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第13話 沙羅さんは私の想い人―4

 第13話 沙羅さんは私の想い人―4


 インタビューは少し時間を繰り上げて無事に終わっていた。

 その合間を縫って、メンバーのみんなで手分けして私を捜してくれていたらしい。

「それじゃあ、インタビューを受けた皆さんは?」

「今は、各控え室で待ってもらっています」

「もともと私たちが手配した車で送迎する予定だったしね」

 沙羅さんと柚が答え、なるほどと頷く。私たちはひとまずシーツで縛りあげた男を監禁部屋に残し、二十階のフロアに戻っていった。

 私の腕の中で今もすやすやと眠りにつくタイガ君が、ひどく心を和ませる。

「あの。さっきの男は、やっぱり警察に……?」

「小鳥さんの希望があれば、すぐにでも警察に突き出しますよ」

 物騒な物言いに反して、沙羅さんがにこりと笑顔を浮かべる。

「それでも、諸悪の根元を叩かないことには意味がありませんから」

「こ、根元?」

「小鳥さん。あの男、複数犯をにおわせる発言をしてはいませんでしたか?」

「あ……」

 思い当たる節があった私は、こくりと頷く。

(あんなのに顎で使われてたらさ、少しくらいうまみを受けたくなるもんだろ)

 あの男は、確かにそう言っていた。


「タイガ!」

 父親の呼びかけに、タイガ君はようやく瞼を開いた。抱きかかえていた私と目を合わせたタイガ君は、すぐにこちらに駆け寄ってくる逢坂さんに気づく。

「っ、父さん」

 弱々しい英語でそう口にしたタイガ君は、我に返ったように私の腕の中から逃げだそうとした。

「待ってタイガ君、ちゃんと話を……!」

「離せよ小鳥! 母さんを裏切ってたこんな奴なんて……こんな奴なんて!」

「タイガ!」

 一際大きな声で呼ばれ、タイガ君の肩がびくりと震える。そして小さな体は、逢坂さんの腕の中に収められていた。

「タイガ、ごめんな」

 か細い謝罪の言葉に、タイガ君の表情が歪む。ホテルの廊下の真ん中で訪れた沈黙を、逢坂さんが静かにやぶった。

「情けない父さんで、本当にごめん」

「な、なんだよ今更。他の女と浮気してたくせにっ」

「誤解だ。父さんはそんなことはしてない」

「じゃあ、何でこそこそ電話してんだよ!」

「あれは、母さんと電話してたんだ」

 潤みを帯びた大きな瞳が、丸く見開かれる。

「母さんの病気が最近少しずつ悪化していたのは、きっとお前も気づいてたよな?」

「……」

「ここ日本には、その病気の権威と言われる先生がいてな。母さんは昨日、その手術を受けたんだ」

「しゅ、じゅつ……?」

 悪い予感がよぎったのか、タイガ君が掠れた声で反復する。

「大丈夫だ。母さんはちゃんと元気だ」

「本当? 本当に?」

「ああ。早くお前に会いたいって言ってる」

 その言伝に、タイガ君の瞳から涙が溢れる。

 どこまでも美しく透き通った滴に、逢坂さんは今一度、きつくタイガ君をかき抱いた。

「お前を不安にさせたくなくて黙ってたんだ。でもそのせいで、かえってお前に不安にさせたんだな」

「う、うう……」

「早く母さんに会いに行こう。そして三人で、アメリカに帰ろう」

「父さん……ごめんなさい。ごめんなさい!」

「いいんだ。父さんが臆病だっただけだ。お前の方が、きっとずっと強かったんだな」

 本当だな、と私は思った。

 私もきっと、さらわれたのが一人だったらあんなに気丈にはいられなかっただろう。タイガ君がいてくれたから、今こうして無事にいられるのだと思う。

「よかったね、小鳥」

「うん。本当によかった……」

 隣d絵微笑む柚に、返す声が震える。

「あんたがそこまであの子を気にかけたのって、やっぱり自分と重ねてたから?」

「ん。それもあるよ」

 どうしても放っておけなかった。自分にも似た経験があったから。

 私のママはそのまま家に戻ることはなかったけれど、パパが必死に私や翼を守ろうとしてくれた。そんな思いやりに子どもの私が気づくのも、少し時が経ってからだったけれど。

 だから、本当によかったね。タイガ君。

「あ、よかった。二人は残ってたんだ」

 どこか焦るようにこちらへ駆けてきた戸塚さんに、私たちはそろって振り返った。

「どうかしたんですか、戸塚さん」

「うん。さっき沙羅さんたちを違う階で見かけたの。何だか様子もいつもと違ってさ、また何か問題でもあったのかと」

 沙羅さんが、いつもと違う様子で?

