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第6話 沙羅さんは正義のヒーロー

 第6話 沙羅さんは正義のヒーロー


「これは私の仕事ですから! 沙羅さんにお手伝いしてもらうわけには」

「言いましたよね。ついさっきまで伏せていた小鳥さんを置いて帰るなんて出来ません」

「く、薬は忘れずに飲みますから! そうすれば生理痛はいつも収まっているので……!」

「じゃあ、次にちゃんと飲んだのを確認させてもらってから帰ります」

「でもあの沙羅さん……!」

「それとも」

 ひと呼吸置いて、沙羅さんは微笑む。

「屋上以外で、俺と二人きりになるのは嫌ですか」

 完敗のゴングが、呆気なく鳴った。沙羅さんにはきっとずっと、かなう気がしない。


「小鳥さん、こちらの書類の打ち出しは終わりました。他に何かありますか」

「す、すみません。それじゃあこのメモ書きでまた同じ作業をお願いします……!」

「承知しました」 

 二人での作業を進めて一時間強。一人の時とは比にならないスピードで処理されている仕事量は、最早感動に値するものだった。

 一時は生理痛で昏倒するなんて笑い話にもならない状況に陥っていたのに、みるみるうちにToDoリストの項目にチェックマークが記されていく。

 沙羅さん、仕事の処理スピードがすごく速い……!

 正直、所属部署が違う手前、沙羅さんに慣れない思いをさせるかもしれないと思っていた。けれどそれは杞憂だったらしい。

 作業を進める沙羅さんは見るからに手際が良く、その集中力は同じフロアにいる私にも容易に伝わってくるほどだった。そして何より、その真剣な横顔が──。

 い、いけないいけない……!

 私は心中でかぶりを振り、目の前の作業を再開した。

 あれから薬のお陰で体調も回復した私は、デスクでひたすら翻訳作業を進めている。私が英和辞書をめくる乾いた音と沙羅さんが打ち込むタイプ音だけが、辺りに響いていた。

「良ければ、コーヒーを淹れましょうか」

 ちょうど作業のきりがついた時、沙羅さんの手元が落ち着いたのを見計らい声をかけた。

「それなら俺が淹れてきますよ」

「いえ、私に淹れさせて下さい! こんな時間まで付き合ってもらっているんですから!」

 時刻はすでに日をまたいでいる。

 こまめに帰宅を促していた私に、そのたび沙羅さんは笑顔で話題を逸らすだけだった。

「それじゃあ、お言葉に甘えて」

 ふわりと笑みを浮かべる沙羅さんに、私も笑顔を返した。


 コーヒーを淹れた後、私たちは傍らのフリースペースに移動した。

 二人掛けのソファーに挟まれたテーブルにコーヒーを置き、向かい合わせに腰を下ろす。

「今日は本当にありがとうございます。沙羅さんのお陰で、予定以上に作業が進められました!」

「俺がしたことなんてほんの少しですよ」

「そんなことありません! 感謝してもしたりないくらいです!」

 誇張ではなかった。私が日本語翻訳を進めた手書きのメモを、沙羅さんがほぼ同時進行でデータ化してくれたのだ。その流れ作業の結果、予定はだいぶ前倒しに進められている。

「沙羅さんは、まるで正義のヒーローですね。私が困っているときには、いつも駆けつけてくれている気がします」

 その分彼に迷惑をかけているとも言えるのだが、それは苦笑を漏らすことに留めて置いた。

 喉奥にじんわり広がるコーヒーの味が、訪れかけていた睡魔をゆっくり押し退けていく。

「お礼を言われることは、何もないです」

「え?」

「俺のせいなんですよね? 小鳥さんの仕事に支障が出ているのは」

 私は返答を忘れ、瞳を瞬かせる。

「実は今日の昼、小鳥さんの友人の高梨さんとお話したんです」

 高梨。柚のことだ。

「えっと。柚と、一体何を?」

「『小鳥が手がけている作業で、資料が一部紛失しました』」

 その一言で、察しの悪い私も理解できた。

「『沙羅さんと親しくなったことであの子が嫌がらせを受けているのかもしれません。誰か犯人に心当たりはないですか』──と」

「あ、あ、あの、それはっ」

 柚ってば、沙羅さんに何を!

