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第12話 沙羅さんは私の想い人―3

第12話 沙羅さんは私の想い人―3


「慧人」

 柊克紀には珍しく低い声色で、部下の名が呼び止められた。

「時間的にも、この辺りが限界だ。後のことは柚ちゃんに任せて、お前も持ち場に着け」

 反論したい気持ちを押し殺しすようにして、沙羅が頷いた。最後に目にした時の、彼女のひたむきな笑顔が頭をよぎる。

「大丈夫さ。しっかり者の小鳥ちゃんのことだ。のっぴきならない事情が出来ただけで、きっとすぐに帰ってくる」

「……はい」

 今はそう、信じるしかない。

 メガネ越しに向けた視線に、沙羅は力なくはにかんで見せた。


   ◇◇◇


「う、ん……?」

 薄く開いた瞼。異様に稼働の遅い頭を感じながら、私は長いか細い息を吐き出す。

 全身にとてつもない倦怠感を覚えながら、自分が今どこかに寝転がっているのだと気づいた。柔らかい。布団だろうか、それともベッドか──。

 ここ……どこ? 私……。

 ぼやけた視界が、次第に鮮明さを取り戻していく。それとともに、脳裏に強烈に最後の記憶がよみがえってきた。そうだ私、タイガ君を探して、階段の方に駆け寄った時に……。

「タ、タイガく……、ッ!?」

 反射的に上体を起こした瞬間、鋭い痛みが頭を襲った。思わず目を伏せたものの、そろりと辺りに視線を馳せる。

「あ……」

 よかった、とっさにそんな言葉が漏れ、身体の強ばりが抜けた。私のすぐ隣で、タイガ君がスヤスヤと心地よさそうに眠っていた。

 改めて、今いる場所をきょろきょろと見回してみる。

「ホテルの部屋、だよね?」

 確かこのタイプの部屋は、貸し切ったフロアの一階から三階下のフロアのどこかだ。ホテルの予約を入れる際に下調べしたため、内装を見ればそれはすぐに分かった。

「あれ?」

 午後からの取材は……どうなった?

 思い至った重大なことに、じわじわと焦燥感が胸を焦がしていく。急いで腕時計に視線を向け、私は息をのんだ。取材開始の時間はもうとっくに過ぎている。

 いまだ頭痛がやまない中、私はむりやりベッドを抜け出た。急いで自分の荷物を探す。部屋の隅々まで視線を巡らせた後、血の気が引いていく。

 鞄が、ない。

 あの鞄の中には今回のプロジェクトの資料や手帳、携帯電話も入っている。どこかで落としたのだろうか。いったいどこで?

 その時、ぼんやりとした頭の中に何者かの声がよみがえってきた。

 冷たく低い、男の声。

 そうだ。タイガ君が倒れてるのを見たと思ったら、誰かに後ろから口を塞がれた。

 え? それじゃあ、もしかして私とタイガ君は……!