「戸塚さん。沙羅さんたち、って?」

 固まってる私の隣で、柚が問う。

「うん。遠巻きに見ただけだけど、朝比奈さんのお母さんも一緒だったよ」

「朝比奈さんのお母さん? ど、どうして」

「ああ。それはきっと、今回の監禁のことを問いつめにいったんだろうね」

 一人合点がいったらしい柚が、肩を竦める。

「今回のことを仕組んだのって、たぶん朝比奈さんのお母さんだから」


「そこまで言うからには、私がそちらの女性スタッフと逢坂さんの子どもを監禁した証拠でもあるのかしら!?」

「残念ながら、貴女が二人を監禁したという確固たる証拠はありません」

 心臓が大きく震え、思わず足を止めてしまう。

 戸塚さんに聞いた場所へ駆けつけてみると、探していた人の声色が聞こえてきた。曲がり角に背中をつけ、そっと向こう側を覗き込む。

 沙羅さんと──朝比奈、加世子さん。

「証拠もなしに、そんな言いがかりをつけるだなんて……!」

「ですが、実行犯の男は捕らえてあります。所持していた携帯も、監禁場所の部屋の番号もわかっています。俺たちは一般人です。そちらが確固たる証拠を求めるのならば、こちらも然るべき場所に通報せざるを得ません」

「そ……れは」

「確定的な証拠が出てきて困るのは、どちらでしょうね」

 異様なほど柔らかな口調で告げられ、加世子さんの金切り声が苦しげな無言に変わる。

 どうして。柚に明け透けに犯人を聞かされ、一番に思ったのは疑問だった。

 確かに加世子さんは私のことを好ましく思っていないようだった。でもそれは、仕事に熱心な彼女の信念が故だとも思っていたのだ。

 自分でも気づかないうちに彼女の琴線に触れてしまったのか。どうして。どうしてどうして。

 どうして、タイガ君を巻き込んでまで……!

「待て。このちびっ子」

 思わず声を上げようとした自分の口が、大きな手のひらに押さえつけられる。そして次の瞬間、誰かの胸板に強く抱き寄せられるのが分かった。

「今お前が出ていっても、話がややこしくなるだけだ」

「日下部、先生……っ」

 どうして、日下部先生がここに?

 未解決の「どうして」がさらに増え、頭がパンクしそうになる。そんな私を楽しそうに眺めた後、先生は沙羅さんたちが対峙する方へ視線を向けた。

「インタビュー時、あのババアの肩に黒いカラコンの片割れがくっついていた。大方お前を監禁場所に運んだ時に付いたんだろう」

「え」

「決定的だったのが、インタビュー中に『一度もお前の行方を尋ねなかった』ことだな」

 目の敵にしていた女スタッフが姿を消せば、すかさず指摘するのがあのババアだ。

 さらりと続けた先生の言葉に、じわじわと理解が進んでいく。それでも、やっぱりその理由がわからない。

「理由は恐らく、愛娘だな」

「娘……朝比奈、恵さんですか?」

「以前別の取材で会ったときから、あの可愛い子ちゃんは沙羅君に惚れ込んでいたらしい」

 朝比奈さんが、沙羅さんのことを。

 予想できていたことだったが、改めて言われると胸に突き刺さった。あんな綺麗な人も、やっぱり沙羅さんに惹かれてしまうんだ。

「加世子さん。貴女は娘さんのことを何より優先させてきた」

 曲がり角の向こうで、沙羅さんの声が続く。

「そして俺の近くに現れた小鳥さんが、娘さんの邪魔になると考えた。その彼女の信用を失墜させるために、こんなことをされたんでしょう。インタビュー前に中谷監督の資料に工作をしたのも、同じ理由でしょうか」