 予想外のことに慌てて否定しようとした私だったが、沙羅さんがそれを制した。

「貴女のことを心底心配していました。とても必死な様子でしたから。良い友達ですね」

 言いかけた言葉は、結局発せられることはなかった。代わりにこみ上げてくる熱いものに、私はぐっと口を噤む。

 柚が沙羅さんに敬慕の念を抱いていたことは知っている。本当ならそんな人に食ってかかるなんて本意ではないはずなのに。

「それが本当なら、このくらいはむしろ当然ですし謝るのは俺の方です。本当に、すみませんでした」

「違います! まだそうと決まった訳じゃありませんし、それに……!」

 そう。誰のせいでもないのだ。ただ私が。

「私が、沙羅さんと友達でい続けたい、だけですから……!」

 堰を切ったように、口から零れ落ちた。

「例え! 例え今回のことがそうだったとしても、私、負けません!」

「小鳥さん?」

「だって私っ、沙羅さんともっと話したいし、もっと仲良くしたい……!」

 焦りと感動と寝不足で、感情が暴走したらしい。あれ? はあ、はあと息を切らしながら、自分の言葉を改めて頭の中で反芻する。

 今、私、何て言った……?

「……」

「あの、沙羅さん……?」

「そっか」

「え? わっ!」

 差し伸べられた手が、私の腕をそっと引き寄せる。慌ててバランスを保とうとしたもののそれも叶わず、私は床に倒れ混む直前で沙羅さんの胸にダイブしてしまっていた。

「安心しました」

 首筋に熱い吐息がかかる。冷たい床に座り込んでいるのに、身体全体が酷く熱い。

 沙羅さんに抱きしめられている。そのことをようやく把握した私は、腕の中で脳内爆発を起こした。

「気が気じゃありませんでしたから」

「?? え? え!?」

「小鳥さんが、俺から離れていってしまうんじゃないかって」

 思わず目を見開く。そう告げる沙羅さんが本当に、心底安心したみたいに笑うから。

「これからは何かあればすぐに言って下さいね。俺が何とかしますから」

「あ……は、はい。でもあの、今回のこともまだ決まったわけでは」

「何でもいいんですよ。エレベーターの中で何か言われたとか、どこかの誰かに無理矢理ランチを誘われたとか」

 完全に柊さんから何か伝わったことが分かったが、指摘することははばかられた。

「こ、これからは、気を付けます……!」

 背筋を伸ばして発した返答に、よしよしと頭を撫でられる。子供扱いと思われるその手のひらの温もりに、じんと胸に甘く響いた。

 その後、頭をすっきりさせるため、洗面台で顔を洗ってから再びデスクに戻った。

「歌のこともそうですが」

 斜め後ろの大テーブルで作業を再開していた沙羅さんが、思い出したように口を開いた。

「小鳥さんは英語能力が群を抜いていますね。こんな長い英語のインタビューを書き起こして、その上翻訳まで」

「そ……そうですか?」

 一瞬笑って話題を逸らそうとする頭が働く。

 それでも目の前の辞書をパラパラと開きながら、私は自然と口を開いていた。

「実は……私の母はイギリス人なんです。それで小さい頃から、しょっちゅう英語に触れていて」

 今まで、この話を自発的に誰かにすることはなかった。大切な大切な思い出を自分の小さな手の中で必死に守るように。

「この眼鏡をかけているのも、それが理由なんです」

「眼鏡?」

「私、本当は瞳が青いんですよ」

 何てことないような口調で告げた私に、沙羅さんはタイピングの手を静かに止めた。

「小さい頃はよくそれで虐められていて。男の人が少し苦手になってしまったのも、それが原因で」

「でも、小鳥さんの今の瞳は」

「カラーコンタクトなんです。眼鏡も、慣れないコンタクトを保護するために一緒にかけるようになりました」

「そうだったんですか」

 からら、とキャスターが転がる音がする。振り返ると沙羅さんの瞳がすぐそばにあり、ぴくりと小さく身体が跳ねた。

「確かに、よく見るとコンタクトが入っていますね」

「あ……は、はいっ」

 眼鏡越しに見つめられること数秒。自分から振ってしまった話題だけに、目を逸らすことが出来ない。

 沙羅さんの、少し薄い色素の瞳。

 じいっと見つめられる綺麗なそれに、瞳の色どころか心の中まで見透かされているような心地になっていく。

