、沙羅さんは私の身体に回す腕の力を一層強めた。

「さ、沙羅さん?」

「本当に……俺が何をしても、嫌わないでいてくれますか」

 甘ったるい恋心が、すかさず私の頭の中を占領していく。

「あ、当たり前です。私は、いつだって沙羅さんの味方で……っ、」

「それじゃあ」

 次の瞬間、彼の腕から呆気なく解放され、酸素が急激に流れ込んでくる。

 目を白黒させていた私だったが、すぐさま瞳を大きく見開くことになった。

「例えば……俺がこのまま貴女にキスをしても」

 沙羅さんの顔が、すぐ、目の前に。

「嫌わないでいてくれますか……?」

 何も、返答できない。

 言葉が見つからなかったのもそうだが、何より、少しでも唇を動かしたら触れてしまいそうだった。いつの間にか捕らえられていた両の手は、顔の横に押さえつけられている。

 それがなくても、吐息も交わせる至近距離からの彼の眼差しに、私はすっかり逃げ場を失っていた。

 冗談、だよね……? でなきゃコレは夢だ。

 我に返りかけた私は、すかさず自分の頬の裏あたりを甘噛みしてみる。うん、痛い。夢じゃない。でも、それじゃあ何で沙羅さんはこんなことを?

 いつもの沙羅さんはこんなことを口にしたりしない。私を本気で困らせるようなこともしない。いつも周りを一番に見ていて、心の底から優しい人だってこと、私は知ってる。

「なり、ません」

 絞り出した声は、情けなく震えてしまった。

「例えその、キス、を、されたとしても……きっと沙羅さんには何か、事情があるんだと、思いますから」

 薄茶色の瞳が、微かに見開かれる。

「だから……沙羅さんのことを、嫌いになんてなりません……!」

 胸の鼓動が、耳鳴りみたいに鼓膜をひっきりなしに揺らす。意識したくないのに、視線を向けてしまうのは目の前の唇だった。

 だめだ。私、喜んでいる。

 自分の情けない心にますます顔が熱くなる。恋人でもない。ただの片想いなのに。

 このままキスをされたいだなんて、そんなこと、考えちゃ駄目なのに……!

