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第2話 沙羅さんは雲の上の御人

 第2話 沙羅さんは雲の上の御人


 昨日の出来事は、全部夢だったのかもしれない。いつも通り自分の席に腰を下ろした私は、ほのかな期待を抱き始めていた。


 今週は社へ複数の来訪予定が組まれているらしい。人がせわしなく総務部横の通路を出入りするのを感じながら、私は昨夜収集した資料をまとめていた。

 よし。問題ない。今まで通りのOL生活だ!

 小さく頷きながら、思い返すのは昨夜の出来事。

 あの後、夢うつつのまま帰宅の途につき、自室のベッドに腰を下ろした私は──容量オーバーでパタリとダウンしてしまった。

 女神様もお近付きになってしまうなんて、庶民にとって一大事だ。どんな大波乱が待ちかまえているんだろうと、ご飯もろくに喉を通らなかった。

 しかし、どうやらそれは杞憂だったらしい。

 沙羅慧人親衛隊(多分いる)からの襲撃や、沙羅さんの彼女(多分いる)からの平手打ち、さらには沙羅さんに思いを寄せていた男性社員(確実にいる)からの陰湿な中傷メール。

 畏れおののいていたキリがない想像は、全てドラマの見すぎだったようだ。

 可愛い後輩から受け取ったコーヒーにそっと口を付け、本日初めて穏やかな吐息をつく。

 というか、そもそもあれって本当にあった出来事だっけ? じんわりと浮かび上がった考えに、はっと目を見開く。

 社内の女神(男だけど)と称される人が私の歌声をお気に召した挙げ句、あろうことかそれを今後聴くための約束を取り付けるだなんて、常識的に有り得ない。

 もしかしたら昨日のことは、沙羅さんの美しさにあてられ作りだした夢だったのかも!

「あっ、小鳥さん。コーヒーのお代わりなら私が淹れてきますよ」

「ありがとう。でもこのくらい平気平気」

 気遣いの回る後輩を笑顔で制しながら通路に足を踏み出した、その時。

「小鳥さん、危ない!」

 振り返ると、段ボールの山が荷台に乗せられこちらに一直線に向かってきた。とっさに避けようとした私は、足を引っかけてバランスを崩す。自分の指がマグカップから外れ、宙を舞うのが見えた。

「小鳥ちゃん!」

「大丈夫ですかっ!?」

 段ボールが崩れる音と共に、悲鳴に似た声があちこちであがる。無意識に腕で顔を庇った私は、衝撃に構えて瞳をぎゅっと瞑っていた。

 ……段ボールの衝撃が、ない?

「危なかったですね」

 至近距離から聞こえた声に、思わず瞳を剥く。段ボールの代わりに自分を覆っていたのは、覚えがありすぎる麗人その人だった。

「大丈夫ですか」

「う、さっ」

 沙羅さん、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。床にヘたり込んだ私にふわりと微笑むと、彼は台車を押していた男性に視線を向ける。