「小鳥さんの本当の瞳の色……見てみたいな」

「あ、え、えっと。良ければ私、今コンタクト外して……!」

「ふ。いいんですよ。無理に見せてもらっても意味がありませんから」

 笑みをこぼした沙羅さんが、キャスターを転がせて再び自分の作業場に戻っていく。

 どうしたものかと目を白黒させている私に、「そうですね」と口を開く。

「小鳥さんにとって俺が、友達以上の存在になった時──素顔の瞳を見せて下さい」

「それまではお預けですね」目を細めてそう告げた沙羅さんに、しばらく呆然としてした。

 そんな私にどこか満足げに笑った沙羅さんは、再びパソコンに向き直る。

 友達以上の、存在。それはつまり、沙羅さんとの関係がより親密になったらということだろうか。友達以上の親友になったらということ?

「それじゃあ、お礼に俺の話もひとつ」

 いまだ思考の波に飲まれていた私の耳に、沙羅さんの落ち着いた口調が届く。

「前も言いましたが、俺はよく女性と勘違いされることがあるんですよ。きっと、この髪の長さが理由なんですが」

「あ、ははは……」

 前から思っていたが、沙羅さんは、自分の持って生まれた美貌にはてんで無頓着らしい。

「髪を切ったらどうかとよく言われるんですが、なかなか難しいんです」

「? それは、どういう……?」

「自分で切っているんです。小さい頃から」

「──へ!?」

 自分で自分の髪を切る? そんな芸当、考えたこともなかった。

「すごい。沙羅さんってやっぱり手先が器用なんですね」

「いいえ。実は俺、小四の時に誘拐されたことがありまして」

 ゆうかい。さらりと告げられた非日常に、次の句が出てこない。

「事件はつつがなく解決しましたよ。犯人も無事捕まりました。ただ、その時に犯人に面白半分に髪を切られましてね」

「!」

「それ以来、誰かに髪を切られるのが苦手なんです。じゃあ自分で切るかとなりましたが、そうなるとどうしても少し切り口が長めになってしまって」

 苦笑しながら自分の髪先を摘む沙羅さんに、胸が締め付けられた。何でもないように話す彼の姿が、遠い日の自分と重なったから。

 お母さんが空に逝ったあの時。大丈夫、大丈夫と何度も自分自身に言い聞かせていた、幼い自分の姿と。

「すみません。少し情けない話になってしまいましたね」

「っ、そんなことないです!」

 少し目を見張った沙羅さんに、堰を切ったように言葉が漏れた。

「私……沙羅さんの髪、好きですよ」

 自分の胸を押さえるように手を添える。急いていく胸の鼓動を感じていた。

「沙羅さんの少し長い髪はいつも綺麗で、柔らかくて、きらきら輝いていて」

「……」

「だから、好きです。私は」

 言いながら、「好き」という言葉を連呼している自分に気付く。

 途端どうしようもない恥ずかしさに襲われ、全身が火照り上がってしまった。

 いやいやいや。これはあくまで、「沙羅さんの髪」が好きという意味であって……!

「好きなのは、髪の毛だけですか?」

「っ、ひえっ!?」

「はは、すみません。冗談です」

「……っ」

 子供のような、少しあどけない笑顔。そんな、いつもはなかなか見れない彼の表情が嬉しい。

「か、髪の毛だけじゃありませんっ、わ、私!」

 気が付けば、溢れる感情を吐き出していた。

「沙羅さんのことが、好きです。優しい沙羅さんも、少し意地悪な沙羅さんも……全部全部」

 好き。その言葉を、家族以外にここまで向けることなんて今までなかった。

 どうしてだろう。彼に向ける「好き」という言葉がこんなに自然に、素直に口からこぼれるのは。

「俺も好きですよ」

 心臓が、一際大きくうち震えた。

「俺も、小鳥さんが好きです。可愛らしい小鳥さんも、少し頑固な小鳥さんも……貴女の全てが」

「──……っっ」

「小鳥さん」

 自分を呼ぶその声色が、酷く甘いものに聞こえてしまうのは何故だろう。呼ばれるたびに、心がきゅうっと締め付けられるのは──。

「話し込んでしまいましたね。作業に戻りましょうか」

「あ、はいっ! そうですね……!」

 優しくそう告げて向けられた背中に、ほんのりと胸が痛む。手当たり次第にめくる辞書のページも、殆ど頭に入ってこなかった。

 私……どうしたんだろう?