 部屋は玄関口に続く扉があり、その先にさらに部屋を出る扉があるはずだ。慌てて立ち上がった私は、玄関口に出るための扉のノブを回した。

「っ、こ、この~……っ」

 ああ、ダメだ。開かない。予想通りだ。

 部屋の扉は、何か堅いものに引っかかって一定以上回ってくれなかった。痺れてしまった手のひらを呆然と見つめる。

 混乱が混乱を呼び、じわじわと身体全体を冷たいものが浸食していく。状況についていけず目眩を覚え、その場にヘたり込んだ。

 いったい、何がどうなって……。

「起きたのか?」

 扉の向こうからかけられた男の声に、私は肩を震わせた。

 ドクドクと嫌な鼓動が、胸を騒がせていく。

「だ、誰ですか……?」

「アンタにゃ悪いが、しばらくここで大人しくしてもらう」

 私の言葉を無視した男は、扉越しに不気味な笑い声を漏らした。

「時間がきたら、アンタもガキも無事に帰す。下手に騒がない限りこちらも危害は加えない」

「え?」

「怪我をさせようってつもりはない、と最初に言っただろう」

 どうやら、男はこちらに入ってくるつもりすらないらしい。

 声に聞き覚えはない。まさか、タイガ君目当ての誘拐なのだろうか。タイガ君を連れ去る現場に私も居合わせ、まとめて監禁されたのかもしれない。

「時間がきたら、というのは……」

「十六時になったら、二人とも解放してやる」

 十六時になったら解放? それじゃあ、犯人のうまみはいったいどこにあるのだろう。

「ここは防音対策が売りらしいから、騒いでも無駄だ。大人が騒ぎ立てて、スヤスヤ眠ってるガキに怖い思いをさせたくないだろ?」

「……!」

 苦虫を噛んだ心地で扉を睨みつける。

 その直後気だるげに腰を上げる気配に、はっと目を見開いた。

「それじゃ、俺はちょっと出てくる」

「……はい?」

「俺も暇じゃないんでな。せいぜい大人しくしとけよ」

 鼻で笑う気配が届いたかと思うと、扉の開閉の後に施錠音が届いた。どうやら本当に部屋を出ていったらしい。

 言葉にしながらすうっと吸い込んだ酸素が、身体にゆっくりと満ちていく。落ち着け。落ち着いて。何が起こってるのかまるで分らないけれどタイガ君は無事だ。大切なインタビューをすっぽかすことになってしまったけれど。

「沙羅さん達がいてくれるから、滞り無くインタビューは始まってるはずだよね」

 うん、と一人頷いた私は座り込んだ腰を上げ、今いる部屋の中を調べ回ってみる。

 ホテル備え付けの電話機は忽然と姿を消していた。室内にあるはずのホテル施設資料も一切見あたらない。もちろん部屋の鍵だって置いてあるはずもなく。

「これじゃあここの部屋番号もわからないや」

 薄暗いままだったカーテンを、タイガ君が起きないように静かに開けた。

 さんさんと降り注ぐ日の光に、少しほっとする。ピンとひらめいた私は、窓に両手をつけ広がる光景をつぶさに観察し始めた。

「ええっと、あそこに見えるのはテレビタワーでしょ? あれはナルベサの観覧車……」

 周囲の地理情報を頭の中から引っ張りだし、ぽんと手を打つ。

 そうか、こっちは南向きの部屋だ!

「……まあ、それがわかったからって部屋番号まで特定は出来ないけど……」

 南向きの部屋なんて、それこそ客室を最も備える方角だろう。

 肩を落とした私は、窓際のイスに腰を下ろした。さてどうしたものか。

「……あれっ」

 飲み水くらいはあったかなとイスから腰を上げようとした時、私は目を見開いた。

 向かい側の壁に設置された鏡。そこに映し出された自分の姿を見てみると──。

「メガネが……ない?」

 あたふたするも、眼鏡は当然見つからずじまいだった。

「眠らされた時にでも落としたのかな……って、あれ?」

 もうひとつ、いつもと違う点に気づく。

「コンタクトも、ない?」

 青い瞳。いつもは家の鏡でしか映さない母譲りのギフトが、はっきり映し出されている。

 まさか、コンタクトも眼鏡と一緒に?

(小鳥さんにとって俺が、友達以上の存在になった時……素顔の瞳を見せて下さい)

(それまではお預けですね)

 ああ、せっかく沙羅さんにああ言ってもらえたのに。

「こんな風に、見てほしくなかったな……」

 無意識にこぼした自分の想いに気づく。

「なんてね」

 無理に笑顔で打ち消してみても、萎む心境をごまか。すことはできなかった


   ◇◇◇


「じゃあ、五歳くらいの子供と入れ替わりにその女性はこの料亭に入っていって、数分後にまた一人で出ていったんですね?」

 ホテル内の食事処のひとつ、料亭『雪の郷』で、高梨柚の声が凛と響いた。

「はい。エレベーターに乗られたと思います。でも何階に向かわれたかまではちょっと」

 苦い顔を浮かべた料亭のレジの女性の隣から、「あ、それなら」と別の女性が言葉を引き継いだ。

「俳優の逢坂さんとお話していた、少し小柄な女性ですよね? あの方なら、二十階に向かわれましたよ」

「本当ですか?」

「ええ。二十のボタンをすごい勢いで押してましたから、よく覚えてます」

 間抜けな姿を見られていたものだ。

 高梨は、容易に思い浮ぶ親友の必死な姿に思わず口元を緩めた。

 頭を下げた後、料亭を後にする。彼女の美しいショートヘアが、涼しげに揺れた。

「二十階はもう、隅々まで探したのに」

 逢坂さんの子供も見当たらない。インタビュー前の逢坂さんの様子から察するに、きっとまた親子喧嘩をしたんだろう。

 もしかして小鳥は、タイガ君のことを追ってどこかへ?