「気を付けてください(ひいらぎ)チーフ。段ボールの積み上げすぎですよ」

「ははっ、悪い悪い! お嬢ちゃん、ケガはしてないかい?」

 沙羅さんの指摘に、ダークグリーンのラインが入った眼鏡の男性が困ったように顔を出す。軽い男性の調子に、沙羅さんは小さくため息をついた。

「すみませんでした。どこか痛いところはありませんか」

「へ、平気です。むしろそちらが……!」

「俺は何ともありませんよ。どうぞ、手を」

 何とも自然に向けられた大きな手のひらに、顔に熱が集まってくる。

「わっわっ、沙羅さんだ……!」「いつ見てもイケメンだよねぇ」「やっぱ沙羅さんって優しい……」フロアの向こう側から、女の子たちのはしゃぎ声が聞こえてくる。

「いいなぁ~沙羅さんに助けてもらえるなんて。羨ましい……!」

 その一言が届いた瞬間、私は自分でも驚くほどのスピードでその場に立ち上がった。無論、目の前のおててには一切触れないままで。

「いいえ! こちらこそ前方不注意ですみませんでした!」

 びしっと言い切った私は、そのまま振りかぶるように頭を下げた。周りの空気が、一瞬呆気に取られたのがわかる。

「あ、いやいや。元はといえば俺が段ボールを走らせ過ぎだったから。本当ごめんね?」

 再度謝罪を口にした眼鏡の男性に首を振り、私はささっと道をあける。そしてこの人にだけ聞こえる、蚊の鳴くような声で。

「何度もありがとうございます。助かりました……」

 昨夜のことが妄想だとしても、間違えてはいない。以前書類をぶちまけてしまった時も、この人には助けてもらったもの。

 すると俯いた私の頭上から、ふっと笑う気配がした。

「それじゃあ、こちらの手は受け取ってくれますか」

 再度告げられた言葉に怯みつつも、恐る恐る顔を上げる。目が合ったのは、見慣れた茶色いクマのイラストだった。

「マグカップ。貴女のものですよね」

 どうやら、床に落ちる一歩手前で受け止めてくれていたらしい。何から何まで助けられてしまったことへの不甲斐なさにわたわたと手を差し伸べる。

「す、すみませんっ! ありがとう、ございま──、」

 するとほんの僅かに、沙羅さんは身体を前に屈めた。

「足下には注意してくださいね」

「え」

「廊下でも屋上でも、小鳥さんはよく転びますから」

 吐息のように囁かれた言葉に、相槌を打つこともかなわない。

 ポン、と小さく頭でバウンドしたマグカップは、そのまますとんと私の手中に収まった。

「お騒がせしました」

 丁寧に一礼してその場を後にした沙羅さんたちを見送った後、総務部女子は一斉に色めき立つ。

「あれ? 小鳥さん、どうしたんですか? 顔、真っ青ですよ?」

「……っっ」

 夢じゃない。現実だ。

 頬を赤らめる乙女たちのなかで私は一人、突きつけられた現実に顔を青ざめていた。


「あんたの恋愛アンテナの鈍さも、よもやここまでとは思わなかったわ」

 色とりどりの背表紙が辺り一面に広がる、道内最大級の大型書店にて。大げさに首を振る柚に、私は居心地悪く身を縮めた。

「柚も知ってたんだ? 沙羅さんのこと」

「少なくともアンタ以外の女性社員は、間違いなく認識してるね」

 歯に衣着せぬ柚の言葉が私を一刀両断した。

「ま、小鳥が男の人に無頓着なのはいつものことか」

 写真集コーナーの販売状況をリサーチする柚が、やれやれと肩をすくませる。

「沙羅慧人、二十七歳。第一グラフィック部CG課のエースで、去年も有名作家の表紙にデザイン案を抜擢された実力派だよ」

「へ、へぇ。やっぱり仕事もすごいんだ」

「それでいてあの美貌でしょ? ここだけの話、女性社員だけじゃなく男性社員からも狙われてるって、もっぱらの噂なわけよ!」

 なるほど。だから付いた異名が“林編集プロダクションの不可侵の女神”か。

 ようやく合点がいった私は、沙羅さんの神々しい微笑みを思い返していた。確かにあんな微笑みにあてられてしまったら、男女かまわず心を奪われてしまいそうだ。

 書店リサーチに必要なメモを一通り書き留めたらしい柚は、意志の強い瞳をキリッとこちらへ向けた。

「それで? 小鳥の歌をたまたま聴かれて、沙羅さんと親しくなったってのはわかった」

「柚さん……指をささないでくださいな」

「問題はその後。あんたは何をそんなに困ってるわけ? ここは喜ぶところじゃない?」

 いつものことと知りながら、問いたださずにはいられないらしい。

 大学時代にも何回か向けられた質問にたじろぐと、柚はぐいっと身体を乗り出した。

「あの! 美しくて優しくて爽やかで愛想が良くて物腰柔らかな人なんてそうそういないよ!? 女神だよ、天然記念物だよ!? いいじゃんそのまま順調に仲良くなっちゃえば!」

「わ……私はね? 今まで通り穏やかな生活を送れれば、それで十分満足というか」

「それでもうら若き二十代女かアンタはっ!」

「そうは言われても~!」

 私だって色恋沙汰に全く興味がないわけではない。休日デートをしているカップルを見れば幸せそうだなぁと思ったり、気軽に男性と会話している女性を見れば羨ましいなぁと思う。