 そっと視線を向けた先には、すでに作業に集中している沙羅さんの背中がある。

 つきつきと胸に刺さる何かを感じながら、私も静かに作業へと向き直った。


「お・わ・っ・た~……っ!」

 夜はすでに解け、日が地上を照らして久しい昼下がり。

 私は最終確認を終えた記事を手に、思わず声を上げた。周りの席の子達や先輩から次々と労いの言葉が降ってくる。

「おー。何だか知らないけどお疲れ!」

「最近の小鳥さんってば、いつにまして仕事にかかりっきりでしたもんね」

「今日は早めに帰って休んだほうがいいよ?」

「えへへ。そうしますね」

 力なく笑みを浮かべるも、心の中は誇らしげな達成感で一杯だった。これで、明日出社予定の戸塚さんにも迷惑をかけないで済む。

 きっと一人だけじゃここまでまとめ上げられなかっただろう。

 これも全部、沙羅さんのお陰だな。

 いや、沙羅さんだけじゃない。柚や柊さんも、陰ながら私のことを支えて励ましてくれた。

 幸せ者だな。そう考えながら、私は眠気覚ましのコーヒーをあおった後に第二編集部のある十七階に向かっていた。戸塚さんの机から拝借していた、英和辞書を返すためだ。

 柚はもう出張先から帰っているはずだし、お礼を言ってから戻ろう。

「あれ、堀井さん?」

 かけられた声に、上りかけの階段で足を止めた。見上げると上から、見覚えのある女性が下ってきていた。

 確か戸塚さんの真正面の席の、相川(あいかわ)さんだ。

「どうしたの? 戸塚さんなら出社は明日からだよ」

「あ、はい。前に借りていた辞書を返しに来たんです。作業が無事に終わったので」

「そうなんだ。それじゃ、私が置いておくよ」

「あ、ありがとうございま──、」

 親切に差し出された手に、辞書を手渡す。その時、覚えのある香りがふわりと舞った。

「今回は何だか、大変だったみたいだね」

 大人な彼女によく似合う、フローラルブーケの香り。その記憶もつい最近のものだった。いったい、どこで。

「戸塚さんから頼まれた仕事で、資料のぬけ漏れがあったんだって? 堀井さんも大変だったでしょう?」

「……誰から」

「え、」

「一体誰から、その話を聞いたんですか?」

 そうだ。思い出した。この香水の香り、戸塚さんがお手洗いで立ち崩れていた時、入れ違いに出ていった人がまとっていたものだ。

 今思えば至極不自然だ。

 どうして「あの人」は、倒れかかっている戸塚さんに声をかけなかったのだろう?