「沙羅、さん……っ」

 思わず懇願するように絞り出した声に、彼の拘束する両手がふっと解かれた。

「……ずるいな」

 沈黙を破ったのは、沙羅さんの方だった。

「そんな可愛い顔でそんな言葉、逆に手なんて出せませんよ」

 言いながら、沙羅さんが柔和な苦笑を浮かべる。それは今までも何度か目にしてきた表情で、そっと胸をなで下ろした。良かった。いつもの、優しい沙羅さんだ。

 それが顔に出てしまったのだろうか。安心しきった私をまるで諫めるように、沙羅さんの瞳がすっと細められる。「とはいえ」

「俺も男ですから。あまり無防備になり過ぎては駄目ですよ」

「へ?」

 沙羅さんは男の人。当たり前な事実を言い聞かせるように告げられ、私は目を瞬かせる。

 そんな私を後目に沙羅さんはシートベルトを再び締め、エンジンを踏み込んだ。

「今俺は、本気で小鳥さんにキスをしようとしていましたから」

 言葉の真意を求め見つめた先の横顔。

 その甘い妖しさをはらんだ微笑に、私はまた、呼吸を忘れた。

「それじゃあ、行きましょうか。皆さんを心配させてはいけません」

「──っ、ふぁいっ!」

 間抜けもここに極まれりという返答をした私に、彼はいつもの綺麗な笑顔で、くすくすと肩を揺らした。


「あ! 小鳥、やっと帰ってきた!」

 買い出しを済ませてきた私たちを出迎えたのは、何やら酷く慌てた様子の柚だった。

「ど、どどど、どうしたの柚っ? そんなに時間かかっちゃったかなぁ!?」

「……なに挙動不審になってんのよ、アンタ」

「ないないない! それより何? 何かあったのっ!?」

 しゅばばっと手を横に振り回す私に探るような視線を送る柚。それに数秒笑顔で耐えてみせると、「まあいいや」と肩をすくめた。

「ちょっと来てほしいの。いや、私も状況がいまいちわからないんだけど」

「え」

「タイガ君がね。何だかちょっと、ヘソを曲げちゃったみたいでさ」


「柊さん!」

「お! 小鳥ちゃん、来たかぁ!」

 示された場所には、数人の人だかりができていた。その中には困り顔の柊さんと、扉に手を当てたままの逢坂さんの姿もある。

「タ、タイガ君が、どこかの教室に閉じこもったきりだって聞いて……!」

「ああ、この更衣室に閉じこもっちまってなぁ。小鳥ちゃんが来れば、何とかなるかと」

「タイガ君? そこは暑いでしょ? 怒らないから出ておいで? ね?」

 事情を聞いていた中、閉じこもったタイガ君を宥める声がする。その声の主は、扉の向こうに憂いの視線を送る朝比奈さんだった。

 そんな彼女に、逢坂さんが申し訳なさそうに眉を下げる。

「申し訳ない朝比奈さん。君は先に君のカットを終わらせてきてくれないか。ここで固まっていてはスケジュールに支障が出かねない」

「そうよ恵。この女スタッフに後を任せて、貴女は仕事に戻りなさい」

 いつの間にか背後に現れていた朝比奈さんの母親に、びくりと肩が震える。ごく自然に“この女スタッフ”と形容された私に、朝比奈さんが詫びの視線を向けてくれた。

「で、でも、元はといえば私のせいでもありますし」

 朝比奈さんのせい?

 眉を寄せながら苦しげに呟く朝比奈さんに、周りのスタッフが慌てたように否定する。柊さんは、声を潜めて説明してくれた。

「さっきまで逢坂さんと朝比奈さんの二ショットを続けざまに撮っててな。それを見てタイガ君、怒っちまったみたいなんだ」

 確かタイガ君は、この旧校舎着いてすぐ寝入ってしまって、撮影班の片隅で寝かしつけていたはずだった。それが、いつの間にか起きてしまったのか。

 この校舎で撮影する予定だったものは、海で撮影したものより遙かに二人の親密さが深いものだ。年端もいかない子どもが、母親と違う女性と父親の仲睦まじい姿を目にして、何も思わないはずがない。しかも、等の母親は今病院で療養中なのだ。