「まったく」

 いったいどこに行ったのよ。バカ小鳥──。

 先ほどまですぐ隣にいた笑顔。それが忽然と姿を消すなんて。

 頭に浮かぶ心配と後悔に胸を詰まらせながら、高梨はエレベーターが目的のフロアに着くのを待った。


   ◇◇◇


「ぐ、ぎぎぎぎ……っ」

 くそう。ダメだ。届かない。

 部屋の中を一通り探索し終えた私は、現在窓の前で目一杯背伸びをしていた。

 目当ては上段に備えられた小さな窓。この階は高いから、転落防止も兼ねて天井近くの小窓しか開かないようになっている。

 別に、開けたから何がどうってわけじゃないが、男が帰る前に何かしら手を打っておいた方がいい気がする。

 イスの上に乗ってもままならない高さにある開閉ハンドルに、思わず眉を寄せる。

「もうっ、小さい人間に優しくない設計め」

 小さく悪態をついた後、腕時計で時刻を確認した。

「十三時五十五分……か」

 十三時から始まる対談形式のインタビューは、十四時と十五時に十分休憩を挟む。

「そろそろ、一回目の休憩の時間だな」

 それも、自分のせいでインタビュー自体がおしゃかになっていなければの話だ。

 補佐とはいえスタッフ一人が姿を消したことは、インタビューを受ける方からすると印象の良いものではないだろう。でも、タイガ君一人が誘拐されるよりは、今の方が百倍ましなはずだ。

 くるりと振り返り、ベッドでいまだに寝息を立てているタイガ君に視線を移す。

 年相応以上にしっかりしているけれど、やっぱり寝顔はまだちゃんと子供だ。胸の中が、じんと温かくなる。

 そう言えば、沙羅さんも、昔に誘拐されたことがあるって言っていた。その話をしてくれたのは、確か戸塚さんから引き継いだ作業を徹夜で処理していた時だった。

(事件はつつがなく解決しましたよ。犯人も無事捕まりました)