「誰って……えっと、総務部の子かな?」

「このことは総務の誰にも話してないんです」

 目の前の瞳が、僅かに揺れた。

「……じゃあ、私の勘違いかな。誰かが話しているのを偶然耳にしたのかも」

「誰にも話していないんです。今回のことは、誰にも」

 はったりだった。実際柚には打ち明けていたし、柚通じで沙羅さんにも伝わっていた。

 二人が不必要に話を広げることは有り得ないにせよ、二人が話す場面を誰かに見聞きされた可能性はなくはない。

 でも、はったりの効果はテキメンだったらしい。小さく息を飲んだまま二の次が出てこない様子の彼女は、引き打った笑みを浮かべたまま固まってしまった。

「原因は、私ですか?」

 短く問いかける。人の気配が溢れるオフィスとは対照的に、この階段を行き来する人はあまりいない。

「私に何か恨みがあって、こんなことを?」

 しばらく静かな空気が立ちこめた後、相川さんは「別に」と投げやりに口にした。

「貴女に恨みがあったわけじゃないよ。貴女のこと、最近まで知らなかったくらいだし」

「じゃあ、どうしてっ」

「あの子が、ちょっとウザかっただけ」

 あの子。それが誰を指しているのかということは、手渡してしまった辞書に向ける彼女の憎悪の視線を見ればすぐにわかった。

「戸塚さんが、一体何を」

「あの子、結婚した途端に四六時中幸せオーラ振りまいてたでしょ」

 彼女が、ふっと鼻で嘲笑する。

「聞いてもいないのに新婚旅行の詳細まで語りだしてさ。無神経だと思わない?」

 思いません。心中でそう答えた私に気づかず、相川さんは構わず続けた。

「それでちょっと苛ついちゃったからやっただけ。気弱そうな貴女なら、トラブルがあればすぐにあの子に連絡を取るって踏んでたんだけどな。ホント、計算外」

「……そうですか」

「ふ。何よその口振り。馬鹿にしてんの?」

 じり、と一歩階段を下りる彼女の身体が、私の顔に影を差す。

「今回のことは、戸塚さんの耳に入れておきます。今後、同じようなことが起こっては困りますから」

「へえ。良い子チャンなんだ」

「辞書を返して下さい。私が戻しに行きます」

 真っ直ぐ差し出した私の手に、彼女ははっと下卑た笑みを浮かべた。

 さっきまでの彼女とは似ても似つかないその変貌ぶりに、ぞっと背筋が寒くなる。

「あんたも地味子のくせにさ、生意気だよね」

 また一歩、こちらに歩みを進めてくる。

「あの沙羅さんと噂になってるのって、あんたでしょ? よりによって何であんた? 林プロの七不思議だってもっぱらの噂よ?」

 訥々と吐き出される悪意は、全てこちらが受けて取らなければいい。幼い頃に編み出した自己防衛に、彼女は大きな舌打ちをした。

「彼もとんだ趣味ね。自分の顔を眺めすぎて美的感覚がおかしくなったんじゃない?」

「沙羅さんを貶めるのはやめて下さい!」

 反射的に口にした叫びは、静かな階段にビリビリと伝わっていくようだった。高ぶった感情のままきつく睨みつけた私に、彼女は顔を醜く歪める。

「はっ! 何よそれ? まさかの彼女面? あんたみたいな地味女が!?」

 その瞳に狂気が宿る。私がそれに気付いたときには、もう止められなかった。

「どいつもこいつも! 私のことを馬鹿にして……ッ!」

 彼女の頭上から振りかぶられた辞書が、勢いよく降り下ろされる。とっさに引いた足は階段でもつれ、手すりで支えを保ったときにはもう遅かった。

 来る衝撃を予感し、瞳を固く閉ざす。

「い、痛……痛いぃッ!」

 その悲痛な声は、私のものではなかった。

 そっと見開いた瞼の外の光景に、私は思わず目を剥く。

「こんなものを振りかざすなんて物騒ですよ、相川さん」

「沙羅さん!」

 辞書を頭上から振りかざそうとしていた腕が、沙羅さんの手で止められていた。

「痛い! 痛いってば!」と喚く彼女を、今まで見たこともない視線で沙羅さんは見下ろしていた。凍てつくような冷たい瞳とかち合った途端、彼女の肩が大きく震える。

「貴女は確か、取引先の常務取締役の妹さんでしたね。その方は自他ともに非常に厳しい方と伺っています。そちらからの熱心な要望で貴女のここへの就職が決まったとか」

「そ、それは……っ」

「お兄さんのお耳に触れたくないのなら、今日中に身辺整理を済ませて、この会社からとっとと出ていって下さい」

 有無を言わせない鋭い視線が、彼女を容赦なく貫く。

 言い終わるなり辞書を取り上げた沙羅さんは、放るようにして彼女の手を離した。

 何か捨て台詞を口にしたらしい彼女の背中がようやく上階に消えた後、私は一気に身体の力が抜けてしまった。


「来てくれると思っていました」

 薄く雲が伸びる夜の屋上。

 久しく見てこなかったここからの夜景とともに、どこかで予期していた人物がこちらに振り返った。

「相川さん、あの後すぐに辞表を出したみたいです。理由も、一身上の都合で通したらしいと……」

「そうですか」

 短くそう答える沙羅さんに並んで、私も屋上の手すりにそっと手を置いた。

 夜風が通り抜けていくたびに、沙羅さんの少し長めの髪の毛がふわりとなびく。

「今回のこと、沙羅さんには迷惑かけっぱなしで、本当にすみませんでした……!」

「謝る必要なんてありませんよ。俺が勝手に首を突っ込んだだけです」

 柔らかく笑みを浮かべる沙羅さんだったが、私は沈む心を持て余していた。

 今回の出来事は、手続き上は表だったことにならなかった。それでも、ひと気の少ない場所とはいえ社内で起こった出来事だ。どうやらちらほら野次馬の目があったらしい。

 そのため今回のことで、沙羅さんと私の仲を相川さんが妬んだ結果一悶着あったらしいとか、沙羅さんが相川さんを捨てて私に乗り換えたらしいとか、そんな根も葉もない噂が少なからず生まれているようなのだ。