「私も、呼びかけてみます……!」

 寝入ってしまったとはいえ、小さな子どもから目を離すなんてやっぱり間違いだった。

 罪悪感に胸を重くしながら人だかりを割って入っていこうとした──その時だった。

「Shut up,old batleaxe!」

 扉の向こうから響いた少年の声に、一同は目を剥いた。それにいち早く反応した朝比奈さんが、再び扉をノックしながら声をかける。

「タイガ君ごめんね! 貴方が嫌がることはしないから、お願いだから出てきて……!」

「Don't say things you don't mean! Drop dead!」

「Taiga!」

 地が震えるような恫喝だった。

 ふう、と短く息をつき、逢坂さんがゆっくり扉に歩みを寄せる。自然と身を引いた朝比奈さんを後ろによけ、逢坂さんはそっと扉に手をついた。

「……Don't you forget the promise with your mother?」

「……」

「Come out of the room at once,Taiga.」

 やっぱり、逢坂さんは父親だ。

 あれだけスタッフの人たちも声をかけても動く気配もなかった扉が、逢坂さんの言葉ひとつでガタンと音をたてる。

 一際重く開かれたそこにはタイガ君が居て、私は詰めていた息をほっと吐き出した。

「よかった……タイガ君」

「……Kotori,」

 思わずこぼれた言葉に、タイガ君がぴくりと反応する。しかしながら逢坂さんが一歩タイガ君に近付くと、その瞳は再び反抗的なものに変わってしまった。

「息子がお騒がせして、本当に申し訳ありませんでした。すぐ撮影に戻りますので、皆さん先に進めて頂けますか」

 短く息をついた逢坂さんが、周囲に集まっていたみんなに向けて頭を下げる。その姿は酷く低姿勢でいながら、有無を言わせない強い意志をはらんでいた。

「わかりました! それじゃ朝比奈さんの撮影を先に開始しましょうか。場所は確か……」

 いち早く空気を呼んだ柊さんの計らいに、スタッフ一同が揃ってその場を後にする。

 ここから先は家族の会話だ。他人が残るのは野暮だろう。母親に促され、朝比奈さんも後ろ髪引かれる様子で撮影に戻っていく。

 私も、撮影に戻らなくちゃならない。けれど、無言のまま対峙する親子の姿に、何故かうまく足が動いてくれなかった。

 タイガ君の瞳が、まるでガラス玉みたいだ。

「Taiga,where on earth did you get such a phrase?」

「……」

「Do you hear me?」

「……You are a liar,dad.」

 灰色のガラス玉が、父親を吸い込んでいく。

「I hate you,──from the bottom of my heart.」

 あんたなんか嫌いだよ、父さん。心の底から。

「タイガ君!」

 どう考えても場違いなのは私だ。それでも口を出さずにはいられなかった。

 逢坂さんの横顔が、冷たく強ばっている。父の表情を見止めたタイガ君もまた、自分の言葉に傷ついたみたいに顔を歪めた。

「っ、あ、タイガく……っ」

 逃げるように廊下を駆けだしたタイガ君を、慌てて追いかけようとする。しかしながら、立ち尽くしたままの逢坂さんもそのままに出来ず、私は半端に足を止めた。

「すっげぇなぁ、本当」

「え?」

「世のお父さんは、こういうときも平然と子どもに向かわなくちゃならねぇのか」

 思わず目を瞬かせる。そのくだけた口調はいつもの逢坂さんとは別人のようだった。

「君にも世話をかけちまうな。堀井さん」

「い、いえ! 私はそんなっ」

「俺はどうやら、あいつの親を名乗る資格はないらしい」

 瞼を閉じた逢坂さんは、ゆっくりと瞳を開けきびすを返した。それがタイガ君の向かった方向とは反対で、私は慌てて声をかける。

「タイガ君のこと、追わないんですか?」

「今話しても、きっとこじれるだけです」

 それは、そうかもしれないけれど。あっさり切り替えた様子の逢坂さんに、思わず眉が寄る。

「あいつには貴女がついていて下さい。その方がきっと、あいつも安心する」

 有無を言わせずに背中を向けた逢坂さんは、撮影場所に戻っていった。


 タイガ君が向かった先は、校舎の屋上だった。

「Kotori!」

 突き抜けるような晴天の下で、タイガ君は思い切り私に抱きついた。

 熱い涙が胸元に滲んでいくのを感じながら私は、タイガ君の背中をずっとさすっていた。

「母さんは、昔からずっと体が弱かったんだ」

 タイガ君はぽつりぽつりと話してくれた。

 お父さんはいつも仕事で忙しかったこと。でもお母さんがいたから寂しくなかったこと。時々かかってくるお父さんからの電話に、お母さんはいつも嬉しそうにしていたこと。

「でも、電話のあとの母さんは、いつも決まって寂しそうな顔をしてた」

 顔を下に向けながら、タイガ君はぎゅっと拳を握る。

「父さんは、母さんの気持ちなんて全然分かっていないんだ。今回日本に来たのだって、映画の仕事がこっちであるからついてこいって突然言ってきて。母さんの具合があんまり良くないからって言ってるのに、全然聞いてくれなくて……っ」

 再びせり上がってきた涙が、ぽろりと頬をたどる。その涙をそっと指で拭ってあげると、タイガ君はいよいよ我慢の糸が切れたように泣き出した。

「俺……父さんのこと、嫌いって」

「うん」

「嫌いだって、言っちゃった」

「うん」

「父さん……すごく、傷ついた顔をしてた」

 くしゃりと顔を歪ませたタイガ君が、再度私の胸に顔を埋める。

「っ、どうしよう、俺っ」

「大丈夫だよ」

「どう、しよう……っ!」

 涙に濡れた瞳は、不謹慎ながらとても綺麗だった。

「大丈夫だから。お父さんもきっと、わかっているから」

「……っ」

「大丈夫、大丈夫……」

 腕の中でいまだに肩を震わす彼を、落ち着けるように宥めていく。

 正直、逢坂さんの態度も少し冷たいような気もした。それでも、逢坂さんもタイガ君のことをきちんと思っている。血を分けた親子なんだ。こんなことで離れるようなことがある訳ない。

