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第7話 沙羅さんは大切なお友達

 第7話 沙羅さんは大切なお友達


 白い月を微睡み半分に見上げた。今夜だけでもう何度目だろう。

 しんと静まり返る自分の部屋。視線を向けるともう日をまたいでいる。いつまでたっても夢の世界に入っていけない私は、枕を抱きかかえるように寝返りをうち、そのまま顔を埋めた。

 理由はわかってる。瞼の裏に彼が住み着いてしまったからだ。

 あの月のように綺麗で、大人で、優しくて。こんな私をいつも気にかけてくれている大切な人。大切な──“友達”。

 これから、いったいどうしたらいいんだろう。

 気付いてしまった途端、まるでこの身体に溢れ返るように膨れ上がった恋心に、私はぎゅうっと瞳を閉じた。


「こっとりちゃーん!」

 伸び伸びと元気な声が、半分寝ぼけたままの私の耳に眩しく届いた。

「あ……柊さん。おはようございます」

「おはようさん! 出社ん時に会うのは初めてだなぁ~小鳥ちゃんもJR組?」

「あ、いいえ。私は駅まで自転車です」

「そかそか~。いや~今日はまたいい天気だなぁ~」

 朗らかに横に並ぶ柊さんに、自然と笑みがこぼれる。

 沙羅さんよりも少し高い身長で向けられる大きな声は、見知った当初こそ怯える要素でしかなかった。それが今では、こうして普通に会話を交わすことが出来ているのだから、人生は何があるかわからない。

 これも沙羅さんのお陰だな。そう考え至った私は、無意識に顔を俯けた。

「うん? どうした小鳥ちゃん」

「あ、な、何でもありません……っ」

「もしかして、また何か悩み事?」

 柊さんが微かに声量を落とす。恐らく、先週の資料を紛失した出来事が頭をよぎったのだろう。

「いいえいいえ! そんな大層なことじゃないんです」

「ま、何かあったら聞くからさ。飯とかいつでも付き合うし!」

 元気づけるように頭に乗せられた手のひらに、私は笑顔で礼を言う。

「ああ、そうだ! 多分まだ小鳥ちゃんの耳に入ってないと思うんだけどさ」

 ぽむ、と手を打った柊さんが、快活な笑みで口を開く。

「今日はきっと、ビックリすることがあるよ。小さな悩みなんて吹っ飛ぶくらいのな!」


 そんな小さな悩みなんて吹っ飛ぶくらいな出来事は、朝礼の時間に早くもやってきた。

「新規プロジェクトに、私が加わることになった!?」

 間の抜けた声が、総務部のフロアに響く。

 その場に立ち上がった私に、周囲からは賞賛の拍手喝采が沸き上がった。女性ながら総務部を一手に率いる(ともえ)チーフも、ご満悦な様子でうんうんと腕を組んでいる。

「私もね~、常々疑問に思っていた訳よ。確かに私たちの所属は総務部よ。それは紛れもない事実だわ」

 ため息混じりに語った巴チーフ。しばらく哀愁漂わせる表情を浮かべていたものの、即座にドン、と自らの机に拳を下ろした。

「だがしかーし! 内情は半分以上が他部署からの雑用依頼もしくは下請け作業! それでいて、出来上がった制作物にあがるのは他部署の担当者名のみ! 私は思った! これはあんまり理不尽な慣習じゃないかとね!」

「そうだ!」「その通りだー!」とたちまち周囲から上がる声。さながら戦国時代に挙兵するかのごとき演説に、私は一人ぽつんと取り残されてしまう。

 皆さん意外と野心家なのね、と変に感心したところで、「そこでっ!」と突然突き刺された巴チーフの人差し指に私は肩を震わせた。

「我が総務部の隠れエースである堀井小鳥っちに! 今回我が社で担当することになったプロジェクトの一員として一旗揚げて貰おうというわけよ!」

「え、ええ……えええええっ!?」

 何だかもう色々と突っ込みたいところだが、ひとまず沸き上がる拍手に歯止めをかけた。

「ちょっと待って下さいチーフ! どうして私なんかが……総務には優秀な人が他にいくらでもっ!」

「はいはいはい。謙遜はいいから! 小鳥っちは十分すぎるくらい優秀な総務のホープよ?」

 エースの次はホープですか!