 わざわざ、私に話してくれた過去の話。さらりと話しているようだったけれど、きっと大きな心の痛手になったはずで……。

「……よしっ」

 せめてタイガ君には、そんな恐い思いをさせたりするもんか。

 渾身の力を込めて爪先立ちをしたかいがあってか、ようやくプルプル震える指先が窓の開閉ハンドルに届いた。


   ◇◇◇


「加世子さん。肩にゴミがついてましたよ」

「っ、し、失礼しました……!」

 一回目の休憩時間を迎える。

 日下部悟が過保護な女優の母親の肩から小さなゴミを取り上げると、その頬は分かりやすく赤らんだ。

 愛想笑いで流して再び席に着く。悟られない小さなため息を吐くと、辺りに漂うヒマワリの香りが鼻孔をくすぐった。

「日下部先生」

 瞼を閉ざしていた日下部が、その人物の声にだけは素直に反応する。

「何か飲み物はいかがですか。それか一度控え室にお戻りになられても結構ですが」

「いや。ヒマワリに囲まれながらの屋外インタビューも、なかなか斬新でいい」

「恐れ入ります」

 いつも通りのそつない返答。しかしながらその対応が余りに完璧すぎるのは、午後のインタビューが始まってすぐにわかった。

 そして、あの目障りなちびっ子があれから姿を見せない……か。

 二十階のスイートルームのバルコニーで受けているインタビュー。順調に三分の一が終了し、始まった時分は眩しいくらいだった日差しが、緩やかに変わりつつある。

 本当は、俺に構う時間も惜しいくらいなんだろうな。

 それでも、日下部がこのベランダに居座る以上、彼もここに留まらざるを得ない。

 ああ、本当に心地のいい風だ。自身の意地の悪さに気づきながら、日下部は今一度瞼を閉じた。


   ◇◇◇


 ようやく開いたのは、二十センチ程度の細い隙間だった。

「ふむ。意味がなかったか」

 あんな隙間から逃げられるわけがない。出られたとしても落ちて無事でいられる高さじゃない。いや、わかってたんだけども。

 爪先立ちをしていた椅子を降りた私は、そのままその椅子に腰を下ろした。

 でも、ここでへこたれてはいられない。

 タイガ君と逢坂さんと、アリスさんのためにも、家族がすれ違ったまま別れてしまうなんて、あってはならないから。

 そうだよね? ママ。

 気づけば私は、いつもの歌を口ずさんでいた。アメイジング・グレース。ママが大好きだった歌。

 すぐにくじけてしまいそうになる自分自身を支えるように。


   ◇◇◇


「小鳥ちゃん……どこにいっちゃったの?」

 周囲に誰もいないことを確認しつつ、戸塚はひどく情けない声を漏らした。

 先ほど写真撮影のために入れ替わりでインタビューに戻った高梨からも、有力といえる情報は渡されていない。

 午後からのインタビューもそろそろ半分が終わろうとしていた。

 私の新婚旅行をふいにさせないために、小鳥ちゃんは一人ですごく頑張ってくれたんだよね。

 ハワイから帰ったと同時に聞かされた、同じ部署の相川先輩の依願退職。誰からともなく理由を聞くと、どうも小鳥に頼んだ仕事の関係でトラブルを起こしたらしかった。

 でも、あの件については結局、小鳥は何も話そうとしなかった。それが彼女なりの“引き継ぎ”だったのだろうと、心から詫びとともに感謝した。

 いつか、彼女へ恩返しができたらと思っていたのに。

「今度は私も力になりたいよ。小鳥ちゃん」

 大きなため息とともに、廊下の片隅でうなだれる。すると視線の先に、小さな何かが落ちていることに気づいた。

 壊さないようにそっとすくい上げたそれを、戸塚は不思議そうに凝視した。


   ◇◇◇


「もうしばらくで、二回目の休憩に入るところかな」

 十四時四十五分か。解放される十六時まで、あと一時間と十五分。

「まったく、インタビューにこうもばっちりバッティングするなんて……」

 そこまで独りごちて、はっと目を見張った。

 もしかして、犯人は最初からそれを狙ってた? 思い至った考えに心臓が嫌な音を立てるのがわかった。

 だからインタビューの時間帯にスタッフの私を監禁したのか。それなら十六時に解放することにも、ある程度意味合いが見えてくる。

 それじゃあタイガ君は完全に、私の巻き添えを受けて……。

「え?」

 研ぎ澄まされていく思考の中で、かすかに鼻を掠める香りに気づいた。部屋中央のイスに座っていた私は、導かれるように窓の方へと歩みを向ける。

 この、香りは。


   ◇◇◇


「これが、非常階段の近くに?」

 第二休憩に入ってすぐに伝えられた事実に、沙羅は目を剥いた。

「この階の、エレベーターを降りてすぐの所です。柚ちゃんに聞いたんですけど、小鳥ちゃんって」

「ええ。小鳥さんのコンタクトでしょうね」

「そこには、片方だけしか落ちてなかったんですけど」

 話にしか聞いたことがなかったが、ほぼ間違いないだろう。わざわざ黒のコンタクトを入れる人物は他に思い当たらない。

 小鳥は日頃コンタクトをしている。その保護のためのメガネも。そのコンタクトを落として、自分で回収できない事態に陥ってるのだとしたら。

「おい、沙羅君」

 とっさに部屋の外に駆け出そうとした沙羅の歩みは、いまだバルコニーから動こうとしない日下部の声により止められた。

「日下部先生」

「せっかくの休憩時間だ。こちらにきて、一緒に風に当たらないか」

 沙羅は、一瞬表情が堅くなりそうになるのをこらえる。

「君がそこまで動揺しているのは初めて見たな」

 どこまで内情に感付いているのだろう。

 中谷監督には、一回目の休憩の際に彼女の不在について尋ねられた。朝比奈恵と母親は、メインのスタッフではないことからか、彼女の不在を不思議に思っていないらしい。

 逢坂哲史は、息子のタイガの姿が見えないことを気にかけており、休憩ごとにマネージャーに様子を伺っているようだ。彼女の不在も息子が関わっていると思っているらしく、インタビュー直前には謝罪の言葉もあった。