「タイガ君さ、海辺で言っていたじゃない? 言いたいことがあるならはっきり言えって」

 問いかけるように見上げられたつぶらな瞳に、私は笑みを返す。

「あの言葉ね。あの時のお姉ちゃんには、結構効いたんだ」

 私の胸を真っ直ぐ射抜いたあの言葉。お陰で私は、自分の気持ちと向き合おうと思えた。

 今度は私がタイガ君の背を押す番だ。

「タイガ君は、お父さんのことが嫌いなんじゃないんだよね」

「……うん」

「お母さんのことをもっと大切にしてほしいだけなんだよね」

「っ、うん」

「本当は……お父さんのこと、大好きなんでしょう?」

「……っ」

 うん、そう小さく頷いた彼の頭を撫でる。

「じゃあ、ちゃんとそう伝えなくちゃ。さっきのは間違いなんだって。タイガ君の本当の気持ちを」

「っ、けど……」

 俯いたタイガ君が、弱々しく逆接を紡いだ。

「俺、知ってるんだ。父さんが俺に何か隠し事をしてるって。はっきり何かを聞いた訳じゃない。でも何となくわかるんだ。子どもの俺にだって、それくらい」

「タイガ君」

「どうして、大人はみんな簡単に嘘とか隠し事とかするんだ」

 再びこぼた涙が、タイガ君の頬に筋を作る。

「隠される方は、こんなに、辛いのに……!」

(俺は何か……貴女に嫌われるようなことをしたんでしょうか?)

 愛しい人の、悲痛な表情とシンクロする。同時に思い知ったのは自分の浅はかさな思考だった。

 私は自分の心を守ることに精一杯で、彼に嫌われたくない一心で、全ての感情に蓋をしようとしていた。

 私の、勝手な自己保身のために。

「それじゃあ……お姉ちゃんと競争しようか。タイガ君」

「え?」

「お姉ちゃんも、もう、嘘をつくのはやめにするよ」

 遠回りしてようやくたどり着いた、単純な答え。

「お姉ちゃんは自分の好きな人に、ちゃんと自分の気持ちを伝えるから、タイガ君はお父さんとちゃんと仲直りするの。どっちが早く相手に正直になれるか、競争だよ!」

「で……でも」

「あれ? もしかして、自信ない?」

「だ、誰がっ!」

 顔を真っ赤にして反論するタイガ君に、ふっと顔が綻ぶ。

 プロジェクト真っ最中の今、個人的な感情をぶつけるわけにはいかない。それでも、このプロジェクトが終わったら、きっと。

「よーし! それじゃ、競争スタートだよ、タイガ君!」

「望むところだ!」

 すっかり戦闘モードに入ったタイガ君と向かい合った私は、宣誓の握手を交わした。

 屋上を吹き抜けた風は、どこまでも爽やかな夏を運んでいた。


「え、沙羅さんが、私を探しに!?」

 撮影場所に戻った私が耳にしたのは、思わぬ知らせだった。

「朝比奈さんの撮影が終わった後にね。なかなかあんたが帰ってこないって言ったら、探してくるって」

「その様子だと、綺麗にすれ違っちゃったみたいだねー」

 う。だからさっきから、日下部先生の刺すような憎悪の視線が……!

 柚と戸塚さんに説明を受けながら、傍らから飛んでくる鋭いオーラにたじろぐ。

 今日の先生は笑顔こそ保たれているが、周囲のスタッフも不穏なものを察してさりげなく先生との距離を取っていた。

「柚、ちょっとタイガ君を見ててもらっていい? 私、沙羅さんを探してくるよ」

「だね。どうせあんたたち、さっきの買い出しで何かあったんでしょ?」

「う……え。ええっ!?」

「え? 買い出し? 何それ何のことっ?」と瞳を煌めかせる戸塚さんの横で、柚がにんまりと笑みを濃くした。

「さっき車から降りてきたアンタの様子、見るからに怪しかったもんねぇ~?」

「そ、そそ、そんなことっ!」

「沙羅さんも何だか機嫌良さそうだったしさ。意外とわかりやすいよね、あの人も」

「え?」

 認識とかけ離れた柚の言葉に、首を傾げる。

「と、とりあえず行ってくるよ。タイガ君、ちょっとここで……」

「Be careful,Kotori(気を付けろよ、小鳥)」

「え?」

 つぶらな瞳が、念押しするように私を貫く。

「It's OK. I'll be back soon(大丈夫。すぐに戻るから)」

 言葉の真意に気付かないまま、彼の頭をぽんぽんと撫でた私は、再び撮影所を後にした。

 廊下を小走りしながら、ひとまず先ほどタイガ君が閉じこもっていた更衣室に向かう。とはいえ、何となくその足取りは重たかった。

 沙羅さんを見つけた後、私はちゃんと自然にお話する事ができるのだろうか。

 先ほどの車の中での出来事が、いまだに頭にこびりついたまま離れない。

(今俺は、本気で小鳥さんにキスをしようとしていましたから)

 リフレインした台詞に、心臓の奥がぎゅうっと締め付けられる。

 じわじわと顔に集まる熱に打ち勝てず、私は階段の手すりにへたりともたれかかった。

 沙羅さんは、一体何であんなことを?