 カタカナ言葉を使えば誤魔化せると思っている節のある巴チーフに、私は不審の視線を送る。そんな私の視線など気にも留めない様子で、「それにね」とチーフは続けた。

「これは私の独断じゃないわよ? 小鳥っちを是非って、他部署からも推薦があったの」

「嘘は駄目ですっ!」

「嘘じゃないわよ? これ見て。先週末のチーフ会議の議事録」

 間髪入れずに反論した私に、巴チーフが余裕の笑みでこちらにやってくる。

 まるで予期していたように手渡された議事録とやらに、私はしぶしぶ視線を落とした。


 どうしてこんなことに……。

 テーブルに突っ伏したままため息をこぼす私に、柚の宥める声が聞こえる。

「まあ、そんな深く考える必要はなくない? プロジェクトの一員とはいっても、小鳥はあくまでアシスタントって立ち位置でしょ?」

「私がそういう表だったことが苦手だって、柚もよく知ってるでしょ」

「平気平気! いざとなったら私がちゃんとフォローしてあげるって!」

 実は柚もまた、このプロジェクトのカメラマンとして選出されていた。

 とはいえ、カメラマンとして既に前線のプロジェクトに出ている親友と、事務一徹の自分。同い年といえど場数が違いすぎる。

「それにプロジェクト概要を見たけど、小鳥が好きそうな企画だったじゃない? 今年秋公開の新作映画の制作舞台裏!」

「う……そりゃ、そうなんだけど……」

 議事録に記載されていたプロジェクトの内容に、確かに私は心惹かれていた。

 人気小説の実写映画化。そのキャストやスタッフの製作裏話を中心に記事にまとめる今回のプロジェクト。実はその小説は私も購入していて、思い出したように読み返すほど入れ込んでいた作品だった。

 ただ、大きな問題がひとつ──。

《原作:日下部悟》

 原作者名に視線を落とし、再びため息をついた。

 それほどまでに、彼とのファーストコンタクトはインパクトの大きすぎるものだった。それこそ、彼の小説の行間に彼の罵り顔が浮かんでくるくらいには。

 あの鋭い敵意を思い出すだけで、苦手意識から身震いしてしまう。

「日下部先生っていったら超美形小説家で有名じゃないの! 確かに少し性格に難ありかもしれないけどさ~私は楽しみだなぁ~! ばっちりイケメンに撮ってやるもんね!」

「問題はそれだけじゃないんですよ、柚姉さん……」

 伝えられたプロジェクトスタッフの中には、今一番顔を合わせたくない「彼」の名前も連なっていたのだ。


 指定時間よりもかなり早めに会議室に入った私は、会議資料の準備をしていた。

 内容の不備の確認をしながら、ホチキス留め作業を機械的に進めていく。しかしながら対照的に心臓は、先ほどからドキドキとせわしなく鳴り響いていた。

 ついこの間までは、こんなに動揺することもなかったのに……!

 わかりやす過ぎる身体の反応の変化に、心がついていかない。どうしてこんなことになってしまったのだろう。何度目かわからない呟きを心にこぼし、小さく肩を落とす。

 沙羅さんが格好良くて美人で優しくて良い人だってことは分かっていたことなのに。今は記憶の中の沙羅さんに向けられる笑顔だけで、こんなに胸が苦しい。

「小鳥さん」

 背後からかかった声に、肩が大きく弾んだ。

「早かったですね。資料の準備ですか」

「あ、は、は、はいっ」

「手伝いますよ。これを綴じればいいんですよね」

 沙羅さんは返答に窮する私に不審な顔ひとつせずに、資料綴じを手伝ってくれる。

 いつもとまるで変わらない沙羅さんの姿に、胸に重い罪悪感が広がった。

 沙羅さんは、私の男友達なのに。傾き始めた夕日が窓を通して沙羅さんの姿を淡く灯す。薄くかかった睫の陰が酷く綺麗で、思わず見惚れてしまった。

「今回のプロジェクトのお話は、小鳥さんもきっと驚いたでしょう」

 ごく自然に紡がれた会話に、私は慌てて視線を資料に戻した。

「は、はい。それはもう」

「もう聞いているかもしれませんが、メンバーの戸塚さんが貴女を強く推薦されたそうですよ」

「……え?」

 目を瞬かせた私に、沙羅さんは目を細めた。

「以前の新婚旅行中の出来事は内々に処理されたはずですが、戸塚さんも何か思うところがあったんでしょうね。小鳥さんの能力は前々から買われていたようですから」

「そ、そんな。私は別に……」

「ほら。そういうところ」

 言いかけた私を押しとどめるように、沙羅さんの白く長い人差し指がつんと私の額をつついた。

「自分を認めてくれる人の言葉は、素直に受け取らないと。認めてくれた人のことも否定することになりますからね」

 にこりと微笑んで作業に戻った沙羅さんに、私はパクパクと口の開閉を繰り返していた。赤面しているに違いない顔を資料で覆い隠す。

 さ、沙羅さんって、こんなにアレでコレだったっけ──……!?