 告げられた質問は、ほぼ断定だった。それがどこか危うい声色に思え、慌てて二人の方へ向き直る。

「子への愛情が盲目にさせているのかもしれませんが、忘れないでいただければと思います。俺たちはあくまでメディア業界の一員で、下手に敵に回すべき存在ではないことを」

 彼は背を向けていて、こちらから表情は窺えない。それでも対峙している加世子さんの顔色が、みるみるうちに色を落としていくのだけはわかった。

「無論、こちらも仕事上では、今後も良好な関係をこちらも望んでいます。こちらの言いたいことをご理解いただけたなら、首を縦に振っていただけますか」

 極寒に耐えるように我が身を抱いた加世子さんが、何度も縦に首を振る。

 いったい、何が起きたんだろう。思わず瞬きを忘れていると、口を押さえていた先生の手が静かに離れていった。

「あんな沙羅君は、初めて見たな」

 そう言う日下部先生もまた、今まで見たことのない微笑みを浮かべていた。


 星がかすかに瞬きだした時分。

 ホテルのエントランスに停められたタクシーで、逢坂さんとタイガ君は直接病院に向かうことになった。

「逢坂さん。この度はインタビューにご協力いただきまして、誠にありがとうございました」

「いえ。こちらこそ、何から何まで本当にお世話になりました」

 柊さんを筆頭に、社員一同深々と頭を下げる。逢坂さんは、さらに深く頭を下げた。

「ほら、タイガ」

「小鳥さん」

「ん」

「あっ」

 傍らに控えていたタイガ君が、逢坂さんに促され私の前に進み出た。私も同様に、沙羅さんの大きな手に優しく背を押される。

「タイガ君。ここでお別れだね」

「そう、だな」

 短く答えたタイガ君は、視線をさまよわせながらじっと立ち尽くしている。

 視線をあげると、すぐそこで柔らかく笑みを浮かべる逢坂さんと目が合った。一目でわかる、父親としての眼差しだった。

「まああれだ、色々世話になったな」

「こちらこそ、タイガ君には色々力をもらったよ」

「勝負は、俺の勝ちだよな?」

「ふふ。そうだね。タイガ君の勝ちだよ」

「お前も、ちゃんと約束守らなきゃ駄目なんだからな! 守らなかったら絶交だぞ!」

「うん。約束するよ」

 にかっと笑ったタイガ君に手を差し出され、笑顔で握手に応える。その時、どこか好戦的な視線が、ちらりと私の背後に向けられた。

「小鳥!」

 タイガ君の小さな手に、驚くほど強い力で引き寄せられた。突然の引力に、ぐらりと前のめりになる。

 体のバランスを保とうと一歩踏み出した矢先に触れたのは、生温かい、柔らかな感触で。

「小鳥さん」

「……!」

 我に返ると、私の体は誰かの手によって後方に抱き起こされていた。沙羅さんだ。それがわかっても、私はただ唖然とするほかなく。

「If you really want to get the man, practice kiss like this, you know?(マジでその男を落としたいなら、このくらいこなせるようにしておけよな)」

「……! ……!」

「またな!」

 いたずらな笑みを浮かべ、タイガ君がタクシーに乗り込む。驚きの早さで去っていった逢坂親子を見送った矢先、背後から明るい声がかかった。

「はっはっは。さすがアメリカンの挨拶は情熱的だなぁ。な、慧人」

「もともとタイガ君は小鳥ちゃんに心底懐いてましたし。ね、沙羅さん」

「ファーストキッスは未来のアメリカンイケメンかー。羨ましいこと山の如しだよ。ね、沙羅さん!」

「……ええ。そうですね」

「っ、ど、な、え、ちょ」

 柊さんも戸塚さんも柚も、何故話の矛先を沙羅さんに向けるのかな!?

 訳が分からず口をぱくぱくしていると、至近距離から沙羅さんの視線と交わった。瞬間、原因不明の熱が一気に私の頬を焼きつくす。

 だって、私の初恋、応援してくれてたんじゃないの、タイガ君!

「え、えっと。他の皆さんは車でお送りするんですよね? 私、皆さんを呼んできます!」

「あ、逃げた」柚の呟きが背中に刺さる。だってみんながいじめるから!

 ホテルに駆け込みながら、唇にそっと指先で触れる。思い出しかけた甘美な感触に、慌ててかぶりを振った。ホテルロビーの荘厳な柱に手を付き、大きく深呼吸をする。

 あれは、タイガ君の叱咤激励だ。もしかしたら、感謝の裏返しなのかもしれない。

 だとしたら、私は。

「堀井、小鳥さん」

 ひどく鬼気迫った声が、その場に響いた。


 逢坂親子を除いた関係者には、ロビー側のカフェで待機してもらっていた。ところが今私は、反対側のエレベーター近くで深く頭を下げられている。

 今までしたことのない経験に、私は目を丸くした。

「本当に、申し訳ありませんでした!」

「あ、あ、あの?」

「堀井さんには、信じられないほどのご迷惑をおかけして……っ」

「朝比奈さん、顔を上げてください……!」

 私の懇願を聞き入れた朝比奈恵さんが、ようやく頭を上げてくれた。さらりと揺れるロングヘアは、相変わらず絹糸みたいに綺麗だ。

「あの、いったい何に謝られているのか……」

「私の母が、貴女に大変なご迷惑をかけたと聞きました」

 監禁のことを?