 理由なくあんなことをする人じゃない。でも、その理由が全く思い当たらなくて……。

(俺も好きですよ)

 その瞬間、以前彼から告げれられた言葉が頭をよぎり、心臓が一際大きくうち震えた。

「……!?」

 うそ。衝動的に上げそうになる声を塞ぐように、とっさに口を手で覆う。

 動揺で、思わず階段を踏み外しそうになる。細くため息をついた私は、そのままその場にしゃがみ込んでしまった。

 ああ、もう駄目だ。

 曖昧な期待と確信のない喜び。何度もかぶりを振るも、1度溢れだした感情はなかなか抑えることができなかった。

 沙羅さんが……私のことを、なんて。

「なかなか見つかりませんね。堀井さん」

「ええ」

「──!?」

 突然耳に届いた誰かの会話に、肩を大きく震わせた。階段の手すり脇に身を屈めたまま、そっと声のする方向に顔を出す。

「逢坂さんは堀井さんに任せたから大丈夫だと言ってましたけど……やっぱりタイガ君、私のことを許せていないのかも」

「貴女のせいではありませんよ。それにタイガ君もきっと、お父さんの仕事は理解しているはずですから」

「そうだと、いいんですけど……」

 廊下の向こうに並ぶのは、沙羅さんと朝比奈さんだ。彼女も探してくれていたなんて。

「堀井さんは、沙羅さんと親しいんですか?」

 遠くから紡がれた質問に、はっと息をのむ。

「そうですね。部署は違いますが、親しくさせていただいています」

「同期、というわけではないんですか?」

「入社期は違います。俺が小鳥さんを知ったのは、もうずっと前ですけどね」

 沙羅さんの言葉に、私は目を瞬かせた。

 そういえば、屋上での逢瀬の約束をした時も彼は言っていた。私の歌声を聴いたのは、初めてではないと。

 今考えれば、と小さな疑問が沸く。ついこの間まで、自分は総務課の目立たない仕事しかしていなかったのに、あの時沙羅さんは私の名前を淀みなく告げていた。

 沙羅さんは、私の素性をいつ知ったのだろう。

 思わぬ疑問に首を傾げた矢先、「それじゃあ」と朝比奈さんの声が続いた。

「沙羅さんと堀井さんは、その。お付き合いされているわけでは、ないんですね……?」

 恥じらいを多分にはらんでいる。それでもひどく真剣な口調に、私の胸は一際大きな鼓動を打ちつけた。そっと階段の陰から視線を向ける。沙羅さんに凛と向き合う朝比奈さんは、とても綺麗だった。

 もしかして、朝比奈さんも沙羅さんのことを……?

「残念ながら。小鳥さんと俺は、そういう関係ではありませんね」

「あ……、そうだったんですね」

 安堵の笑顔を浮かべる朝比奈さんに、胸が掴まれたみたいに苦しくなる。沙羅さんの言うことは正しい。私たちは親しくしているものの、付き合っているわけじゃない。

 それじゃあ、さっきの車でのことは何だったの?

 じとりと滲んだ子どもみたいな感情に、自嘲してしまう。ああ、もう。頭がぐちゃぐちゃだ。落ち着け。落ち着いて。

 今は友だちだとしても、私は自分の想いを伝えるって決めた。タイガ君と約束したんだから。

「沙羅さん……以前、好きな女性がいると言っていましたね。それはもしかして、堀井さんのことですか」

「朝比奈さん?」

「沙羅さんが堀井さんを見る目は、他の方とは違って見えます」

 目の前の世界が、ぐらりと揺れるのを感じた。

「でもそれは、私の勘違いでしょうか……?」

 何? 何を話しているの?

 呆然としていて、気付けば私の身体は前のめりになりすぎていたらしい。

「それは勘違いです」

 穏やかな回答に、胸にひやりとしたものが落ちてくる。

「小鳥さんは、あくまで友人ですよ」

 その瞬間、沙羅さんと対峙する朝比奈さんの瞳は真っ直ぐに“私”を見据えていた。


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