「小鳥さん?」

「っ、あ、ええっと……」

 自分が今までどうやって対応してきたのか全くもって思い出せない。恐るべし、美形天然タラシ様の無意識行動……!

「よーっす! 早かったなぁ~お前ら! さすが若者! 感心感心!」

 次の瞬間、扉を豪快に開ける音が響く。

 朝と同じく太陽みたいな笑顔を浮かべて柊さんが挨拶しながら入ってきた。

「柊チーフ……毎度のことですが、ノックくらいして下さい」

「ああ、悪い悪い。何、取り込み中だった?」

「そういうことじゃなく──、」

「そ、そんなことは全くありませんっ!」

 必要以上の声量だったと気付くも、後の祭りだった。この際、不自然と言った方が正しいかもしれない。

「……そっか、そりゃ良かった! 人数の関係でちょっと机をずらすぞー。そこから後ろは全部畳んじまってくれ」

「ああ、俺がやりますよ」

 慌てて動こうとした私を制し、沙羅さんが机を片付け始める。その背中に心臓がずきりと鈍く痛んだ。

 こんなんじゃ駄目だ。今までせっかく、友達としての信頼関係を築けてきたというのに。

 このままじゃいつかきっと、沙羅さんをいたずらに傷付けてしまう。


 プロジェクトのメンバーは、リーダーの柊さんを筆頭に第一グラフィック部から沙羅さん、第二グラフィック部から柚、第二編集部から戸塚さん──そして総務部から私の計五人で構成されていた。