 加世子さんを追求する場面に出くわした後、私の前の現れた沙羅さんはいつも通りの彼だった。

 掻い摘んだ事情説明の後、警察に通報するか否かを再確認された。私が出した答えは否だった。タイガ君が今後危害を加えられることがないのなら、それでいいと思ったのだ。

 そのこともあり、関係者にも日下部先生と除いて実状を説明することはしなかった。それなのに、彼女はどこまで事情を知らされているのだろう。

「私は、沙羅さんが好きです」

 思わず、息をのんでしまう。

「以前お仕事を一緒にさせていただいたときに、真摯な態度の彼に、一瞬で惹かれました。彼はすごく優しくて、真っ直ぐで」

「っ、あ……」

「でも、こんなことになっては、きっともう」

 俯いた彼女が、スカートの裾を握りしめる。

 白くなった拳を眺めていると、その視界に一滴落ちていくのに気づいた。彼女はすぐさま目元を拭う。

「ごめ、なさい」

 朝比奈さんは本当に沙羅さんが好きなんだ。それも、私よりもずっと前から。

「母には、私からもきつく言いました。もうこんなことは二度としないようにとお願いしました。こんな当たり前のことも目が行き届かなくて、本当に申し訳ないです」

「そんな、それだって、朝比奈さんのせいじゃありませんから」

「堀井さんは……優しい人ですね」

 苦しみの中で咲いた彼女の儚げな笑顔に、胸がどきんと震える。

「私だったら、とてもそんな気丈には振る舞えません。それなのに、あなたは」

「あ、あの。確かに怖い思いはしました。でも、結果的にタイガ君も何も気づかないままで済みましたから」

「……本当ですか?」

 必要以上に首を縦に振る。すると朝比奈さんは、ひどく安心したように息を吐いた。

「よかった。ほんの少しですけど、心が軽くなりました」

「ですから、そこまでで思い悩まないでください。さっきも言いましたが、朝比奈さんは何もしてないんですから……!」

「でもきっと……彼はそうは思わないから」

 静かに告げられ、目を見張る。彼女に満ちたままの悲しみの根元は「そこ」なのだ。

 告げることもできないまま、周囲の嵐に揉まれて消えるしかない恋。

「堀井さん」

「え?」

「こんなこと貴女に頼むのは、おこがましいことだとはわかってます。でも、私……っ」

 再び感極まり始める朝比奈さんに、慌てて肩をさする。目元をぎゅっと押さえた後、大きな瞳がまっすぐ私を映し出した。

「貴女から、沙羅さんに取りなしてもらうわけには、いきませんか……?」

「……え?」

「母がしたことが、決して許されないこととはわかってます。それでも、やっぱり私、沙羅さんのこと……っ」

 そこまで言うと、朝比奈さんは私の首もとにすがり泣き始めてしまった。

「堀井さんの言葉なら、きっと沙羅さんも耳を傾けてくれると思うんです」

「朝比奈、さ……」

「難しいでしょうか、堀井さん……っ」

 肩口に感じる熱い涙の感触に、胸がぎゅっと苦しくなる。それはまるで、昨日までの私と同じだと思った。

 想いを伝える前に叶わないと気づかされた、衝撃。沙羅さんの真摯な心に惹かれる、恋心。

 誰かにすがり助けを求める、弱い気持ちも。

「それは、できません」

 これ以上ないと言うくらい、固く強ばった声が出た。私の返答に一瞬だけ泣き声を止めた朝比奈さんが、静かに寄りかかっていた体を持ち上げる。

「朝比奈さんのお願いは、私にはきけません」

「ごめんなさい」はっきり告げ、深く頭を下げた。心臓が、胸を痛いくらいに叩いている。

 改めて見つめた朝比奈さんは、濡れた瞳を大きく見開いていた。

「それに、沙羅さんはそんな人じゃないと思います。沙羅さんは、色眼鏡で人を判断する人じゃありません。朝比奈さんの想いは朝比奈さん個人のものとして、きちんと受け取ってくれる……そんな人です」

 そう考えたから、私も自分の想いを伝えようと決心できたのだ。朝比奈さんは、表情を変えないまま私の言葉を聞いている。

「それにやっぱり、人を介して伝えるより、朝比奈さん自身の言葉で伝えた方が」

「はっきり言ったらいいじゃない。私も沙羅さんが好きだから、貴女に協力できないって」

 ……え?