 そしてこの人は、インタビュー開始以降、一度もバルコニーから腰を上げようとしない。

「そこまで大切か。あのちびっ子が」

 どこまでも見透かされそうな瞳が、静かに沙羅をとらえた。

 その瞬間、満天の星を背景に美しい髪を揺らめかせ、幸せそうに夜風に歌う彼女の姿が、沙羅の脳裏によぎる。

「ええ。誰よりも」

「それなら、きっと君は悔しがるだろうな」

 日下部が、どこか楽しそうに告げる。

「必死だった分、君は気づくのが私よりも遅かったらしい」

「先生?」

「前の休憩の時間から、私には“届いて”いたぞ」

 彼の謂わんとすることが、微かに、でも確実に沙羅に伝わった。バルコニーを囲うヒマワリを無造作に避け、呼吸をそっと止める。

 すると耳に届いたのは、焦がれてやまない歌声だった。


   ◇◇◇


「……」

 ああ、駄目だったみたいだ。

 微かに抱いた最後の希望が溶けてなくなるのを感じ、私は小さくため息を落とした。

「十五時十分、かぁ……」

 インタビューが終わり、ここから解放される時間まであと五十分。こうなったら、犯人を刺激しないように無事に解放されるのを待つしかない。

 開けてしまった窓をカーテンでそっと隠し、静かにベッドに近寄る。タイガ君はいまだにすやすや眠っていた。

「大丈夫だからね」

 タイガ君の頬を、優しく撫でる。私のために、タイガ君の傷つけたりさせない。

 その時だった。玄関に続く扉の向こうで、部屋の扉が開く音がする。大げさに肩がびくついたものの、私はすぐさまタイガ君を庇うようにベッドの前に立った。

「よお。どうやら、起きてるみたいだな」

「……はい」

 扉の向こうから聞こえたのは、さっきと同じ男の声だ。

「ガキの方は? まだぐっすりオネムか?」

「この子に怖い思いをさせたら、私が許しませんから」

「ははっ、威勢がいいねぇ」

 相変わらず、男の口調はどこか緊張感に欠けている。今はとにかく、この場を穏便に済ませるしかない。

「これから、あんたにももう一度眠ってもらう」

 言葉の意味を理解するのと同時に、今まで堅く閉ざされていた目の前の扉が開いた。

 そこに立つ男の姿に、私は思わず声を上げそうになる。男の顔には、ピエロのような仰々しい被りものがされていた。

「な、な……っ」

「騒ぐなよ。あんたに顔を見られるなと言われてるんでな」

 目の前の不気味なピエロがにたりと笑った気がして、背筋が冷たくなる。

 一歩、また一歩と近づいてくる男に、腰を抜かしそうになりながらも何とか耐えた。

「また、私を眠らせるんですか」

「ああ。起きたときには元の場所に戻ってる。荷物もちゃんと返してやるさ」

 男の手に、ハンカチが握られてる。睡眠薬だろうか。じりじりと近づいてくる男に、体が微かに震えを増していった。

「へえ、寝かせた時は気づかなかったけど」

「え……え?」

「あんた、瞳が面白い色してんだな。もしかしてハーフか?」

 ピエロの被りものをしていても、楽しげに笑っているのがわかる。

 幼い頃から言われ続けてきたからかいに気がそれた瞬間、男の手がぐいっと私の顎を持ち上げた。

「っ、何を……!」

「だから、騒ぐなって。そこのガキを起こしたくないだろ?」

「……!」

 すぐそこには、タイガ君が眠るベッドがある。

「危害を加えるつもりはないと、言ってませんでしたか……?」

 なるべく平静を装って、問いかける。

「まあ、確かにこの被りものをしていちゃ格好はつかねぇか」

 悟られないように、そっと胸をなで下ろす。

「でもよ。被りものをしてても出来ることだってあるだろ」

 反応する間もなかった。

 両手首を掴まれたかと思うと、そのまま絨毯の上に倒される。不気味なピエロと鼻先がくっつき、ドクッと心臓が大きく打ちつけた。

「や、やめ……っ!」

「少し触るくらい許せよ。減るもんじゃねえだろ」