「大手からの受注ででかく取り上げる予定の案件だ。気合い入れて取り組んでくぞ~!」

 明るい言葉ながら、柊さんの瞳は真剣そのものだ。確かに資料を読み込んでいけばいくほど、この企画の希少さが理解できる。

 主演は結婚と同時に海外に移住した人気男優。ヒロインは今人気絶頂の美人モデル。テレビに疎い私でも、思わず目を見張るほどの著名人が揃い踏みになっている。

 さらに原作者とあっては、それこそ名実共に世間に知られた美形小説家だ。

「日下部先生とのやりとりは例によって慧人に担当してもらう。頼んだぞ」

「わかりました。早速明日にでもご挨拶を」

「機嫌取りも仕事のうちだがなぁ~。油断してぺろりと食べられちまわないように気を付けろ? はっはっは!」

 柊さんの冗談に沙羅さんが無言の圧を送る。

 その傍らで、私は今更な事実を思い知った。

 沙羅さんを好きになるということはつまり、何十人何百人が恋のライバルになるということだ。日下部先生はその筆頭と言えるだろう。

 唐突に実感した新たな困難の壁に、ぐらりと頭が回る。

「ということで、小鳥ちゃん」

「ッ、あ、はい!」

「小鳥ちゃんは事務関係の調整と取材時のアシスタントを宜しくね」

「は、はいっ、わかりました……!」

 柊さんからの指示に、慌てて返答する。

「特に小鳥ちゃんはプロジェクト初参加だからさ。わからないことがあったら何でも質問してきて!」

「はい!」

「最初はひとまず、慧人と一緒に各所のスケジュール調整に回ってくれる?」

「は──、」

「い」と言う前に撤収を告げられた会議に、私は一人腰を上げるタイミングを逸していた。


 どうしてこんなことに……。

 本日二回目。帰宅するなりテーブルに突っ伏したままの私に、兄の翼が聞こえよがしのため息を吐いた。

「ったく、何だよそのしみったれた顔。仕事の方はひと段落ついたんじゃねーの?」

 それでも無言でテーブルに置かれたコーヒーに気づき、有難くいただくことにする。

「前の徹夜続きの時よりはね。また少し大きな案件を任してもらうことになったけど」

「そんじゃあ何だよ。ガキの頃みたいにま~た馬鹿な男にいじめられてんの?」

「ばっ、馬鹿な男なんかじゃ……っ!」

 あ。と思ったときには既に遅かった。

「ふ~ん……」と顎をさすりながら、翼がニヤニヤ悪い笑みを浮かべる。

「お前がここにきてようやく、男関係で悩んでるとはねぇ」

「お、男関係って……!」

「んで? 誰だよお相手は? 新入社員? 取引先の奴? それともまさか、前に話してたあの“女神”様に惚れたんじゃ──、」

 こちらに向けられた瞳が丸く見開かれた。お母さん譲りの青い瞳。相変わらず綺麗だ。

「へえ。図星ですか、小鳥サン」

「な、ちょ、ちが……!」

「お前ほど嘘発見器が必要ない奴も珍しいと俺は思う」

「~~っ!」

 あの時は沙羅さんを「女性」として話していた私だったが、勘違いを知った後すぐにその事実を翼に伝えていた。その後は別にこれといって話題に出すことも無かったと思う、けれど……?