 見えないはずの空気が、青ざめた気がした。

「貴女も、沙羅さんが好きなんでしょう? だったら、綺麗事を並べないでそう言えばいいじゃないですか。ねえ、堀井さん」

 言葉とは正反対の柔らかな笑みを向けられ、混乱する。

「でも、確か昨日言ってましたよ。沙羅さんにとって堀井さんは『あくまで友人』なんですって」

「!」

「そう考えれば、あなたも私と同じなんですよね。気持ちを伝えられないまま、想いを胸に閉じるしかない……悲しいですよね」

 哀愁の表情を浮かべながら、肩にそっと朝比奈さんの手が乗せられる。

 その手はとても美しく、重かった。

「最初に一緒にお仕事をさせてもらった時、彼はまだ慣れない私にとても優しくしてくれました。それで私、勘違いしてしまったんですね。沙羅さんはただ、誰にでも優しいというだけなのに」

 そしてそれは、貴女も同じなのよ。そう言われた気がした。

「もしかしたら、貴女も私も、彼を忘れる努力をした方がいいのかもしれませんね」

「私は、諦めません」

 肩に乗せられた朝比奈さんの手が、ぴくりと反応した。

「朝比奈さんの仰りたいことはわかります。でも、この気持ちは、どうしても諦められません」

「……」

「ですから、私は……、っ!」

 その瞬間、彼女の美しく彩られた爪が、肩にぎりっとめり込むのを感じた。

「あ、朝比奈、さん?」

「使えませんね。どいつもこいつも」

 一層強められた力に、眉を寄せる。ついに皮膚が裂けるような痛みが走るも、振りほどくことはしなかった。

 だって、こんなことに、負けたくない……!

「その手を離してください」

 冷たく落ちてきた声に、鋭い痛みが消えた。

「何をしているんですか、朝比奈さん」

 沙羅さん。出かけた私の掠れ声は、朝比奈さんの明るい声にかき消された。

「いえ、何も。小鳥さんと意気投合して、少し話が盛り上がってしまって」

「ね?」華やかな笑顔で同意を求める彼女に、ぞくりと背筋が凍る。この人はプロの女優なんだと、今更ながら実感した。

「小鳥さん?」

「……は、い。すみませんでした。皆さんを連れてくると言ったのに、遅れてしまって」

「……そうですか」

 穏やかな眼差しで告げた沙羅さんが、小さく頷いた。

 かすかに疼く悔恨を、ぐっと胸の底にしまいこむ。まるで朝比奈さんに屈してしまったように見えただろうか。

 でも、沙羅さんに告げ口するみたいなことはしたくない。

「朝比奈さん」

「はい。私もすぐに荷物を持ってきますね」

「俺は貴女に嘘を吐きました。小鳥さんは、あくまで友人だと」

「え……」

「小鳥さんは、他の誰よりも大切な人です」

 引き寄せられた胸板に、そっと顔を押し当てられる。

「そして、大切な人のことは何をしても守り抜きます。犯罪紛いの手段を使われても……人を操るような、賢しい手段を使われても」

 厳しい口調とは裏腹の、熱い言葉。

 遅れて理解できた状況に、上せるような熱がこみ上げてくる。

「貴女は、きっと業界を担う女優になると思います」

 腕の中に閉じこめられていて、二人の表情は見ることはできない。それでも、背後からかすかに息をのむ気配が届いた。

「嘘じゃありません。初めて貴女に会ったときに思いました。プロの女優というのは、こういう人のことを言うのだと」

「……」

「どうかこれからも、純粋に貴女を応援させてください。朝比奈さん」

「……ええ。もちろんです」

 回されていた手がわずかに緩み、そっと後ろに視線を向ける。朝比奈さんはかすかに瞳を潤ませ、静かに頷いた。

 先ほどまでの完璧な笑顔とは違う、感情が溢れた美しい笑顔だった。



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