「……!?」

 何? 一体何を言ってるの、この人は。

 まるで理解できない言動に、ますます意識が遠のいていきそうだった。

「あんなのに顎で使われてたらさ、少しくらいうまみを受けたくなるもんだろ」

「いや……、いやっ!」

「いいから黙れ」

 男の声が急に低くなり、ひゅっと喉が鳴る。

 予想してなかったわけじゃなかった。でもまさか、本当にこんなことになるなんて。

 さっき日下部先生に押し倒されたときとは明らかに違った。男の声が、吐息が、空気が。全てが危険だと頭に響いてる。

 嫌だ。嫌だ。こんなの。自分にまたがる男の手が、服の裾にゆっくり入っていくのを感じ、その潤みもついに決壊した。

「小鳥さん!」

 幻聴かと思った。

 何か大きな音が響き渡った瞬間、目の前を覆っていた男の影が消え失せる。そして私の体は、誰かの腕の中に抱きしめられた。

 痛いほど強く打ちつける胸の鼓動が、誰かのそれと重なる。

「小鳥さん……もう、大丈夫です」

「……あ」

「遅くなって、本当にすみません」

 ああ、やっぱり、来てくれた。

 優しくて、甘い香りに包まれる。

「沙羅、さん……沙羅さん……っ」

「大丈夫です。俺はここにいます」

 夢中ですがりついた胸板に、溢れる涙がしみこんでいく。自分が予想以上にぎりぎりの縁を立っていたのだと、ようやく気づいた。

「あーあーあー。男がへしゃげてるぞ。まーた派手にやっちまって」

「ひ、柊さん?」

 続いて入ってきた柊さんに気づき、かっと体に熱が帯びる。

 とっさに沙羅さんから体を離そうとしたが、その腕の力はなかなか抜けようとしなかった。

「小鳥ちゃん、今は勘弁してやって。慧人の奴、君のことめちゃくちゃ心配してたから」

 向こうで伸びている男の腕を締め上げながら、柊さんがけたけたと笑う。

 すると沙羅さんがようやく顔を上げてくれた。

「怪我は、ありませんか」

「はい。沙羅さんが、来てくれましたから」

「……どうしてですか」

 え? 返事をする前に、沙羅さんはいつになく厳しい面もちで私を見つめた。

「どうして、あんな方法で俺たちに知らせようとしたんですか」

「あ……」

「歌声が届く状況なら、助けてくれと叫んだ方が、よっぽど発見も早かったはずです」

 沙羅さんの言うとおりだ。

 あの時──窓の外から“ある香り”が届いた。つい先ほど嗅いだ覚えのある、ヒマワリの花の香りだ。

 この部屋は、意外とインタビューの部屋と近いのかもしれない。幸い、部屋の窓も細くだが開いている。

 一瞬、すぐに助けを求める言葉を発そうと思った。でも、出来なかった。

「そんな声を上げたら……順調に進んでいるかもしれないインタビューがめちゃめちゃになってしまうと思ったんです」

 その点、歌声ならまだその危険も少ない。どこかの部屋から漏れている歌声だと思えば、そこまで気も散らないだろう。

「それに……誰か助けて、なんて大の大人が叫んでいたら、タイガ君が目を覚まして怖い思いをしてしまいます」

 過去に、沙羅さんが誘拐されたときに、心の傷を残すことになったように。

「すみません。ここにいたのが私じゃなければ、もっとうまく立ち回れたのかもしれないのに」

「小鳥さん……」

「小鳥っ!」

「小鳥ちゃん、無事なの!?」

 部屋に駆け込んできた人物の姿に、今度こそ私と沙羅さんは体を離した。

 次の瞬間、彼とは別の二人の腕に同時に抱きしめられる。

「柚! 戸塚さん!」

「馬鹿! どれだけ心配したと思ってるの!」

「また危ない目に遭ってるんじゃないかって、本当に心配だったんだよ!」

 二人の言葉に、視界がぐにゃりと歪む。

 ぽろぽろと頬を伝う熱い涙は、安堵の涙だった。


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