 窺うような視線を向ける私に気付いたのか、翼は大きなため息をこぼした。

「なーんとなくだけどな。実はちょっとばかし予想はしていた」

「私、そんなにわかりやすかった……?」

「他の奴が見たらどうだろうな。小鳥は元々すぐキョドるし顔色変わるし、判断基準が曖昧だもんよ」

 意外にも冷静な言葉に、胸をなで下ろす。

「確かその女神サンって、顔も良くて仕事も出来て人当たりも良くて男女問わず人気が絶えず……って奴だったよな?」

「あ、ははは……そう、なんですよねぇ」

 馬鹿だな。そんな望みのない恋をしてしまって。

 何の奇跡か屋上で言葉を交わし、さらには人生初の異性の友達へ。そんな奇跡みたいな繋がりを持てただけで満足していれば、どれだけ幸せだっただろう。

「あーあ。人が折角作ったコーヒーを」

「え?」

「しょっぱくなんぞ。んなダラダラ涙を流し込んだら」

 指摘され、慌ててぱっとマグカップから身を引いた。頬を擦り上げ、翼をじとりと睨み付ける。

「……そんな泣いてないもん」

「ふん。相変わらず小鳥は諦めが早いよな」

 ぐーっと腕を天上に伸ばし、翼がソファーにダイブした。

「つか肝心の女神サンはどうなのよ。既婚者じゃないんだろ? 彼女はいんの?」

「いないらしい。柚情報」

「あー。あの黙ってれば美人なオトモダチね」

 柚が聞いたらはっ倒されそうなことを、翼はしれっと口にした。

「そんなら初めっから諦める理由とかなくね? 俺だったら完璧落としにかかるけどね」

「女ったらしのアンタと一緒にするな」

 とはいえ、言われてることはご尤もだから情けない。

「沙羅さんはね、本当に自然と人の目を引いちゃうような人なの」

 コーヒーなのにまるで悪酔いしたみたいだ。

 何かの魔法にかかったみたいに、私は最近募らせていたものを徐々に言葉にしていく。

「そんな人が私の歌を好きだっていってくれたの。お母さんにいつも歌ってもらっていた歌ね。それが初めは、嬉しくて、でも同じくらい恐れ多くて」

「……」

「でも、最近までは友達としてすっごくうまくいってたの。それなのに、私がどこかで間違えた、せいで」

 言葉尻が、情けなく震えてしまった。

「どうしてかなぁ。折角、大切な友達になってくれたのに……」

「あーもー! 仕方ねぇなぁ!」

 突然背後から出された雄叫びに、滲みかかっていた涙が引っ込んでしまった。

「ったく! 確かにお前は小さい頃から自信のない奴だった! でもな、卑屈になるのはせめて相応の行動に移ってからにしろ!」

「こ、行動?」

「おうよ!」

 ふんっと鼻を鳴らした翼は、何とも自然に私の顎をすくう。

「一応俺、モデル事務所所属なのを忘れてない? 小鳥ちゃん?」

 迫りくる翼の天使スマイル(事務所命名)に、たらりと背中に冷たい汗が流れた。


 自意識過剰とは、まさに今の私のことを言うのだろう。

 いつも通りの通勤風景。いつも通りの人波。いつも通りの朝。それなのにオフィスが入っているビルの前で、私はしばらくの間その足を一歩出しては引いてを繰り返していた。

「小鳥ちゃん?」

 きょとんと丸い目を向けられる。今日はこれでもう何度目だろうか。

「お、おはようございます。戸塚さん」

「うわ~お~っ! 本当に小鳥ちゃん!? 髪型がいつもと違うね!」

 目を飛び出す勢いで驚きを露わにした戸塚さんに、総務の子たちも話題に乗り始める。

「そうなんですよー! 朝見たときは私もびっくりしちゃいました!」

「前から思ってましたけど、小鳥さんって髪がめちゃくちゃ綺麗ですよね!」

「ふわふわしてる~。もしかして天然パーマですか?」

「う、うん。実はそうなの」

「へぇ、気付かなかった~! 思えばいつも首の後ろでひとつ縛りしてたからねー。私も髪を下ろした小鳥ちゃんは初めて見たわ!」

「あ、ははは」

 髪を下ろしただけでここまでピックアップされるとは。女性の髪型、恐るべし……!

 いまだに戸塚さんや後輩ちゃんたちに弄ばれている髪に苦笑いしながら、私は昨夜の翼とのやりとりを思い返していた。

(まず! 何はなくともあのもっさい一本縛りをヤメロ! 髪型自由の会社だろ? 明日からしばらくは髪を下ろしていけ。当然ムースとブローでウェーブを整えるのも忘れるな!)

(でもそれじゃ、仕事中に髪が邪魔になるし)

(口答えするな! それからあの伊達眼鏡だな、あれも付けるな。もちろんカラコンもな!)

(そ、それは駄目!)

(は? その必死さ加減)

(そ、それは……っ)

 沙羅さんの言葉を思い出したから、とはさすがに言えなかった。結局なんやかんや話し合った末、ひとまずは髪を下ろして会社に行くことを習慣にするように言われたわけだ。

「すっごい良いじゃない! 小鳥ちゃん、髪を下ろした方が絶対いいよ!」

「ですよねぇ戸塚さん! 私たちも朝からそう言ってるのに、何か小鳥さんイマイチ本気にしてくれないんですもん~!」

「そ、そういう訳じゃないんだけど!」

 ただ、自分に向けて「綺麗」と言われることに慣れていないのだ。

 小さい頃からそう言う賞賛の言葉は翼ばかりが受けていたから、何となく違和感を覚えてしまう。

(小鳥さんの手の方が、何倍も綺麗です)

(小鳥さんの涙は、とても綺麗なので)

「? 小鳥ちゃん、どうかした?」

 唐突にリフレインしてきた彼の言葉に、やっぱり顔が熱くなる。それはもう、慣れる慣れないとは別の意味で。


 沙羅さんが所属する第一グラフィック部は、総務課の二つ上がった十七階にある。

「すみません。総務の堀井と申しますが、沙羅さんはデスクにいらっしゃいますか?」

 扉近くの女性に声をかける。笑顔の対応にほっと胸をなで下ろした私だったが、「あっれぇ~!?」と大きな声が響きすぐに心臓が飛び跳ねた。

「小鳥ちゃんだ! 髪下ろしてる! どうしたのーイメチェン? イメチェンってやつ?」

「ひ、柊さんっ、ちょっと声が大きいです!」

 フロアに必要以上に響いた会話に、慌てて制止をかける。私の髪型更新情報なんて誰も必要ないからね、そんな情報……!

「どしたの? プロジェクト関係?」

「は、はい。各方面の担当者さんと連絡が取れたので、沙羅さんにもお知らせをと……っ」

「そっかそっか! 噂に違わず仕事が早いねぇ小鳥ちゃん! えらいえらい!」

「ちょっ……柊さん!」

 相変わらず太陽みたいな笑顔を浮かべ、少し堅い手が私の頭を撫でる。

 しかしながら今日は何故か動きを頭上で止めると、するっと髪を一筋すくいとられた。

「? 柊さん……?」

「へぇ。小鳥ちゃんって、実はすっげー綺麗な髪だったんだ」

 今朝から何度も言われ続けた単語も、男性から言われるとなるとまた響きが全く違う。それも、真顔でしげしげと言われても反応に困ると言いますか……!