 でも、じゃあ自分がそのポジションに身を置きたいかと問われれば、全く別の問題だ。

「別に友人として接するなら問題ないじゃないのさ。アンタの男性恐怖症も克服できるかもよ?」

「柚さん。私に今更、男友達を作ってみよと?」

「……うん。無理だね」

 学生時代の頃から付き合いがある柚も、自分の発言がいかに実現不可能か悟ったらしい。

 青い瞳と緩いウェーブヘア。さらに元来の小心者ということも相まって、私は幼少時代から男の子にからかわれる対象だった。

 その恐怖の記憶の影響もあり、現在に至るまで「男友達」というものを作れたことがない。作り方もわからない。

 そんな私が、あの女神様を友人とするなんて、無謀すぎる。

「でも、沙羅さんが約束を取り付けたくなる気持ちは分かるなぁ」

 改札まで付き添った私に、柚は不意に告げた。規則正しく揺れていた柚のショートヘアが、さらりと光を波打たせて振り返る。

「小鳥の歌声ってすごく綺麗なんだもん。初めて聴いた時、天使の歌声かと思ったよ」

 昨日屋上で会った時の、あの人の言葉を重なる。

「あ、ありがと……」

 ぽそぽそとお礼を言うと、柚はふふっと笑いながら頭を撫でた。

 有り難いことに、その日の空は夜が更けても薄い雲がかかったままだった。


 翌日。近隣の取引先に資料を届け、会社に戻ろうとした矢先のことだった。

 前を歩く女の子たちの足が、おもむろに止まったのだ。

「わ、見て見てあの二人」

「イケメンの友達はやっぱりイケメンだねぇ」

 何となく、嫌な予感がした。

 いやまさか。社内ならともかく、こんなところでまで女神様が光臨することは有り得ない。だって私、何か悪いこととかしたっけ? いや、してないない。

 自分に言い聞かせながら、恐る恐る女性たちが目を向ける方へと視線を向ける。すると、緑地公園になっている広場の中央にすらりと立つのは、男性二人のシルエットだった。

 備え付けの噴水がまるで彼らを祝福するように、一斉に美しいドームを形どる。

「俺さ。本当はずっと、沙羅君に惚れてたんだよね」

 は、早くもデジャヴ来た──!?

 あんぐりと口を開けた私は、その口を両手で塞ぐと素早く物陰に身を潜めた。

 何で沙羅さんへの告白現場にいちいち遭遇するのかな私……!?

 行き交う人の怪訝な視線を感じるが、背に腹は代えられない。このまま茂みの影で移動して、さっさと会社に戻ろう。

 しかしながら、つい今一度彼らの方に視線をやって、思わず動きを止めた。

 よくよく見てみるとお相手は、あの沙羅さんの隣でも全く見劣りしない美男子だった。

 きらきらと輝く髪の毛はどうやら本当に金髪で、それとは正反対に落ち着いた和装を、とても自然に着こなしている。金髪の和装の美男子。相変わらず茂みに屈みながら、私は何度も首を傾げる。

 沙羅さんと居るあの男の人、前にどこかで……?

 そうしていると、不意に目の前の視界がふっと影に覆われた。

「おい、道ばたで座り込んでんじゃねぇよ」

 あからさまに脅しめいた口調に肩がびくつく。見上げると、男子高校生らしき数名が、面倒くさそうにこちらを見下ろしていた。

「ご、ごめんなさい。すぐに、避けますので」

「おい、お前お姉さんに凄んでんじゃねーよ」

「お姉さん、怖がってんじゃん!」

 フォローするような言葉だったが、実際ははやし立てるのが目的なのだろう。

 じり、とこちらに近付いてくる人影に、みるみるうちに血の気が引いていくのがわかる。

「お姉さん大丈夫? 泣きそうだよ?」

 図星だった。

 小さい頃から今まで、散々同じような目に遭ってきた。そのたびに今度はこうしてやろうとか、ああ言い返してやろうとか、いっぱいいっぱい考えた。なのに、どうして現実はそう格好良くいかないんだろう。