「そんな話を真に受ける人間ばかりじゃありませんよ。すぐに落ち着きます」

「で、でも……!」

「貴女に、怪我がなくて良かった」

 淀みなく告げられた言葉が、膿んだ心にすうっと溶けていく。

「辞書を掲げる彼女を見たとき、息が止まるかと思いました。あんなに焦ったのは久しぶりです」

「……っ」

「だから、そんな顔をしないで下さい」

 困ったように笑う沙羅さんが、じわりと歪んで見えた。

 とっさに瞼を伏せて、滲み出そうになる涙をぐっと押し留める。自分の不甲斐なさで胸が痛んだ。でもそれ以上に沙羅さんの優しさが沁みてくる。

「小鳥さんは、最後まで戸塚さんを守ろうとしたじゃないですか」

 振り返るのとほぼ同時に、沙羅さんの大きな手のひらが私の頭を優しく撫でた。

「俺のことも、必死に守ろうとしてくれたでしょう。嬉しかったです。きっと貴女が思っているよりも、ずっと」

「……っ、さ」

「だから……笑って下さい。小鳥さん」

 両頬を包まれるように添えられた大きな手が、とても温かかった。

「っ、はい……」 

 屈んで合わされた彼の瞳に、自分の情けなく歪む顔を見た。どうやらうまく笑えなかった私に、沙羅さんはくすっと笑みをこぼす。

「本音を言えば、涙に濡れた小鳥さんも、決して嫌いではないんですが」

「……へ?」

「小鳥さんの涙は、とても綺麗なので」

 目を瞬かせていた私だったが、その言葉にじわじわと頬が熱を帯びていく。

 沙羅さんに綺麗と言われるのは、何だか凄く恥ずかしい。彼の方が何倍も何十倍も綺麗だからだろうか。

 再び手すりに寄りかかる佇まいも、それだけで一枚の絵になるんじゃないかと思えてしまう。夜風に舞う髪を耳にかける仕草に、どうしようもなく漂う色香を感じた。

「沙羅さんは、やっぱりヒーローです」

 ぽつりとこぼれた言葉に、沙羅さんはゆっくりとこちらに振り向いた。

「沙羅さんが居なければ、今回のこともきっと乗り越えることが出来ませんでした」

 少し驚いたように見開く瞳を、真っ直ぐに見つめる。

 星空のように美しい瞳に背を押された気がして、私は自然と笑みがこぼれた。

「ありがとうござます、沙羅さん。本当に、感謝してもしきれません」

「どういたしまして。やっぱり小鳥さんは、笑顔が一番似合いますね」

「う……っ、そ、そんなことは……っ」

「それじゃあ、正義のヒーローからひとつリクエストを」

 ぴっと立てられた人差し指に、私は目を瞬かせる。手すりに預けていた背中を離した沙羅さんは、いつの間にか雲が過ぎ去っていた夜空を背景に口を開いた。

「ラブソングを下さい」

 爽やかな夜風が一帯を流れ、隠れていたはずの月明かりが彼を照らし出す。

「小鳥さんが一番好きな、ラブソングを」

 沙羅さんの何もかもを愛でるような柔和な微笑みが、私の胸を高揚させる。

「そ、そんなことで、宜しければ──……っ、」

 そっと口ずさみ始めた私の歌声に、沙羅さんは静かに瞼を閉じた。

 それはまるで私の歌声だけを受け止めてくれているようで、いいようもない歓喜に震える。

 遠くなっていく夜景たちの囁きも潰え、まるで辺りには、このラブソングしか存在しないようだった。そしていつの間にか。

 この恋心を──貴方に歌っていた。

「……っ」

 綺麗に閉じられた沙羅さんの瞳。

 その姿を見つめながら、はっきりと形になって迫ってきた自分の想いに、私は一人涙が滲んでいた。


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