「よく見たらふわふわしてるし。色も少しだけ焦げ茶っぽい?」

「あ、はい。多分それは母の──、」

「小鳥さん」

 背後から、まるで耳に吹き込まれるように届いた声。いつの間にか肩に添えられた手がくいっと後ろに引き寄せると、私は誰かの身体にとんと寄りかかってしまう。

 慌てて後ろを振り返り、その声の主にかっと身体が熱くなった。

「さ、沙羅さん……っ」

「お待たせしました。プロジェクトの話ですよね。良ければ場所を移して話しましょうか」

「え、あ、は」

「失礼します。柊チーフ」

「あーはいはい。いってらっしゃいませ~」

 回答らしい回答も出来ないまま、沙羅さんに連れられ半ば強制的にフロアを後にした。

 扉前に残された柊さんが、楽しそうな笑みを噛みしめているようで、思わず首を傾げた。

 掴まれた手が、火傷してしまいそうだ。

 沙羅さんに連れられたのは小会議室だった。入ったと同時に閉められた扉の音に、心臓がどんと飛び跳ねる。

「あ……あの、さ、沙羅さん?」

 どうしたんだろう。いつもなら、優しい言葉や笑顔を向けてくれるはずなのに。

 繋がれたままの手の存在が次第に意味を持ち初め、頬にじわじわと熱が帯びていく。

 まるで自分の想いまで伝わっていきそうな気がして、私はぎゅっと瞳を瞑った。

「髪を、今日は下ろしてるんですね」

 いつも通りの口調。でも、肝心の沙羅さんはいつまでたってもこちらを見てくれない。

「そ、そうなんです。その、たまには違う髪型で行けって、兄に言われて」

 それで少しでも、自分に自信を持つきっかけを作れればと思って……なんて、とても口に出来そうにない空気に、繋がれたままの手をそっと下ろしかける。

 それでも、逆にきゅっと握り返された沙羅さんの力強い手に、再び胸が高鳴った。

「さ、沙羅さん……?」

「俺も、触って良いですか」

 ようやくこちらに顔を見せた沙羅さんの揺れるような瞳に、私は息をのんだ。

 固まったまま返答をしそびれている私をよそに、沙羅さんの繋がれていない方の手のひらがそっとこちらに伸びてくる。

「っ!」

 思わず、肩が震える。

 それに一瞬動きを止めたものの、その手は私の頭の上に乗せられた。

 沙羅さんの長い指が、そっと髪に刺し込まれた。そしてゆっくりゆっくり、まるで感触を確かめるように髪の流れに沿っていく。

「あまり柊チーフに触らせないで下さい」

「へ……?」

「いや……柊チーフだけじゃなくて」

 髪をといていた指先が、そっと髪の一筋をすくい上げる。

「俺以外の男には……触らせないで」

 告げられた瞬間、頭が一気にショートした。

 前からダメージを受けてきた沙羅さんの天然タラシ発言が、ここに来てまたよりいっそう威力を増している。

 でもそれは、全部私の恋心のせいだ。

 私の感情一つで沙羅さんに迷惑をかけたくない。私は無理矢理、頬の熱を押し込めた。

「こ、今度から、気を付けますっ」

「そうしてもらえると、助かります」

 はにかんだように笑う沙羅さんに、少し安堵する。

「でも、どうして沙羅さんがそんなことを?」

「……」

 あれ? どうしたんだろう。

 予期せぬ沈黙の再来に、私は再び顔を赤くしたり青くしたりを繰り返す。沙羅さんの表情は、俯いたままでこちらからは窺えない。

「あ、あの」

「それは……やっぱり」

 すくい上げられていた髪の毛が、さらりと彼の手から落ちていった。

「俺と小鳥さんは、大切な友達ですから」

 ああ。本当に。

 恋愛って、こんなに難儀なものだったのか。

 自覚した瞬間から、たくさんのものががらりと色を変えてしまうのがわかる。あんなに喜んでいた、「友達」という言葉さえも。

「そう、ですよね」

 ふっと気の抜けた笑顔を浮かべた私に、沙羅さんは安心したように微笑んでくれた。

 翼。どうやら私も、いざとなれば嘘や誤魔化しなんてお茶の子さいさいみたいだよ。

「それじゃあ、話し合いを始めましょうか」

「ああ、その前に何か飲み物を買ってきます。すぐそこに自販機がありますから。コーヒーで良いですか」

「ありがとうございます、沙羅さん」

 友達の私に見せてくれる、優しい笑顔が目に沁みる。

 静かに閉ざされた部屋の扉。それと同時に溢れ出しそうになった想いも涙も、力一杯に蓋をした。それを胸の奥深く、深くへと押し込んで。もう二度と目に付かないように。

 この想いは──伝えちゃ駄目だ。絶対に。自分との約束を固く結ぶ。

 大好きな人の笑顔を、これからも笑顔で迎えるために。


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