 情けなくぼやけてくる視界に、ぐっと力を込める。

「へぇ。冴えない女かと思ったけど、泣き顔は少し可愛いんじゃん?」

 男子校生の一人の悪魔のような笑みに、背筋が凍り付く。こちらに差し出してくる手を見留め、私はとっさに声を上げた。

「や、やめ……っ」

「その辺にしときな。君たち」

 瞬間、私へ伸ばされていた男子高生の手が、もっと大きな手によって止められた。

「好きな女の子に見せられないような言動を、余所ではたらくものじゃないよ」

「な、んだよ、お前……っ」

「その制服は南高だね。青のジャージは確か三年生、だったかな」

 カバンからはみ出ていたジャージに気付いた一人が、慌ててそれをしまい込む。

 突然現れた長身の麗人に、へらへらしていた全員の顔がひきつった。手首を掴まれたまま動かせないらしい男子校生も、悪態をつきながらもたじろいでいる。

「信号、青になったよ。家に帰りなさい。真っ直ぐね」

「う、ぐッ!?」

 一瞬、手首を掴まれていた男子校生が唸り声を上げ、顔を酷く歪ませる。

 そしてすぐに離された手を慌ててさすると、仲間を引き連れそそくさと行ってしまった。

「小鳥さん」

「さ……沙羅、さん」

「もう、大丈夫ですよ」

 微笑みながら、沙羅さんの手のひらがふわりと頭に乗せられる。酷く安堵する温もりに、危うく涙が溢れそうになる。

「あ、ありがとう、ございましたっ」

「どういたしまして。とはいえ、大したことはしていませんけどね」

「そんなことありません! な、何て言ったらいいのか……!」

「おい、そこのチビ女。マジで心の底から迷惑なんだけど」

 一瞬、沙羅さんの心の声かと思ってしまう。

 しかしながら沙羅さんが素早く後ろを振り返ったことで、私はすぐに声の主と対面することになった。

「人様の一世一代の告白シーンだぜ? 何つータイミングで茶々入れてくれてんの? 馬鹿なの?」

「な、な……っ??」

「日下部先生。女性に対して素で話しすぎです」

 沙羅さんがやんわり窘める。それでも忌々しさを隠そうとしない金髪和服の男の人は派手な舌打ちをした。

 さっきの告白、やっぱりこの金髪和服さんがしてたんだ……!

「おいコラ」

「ひっ!?」

 急にどアップになった金髪和服さんに、思わず肩を弾ませてしまう。

「何アホ面してんだ。見惚れてんじゃねぇぞゴラ」

「あ、すみません、違いますっ。全然そういうんじゃないんですけども……!」

 慌てて詫びたつもりだったが、どうやら逆効果だったらしい。

 向こう側に立つ沙羅さんがぷっと吹き出したのと、目の前の金髪和服さんのこめかみに血管が浮き出たのはほぼ同時だった。

「う、すすす、すみませんでした! 貴方様の一世一代の告白を邪魔してしまって……!」

「ふん。わかりゃあいいんだよ」

「わからなくていいんですよ、小鳥さん。日下部(くさかべ)先生も冗談はそのへんにしてください」

 沙羅さんが後ろから首根っこを引いてくれたらしく、金髪和服さんの綺麗なお顔が離れていく。

 安堵の息をついた私だったが、ふと社で出している雑誌の特集ページが頭をよぎった。

 金髪、和服、美人、日下部先生……?

 日下部、(さとる)

「──あ!」

 思わず上げた声に、美男子二人が振り返る。

「日下部先生って、あの若手小説家のっ」

「っ、小鳥さん」

「んの馬鹿野郎、往来で何を……!」

 勢い良く突き出された日下部先生の大きな手により、私の口が必要以上に覆われた。


 ほぼ酸欠状態のまま、気付けば私は会社の休憩室まで運ばれていた。

「日下部先生は今、若い女性から爆発的な人気の作家さんなのよ」

 偶然通りかかったらしい戸塚さんが、苦笑しながら私に話す。

「金髪に和装のミスマッチもあのイケメンなら胸きゅん要素のひとつってね。人混みのど真ん中で正体バレたらそりゃ大騒ぎだわ」

「そ、そうだったんですか」

 額に貼られて冷えピタをさすりながら、私は乾いた笑いをこぼした。

 運びこまれた社内の休憩室を感慨深げに見渡す。思えばここにお世話になるのも随分と久しぶりだ。情けないことに入社したての頃は、環境の変化に付いていけずによく貧血を起こしていたから。

「それでいて、日下部先生は沙羅さんのことが大のお気に入り」

 戸塚さんは辺りを確認すると、小声で私に耳打ちした。

「もったいないけどねー。イケメン同士ビジュアル的には申し分ないわよね。いつも隙あらば沙羅君を落としにかかってるわ」

 むふふ、と楽しげにポニーテールを揺らす戸塚さんにつられ、私も再度二人の立ち姿を思い返した。確かにお互い、引けを取らない美形同士だった。

 今日詰め込まれていた取材スケジュールにひとつが、日下部先生の対談インタビューだったらしい。きっと昨日から準備されていたもののひとつだろう。

 押しているスケジュールにも関わらず、沙羅さんはわざわざ私をこの休憩室に運んでくれたのだ。

 日下部先生にも沙羅さんにも、迷惑かけてしまった。そこまで耳にした私は、言いようのない罪悪感が胸に重くのし掛かった。


「お疲れさまです」

「お疲れさまでしたー!」

 応接間の方から聞こえてきた挨拶の合奏に、私は背筋をぴんと伸ばした。

 誰が見ているわけでもないのに物音を立てないように立ち上がり、そそそ、とエレベーターで一階まで下りていく。

(日下部先生はね、いつも自分の送り迎えに沙羅君を指名するのよ)

 先ほどの戸塚さんの言うとおり、数分後エレベーターから下りてきたのは日下部先生と沙羅さんだった。互いに笑顔があるところから察するに、取材は無事に済んだということだろうか。内心ほっとしていると、私は勇気を奮い立たせて一歩踏み出した。

「く、日下部先生。沙羅さん」

「小鳥さん」

「ん?」

 いち早く気付いてくれたらしい沙羅さんが、目を見開きながらこちらに駆けてくる。

「もう体調は大丈夫ですか。無理はされない方がいいですよ」

「あ、もう、全然平気です! それより、お二人にお詫びをと思いまして……っ」

「お詫び、だぁ?」

 先ほどまでの笑顔がいつの間にか立ち消え、不機嫌を絵に描いたような日下部先生がこちらを見下ろしていた。

「なんなのお前。一度ならず二度までも俺と沙羅君の時間を邪魔するわけ。んん?」

「っ、あ、そ、す、すみません……っ」

「あんたみたいなちんちくりんに詫びられたって、こちとらなーんも得なんてねぇんだよ」

「……そ、」

 それは、重々承知しているのだけれど、でも。

「日下部先生」

 すっかり畏怖に捕らわれてしまっていた私の前に、大きな壁が出来た。

 その壁は私より遙かに高いものなのに……不思議と、温かく思える背中だった。

「女性に対して威圧的に迫るのは感心しませんね」

「沙羅さん……」

 自身の後ろにそっと促した沙羅さんの手に、何故だか酷く安心してしまう。何度も自分を助けてくれたからだろうか。沙羅さんの言葉にはもう、安堵の気持ちしか浮かばなかった。

「へぇ。沙羅君も随分とそれの肩を持つじゃねーの」

「貴方の態度が極端なんですよ。全国の女性ファンの方に逃げられても知りませんよ?」

「あれれ。今のって嫉妬?」

「さあ。どうでしょうね」

「……」

 ああ、何だか、完全に大人の世界に入り込んでしまったらしい。

 今もなお周囲から視線を総なめにしているお二人の世界に、ちんちくりんの私は最早手出しできるはずもなかった。

 結局日下部先生は、沙羅さんが手配していた車に上機嫌で乗り込んだ。そして私のことなど目もくれず、開けた窓から沙羅さんの頬に唇を……って。

 えええええええええええええええ!?

 動揺に動揺が何重にも重なる。

 車が見えなくなった後、沙羅さんは小さく息をつく。そしてこちらに振り返った瞬間、その綺麗な瞳を再び丸くした。

「小鳥さん、顔が真っ赤ですよ。まさか、熱をぶり返したんじゃ」

「あ、え、ち、違います!」

 確かに今なら熱があるかもしれないけれど!

「ま、まさか、こんな不意打ちで人様のキスシーンを拝むことになるとは思わなかったもので……へ、平気ですっ!」

 熱を散らすように首を振る私に、沙羅さんは一瞬ぽかんとする。しかしながらその後すぐ、小さく肩を震わせていた。え? 何で?

「さ、沙羅さん?」

「ふ、ふふ。いや、体調が何ともないのなら、良かったです」

 はぐらかされた感もあったが、柔らかな微笑みにそれ以上何も言えなかった。

 エレベーターが到着すると、沙羅さんの長い指が総務部のある十五階のボタンを押す。しかし沙羅さんはそのままエレベーターを下り、一階に残った。

「俺は、次のエレベーターで戻ります」

 柔らかに告げられた一言に、私は思わず目を剥いた。そんな私を、沙羅さんは優しい笑顔で見送る。

「今日は星が綺麗ですよ。小鳥さん」

 そう、小さな約束を言い残して。


 沙羅さんは、とてもとても良い人だ。

 いくら男の人が苦手な私でも、そのくらいは身に沁みて実感していた。あの温かくて繊細な手の温もりが、お母さんとよく似ている。

 例によって屋上にたどり着いた私は、ゆっくりと塔屋の上にのぼっていった。

 そこにもどうやら誰の人影もないことを知り、私はようやく詰めていた息を吐いた。

 また大きく息を吸う。大きく吐き出す。胸が、ドキドキする。

「緊張、するなぁ」

 何度も深呼吸することに疲れてしまい、私はそのまま床に背を預けた。

 今日は遅くまで予定が詰まっていたんだ。きっと沙羅さんが来るのはもっと後になる。

 ようやく星空の美しさが視界に入ってきた。広がる星の瞬きに目を細める。本当に綺麗な夜空だ。

 光の粒が、薄く、かすんでいく。

 お母さんの手が、頬を撫でた気がした。

 温かくて少しくすぐったい感触に、私は頬を緩める。お母さんの笑顔は、まるでピクニックに出かけた時のお日様みたいだ。

「──ぅ、ん……?」

 重く持ち上げた瞼。光溢れる光景が、一気に闇に満ちていくのがわかった。落胆が滲む胸は、目の前に佇む人物によって一気に跳ね上がる。

 さ、沙羅さん……!

 一瞬ぴくっと震えてしまった私は、慌てて瞳を閉じなおす。幸いにも起きたのを気付かれてはいないらしい。私は再びそろりと瞳を細く開いた。

 ああ、女神様だ。思わずそんなことを胸の中で呟いてしまう。月明かりに照らされた沙羅さんの横顔は、まつげの先まで美しかった。

 時折掠めた何かをこするような音は、スケッチの音だったらしい。

 沙羅さんは私の隣に腰を下ろしたまま、スケッチブックに向けて静かに鉛筆を走らせていた。その動作が酷く繊細で見惚れてしまう。

「……ああ。目が覚めましたか」

「す、すみません。いつの間にか眠ってしまって」

 言いながら私は、そそくさとその上体を起こした。そしてようやく、自分にかけられていた男物の上着に気付く。

「あの、これ」

「風邪を引いてはいけないと思ったので。良ければ羽織っていてください。上着なしでは少し肌寒いですから」

 ああ、駄目だ。やっぱり良い人だ。感動で胸がいっぱいになる。同時に、下手に接触を避けようとする自分を後ろめたく思った。

 無言のまま俯いた私に、沙羅さんが小さく首を傾げるのがわかった。

「遠慮しないで良いですよ。只でさえ今日は色々と迷惑をかけてしまいましたから」

 困ったように微笑みながら、沙羅さんは私の膝元を覆っていた上着に手をかける。

 そしてそれを広げたかと思うと、ふわりと風に棚引かせた。

「どうぞ。これで少しは温まると思いますから」

 私の小さな身体を包むように、改めて沙羅さんの上着が羽織らされる。驚くほどのサイズの違いに、改めて彼が男の人だと実感した。

「あ、ああああのっ!」

 唐突に声を上げてしまう。それでも、今このタイミングじゃないと沙羅さんの優しさに甘えて言い逃してしまいそうだった。

「今日は本当に、すみませんでした。段ボールからも高校生からも日下部先生からも貧血からも助けていただいてっ」

 一気にまくし立てる私に、きっと沙羅さんは唖然としているに違いない。それでも私はその勢いのまま言葉を続けた。

「本当は私……前の屋上でのことは、全部夢だったら良かったのにって思っていたんです。沙羅さんとここで会ったことも、歌声を気に入ってもらったことも。全部、ただの夢だったらって」

 沙羅さんは、別段驚いた様子はなかった。きっと気付いていたんだろうと思う。

 だからこそさっきだって、上りエレベーターをわざわざ別にしてくれた。私が沙羅さんとの接触を避けていたことを察して。

「不義理、ですよね。沙羅さんは何度も私を助けてくれたのに、私は沙羅さんの魅力にあてられて……お、及び腰になってしまって」

「情けないです」とこぼし、羽織らされた上着をきゅっと掴む。

「でも! ここ数日だけで、よくわかりました。沙羅さんは、外見だけではなくて心も、やっぱりすごくすごく、素敵な人なんだってことが……!」

 まるで自分の背を押すように、夜風が温かく背を撫でる。ぐ、と私は意を決した。

「こ、こんなちんちくりんな私ですが……今はもっと沙羅さんと普通に挨拶したり、お話したり、そんなふうに接していけたらと思っています。本当に、おこがましいんですが……!」

 さあ言え。日下部先生の言葉を借りるなら、一世一代の告白を。

「沙羅さん!」

 精一杯の勇気を振り絞って、視線を上げる。

「わ、わわわ、私と、お友達になってもらえませんか……っ!?」

 ……沈黙。

 どうやら考えが甘かったらしい。

「友達」は早かっただろうか。「赤の他人以上友達未満」の方が良かったのかもしれない。

 沙羅さんは端正な顔をそのままに言葉無く固まっている。血の気が引く音が、聞こえた。

「ご、ごめんなさいすみません! やっぱり友達じゃなくて、赤の他人以上友達未満からで……!」

「ははっ」

 ──へ?

 突然、目の前の女神様が破顔された。どうしてだろう。

「っ、はは。すみません突然笑ってしまって」

 ひとしきり笑い終えた沙羅さんは、次第にいつもの穏やかな彼に戻っていく。細められた綺麗な瞳に、自分の姿が映り込んでいた。

「謝ることなんてありません。あの約束は、俺も少々強引でしたから」

「い、いえっ、そんなことは!」

「こちらこそ、お願いしても良いですか」

「え」と口からこぼれると同時に、目の前に沙羅さんの手が差し出される。

 白く綺麗で、それでいて自分のより一回り大きな、優しい手のひら。

「俺を貴女の友達にしてください。小鳥さん」

 身体中の熱が、一気に顔に集まっていく気がした。

 どきん、どきんと大きく鼓動する音を聞きながら、私は少しずつ自分の手を持ち上げていく。ようやく沙羅さんの手のひらに触れた瞬間、緊張で大きく身震いしてしまった。

 自身の不格好さに思わず手を引いてしまいそうになったが、素早く引き留める力強さにはっと息を飲む。

「掴まえました」

 どこかいたずらっぽい笑みを浮かべる沙羅さんに、ますます頬が熱く燃え上がっていく。

 一世一代の告白が成就したことを実感する。こうして男友達は作っていくんだ。みんなはとっくに終わらせてきたのだろう試練をようやく終えたことに、私は長い息をついた。

「小鳥さん?」

「あ、はは……すみません。何だか嬉しくて」

 高揚している気持ちのせいか、頬が変な感じに緩んでしまう。

「生まれて初めて、男友達と呼べる存在が出来ましたから」

 二十六年間生きてきて、ようやく破れた自分の殻。私は照れ笑いをしながら、小さく顔を俯けた。

「あ、はは。私みたいな人、なかなかいないですよね」

「そうかもしれませんね。でもそのお陰で、俺は小鳥さんの初めての男になれましたから」

 月明かりが、薄く伸びる雲に塞がれていく。

 微笑む沙羅さんに私も笑顔で応えることができた。

「はい! 不束者ですが、その、どうぞよろしくお願いします……!」

 相変わらず美しい友達と、もっと友達になっていきたい。

 私は自身の大きな一歩を満足するばかりで、沙羅さんの言葉の意味を深読みすることはなかった。


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