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第11話 沙羅さんは私の想い人―2

 第11話 沙羅さんは私の想い人―2


「それで? いったい何がどうなってんの」

 野菜ジュースを喉に流し込んだ柚は、昨夜同様、目の前の私にずいっと迫ってきた。

「ど、どどど、どうって……!?」

「あのね。それだけ目を泳がせといて、今更何を誤魔化そうとしてんのよ、アンタは」

「まあまあ柚ちゃん、落ち着いて」

 ホテルのバイキングレストランでの昼食中。女子三人になった瞬間を見計らって、柚と戸塚さんが話を切り出した。

 ちなみに同席の柊さんと沙羅さんは、食後のコーヒーを淹れに席を立っている。

「見てりゃあ分かるよ。馬鹿でも分かるよ。アンタが馬鹿正直ってことは」

「ば、ばかばか……」

「さっき一緒に帰ってきた小鳥ちゃんと沙羅さん、な~んか雰囲気違ったもんねぇ?」

 昨夜と違い、二人はニヤニヤが止まらないらしい。迫りくるスクープ狙いの笑顔に、私は隠しようのないくらいに顔を熱くしていた。

 今夜、沙羅さんに想いを伝えよう。そう決意して沙羅さんにも約束を取り付けた。

 ただそれだけなのに、既に何かをやり遂げたみたいに高揚した心がどうにも収まらない。

 浮かれた自分を振り払うように、私はブンブンとかぶりを振った。

「小鳥さん」

「うっひょあ!?」

 軽く叩かれた肩と優しい囁きに、大きな奇声を上げる。そんな私に、沙羅さんは気にすることなく微笑みを浮かべた。

「驚かせましたね。どうぞ、コーヒーです」

「あ……ありがとう、ございます」

 沙羅さんに淹れてもらったコーヒー、大切に飲まなくちゃ。そっとコーヒーをすすり両手でカップを包みこむ。

「美味しいです。このコーヒー」

「よかったです。とはいえ、小鳥さんの淹れるコーヒーには遠く及びませんけどね」

「そ、そんなことっ!」

 慌てて首を振る私を、沙羅さんはただただ柔らかな眼差しで見つめていた。頬が熱くなるのを感じながら、少しずつコーヒーで喉を潤していった。

 そんな私たちの様子を無言で眺めているいくつもの視線に、私はようやく気づく。

「うん。ひとまず、俺たちはお先に失礼しようか。柚ちゃん、戸塚ちゃん」

「そうですね」

「そうしましょうか」

「え……え?」

 柊さんの突然の言葉に呼応するように、柚と戸塚さんが席を立つ。目を白黒させる私に、柚はちらっと振り返った。

「あとは、若い二人でごゆっくり」

 いや、私と柚は同い年でしょ。突っ込む間もなく、にたりと笑う柚が機嫌良さげに背を向けてしまう。

 結局私と沙羅さんと、湯気を立てたコーヒーたちがレストランの一席に取り残された。

「な、なん……ちょ、待っ」

「小鳥さん、落ち着いて」

「あ……」

 笑みを浮かべる沙羅さんに、口をつぐむ。

「コーヒーコーナーの近くにクッキーもあったんです。良ければどうぞ」

「わあ……」

 焼きたてらしいクッキーは、ほかほかとほんのり湯気が立っていた。差し出されたクッキーを、私はそっとつまみ上げる。

「美味しいです。コーヒーとよく合いますね」

「そうですね。俺もコーヒーを飲む時は、甘いお菓子が欲しい方なので」

「そう、なんですか?」

「実は甘党なんです。どうしてかそう見られないんですけどね」

 どこか照れたようにも見える沙羅さんの表情に、胸がほんのり温かくなっていく。

 男性で、仕事もできて、大人びた艶やかさをも兼ね備えている。そんな彼を見れば、自然と周囲も“甘党”というイメージは持ちづらくなってしまうのかもしれない。

「小鳥さん」

 不意に、包み紙を持つ手が温もりに包まれた。沙羅さんの手だ。気づいた私は、思わず肩を震わせる。

「あ、あの、沙羅さ……っ」

「先ほどの……約束のことなんですが」

 胸の鼓動が脳裏にまで鳴り響いた。勢いで押し切ってしまった自覚のある、あの約束。

 やっぱり、約束はなしにしてほしい、とか?

「ああ、違います。約束を反故にするつもりは決してありません」

 余程顔に出てしまっていたらしい。絶望に包まれた心が、その言葉で再び浮上した。

「小鳥さんは、話したいことがあるって言っていましたね」

「は、はは、はい……っ」

「俺も、小鳥さんにずっと話したかったことが──、」

「あ、いたいた。林プロさん!」

 いつの間にか聞こえなくなっていた周囲の音が、急によみがえってくる。私は反射的に、沙羅さんに触れられていた手を引いた。

「中谷監督の部下の人ですね」

 さっと席を立った沙羅さんに、私も慌ててそれに倣った。スタッフの人がバタバタとこちらに駆け寄ってくる。

「お食事中にすみません、今朝監督がそちらから頂いた打ち合わせ資料なんですが」

 私が渡した資料?

「監督の担当箇所のページが抜け漏れていまして……監督が少々お怒り気味なんですよ」

「えっ」

 告げられた言葉に、私は思考が凍り付いた。

「大変失礼いたしました。今すぐ、謝罪に向かわせていただきます」

「も、申し訳ございません……!」

 私の隣で、沙羅さんが深々と頭を下げた。

 資料作成は、沙羅さんの担当ではないのに──その言葉すら今は不要なものだと悟り、私も深く頭を下げる。

「行きましょう、小鳥さん」

「はいっ、今すぐ……っ」

 え?

 急いで鞄に手を伸ばした瞬間、不意に私は背後を振り返った。

「小鳥さん?」

「す、すみません。今行きます……!」

 今のは気のせいだろうか。

 確かに感じた妙な気配に首を傾げつつ、私はスタッフの人につれられ監督の元に走った。


「この度は誠に申し訳ございませんでした!」

「うんうん。いいからもう顔を上げて」

 けたけた笑う中谷監督に、私は深々と頭を下げた。スタッフ数名がこちらを遠巻きに眺めながら、ことの成り行きを見守っている。

「この度はこちらの不手際で大変失礼いたしました、中谷監督」

「柊さんももういいよ。僕たちの仲じゃない」

 監督のいる部屋へ向かう間、沙羅さんはすぐに電話で柊さんにも連絡を付けていた。

 私たちとほぼ同時にたどりついた柊さんと三人で、監督に詫びを入れる。

「ま、相手に寄ればこうはいかないだろうな。これからは気をつけるようにね」

「はい、本当に申し訳ございませんでした!」

 あっさりと謝罪が済んでしまったことに、逆に胸がざわついてしまう。スタッフの人によると、中谷監督は確かお怒りだったはずだ。

「腹の中では怒ってるんじゃないか、とお考えかな」

 にたりと笑みを浮かべる中谷監督に、言葉を詰まらせてしまう。そんな私を見て、隣に並ぶ柊さんが苦笑を浮かべた。

「監督、いい加減そのからかい癖はやめてくださいって」

「小鳥さん、本当にもう頭を上げていいですよ。これ、中谷監督の恒例イタズラですから」

「こ、恒例?」

「こらこら沙羅君、人聞きが悪いな」

 はっはっは、とお腹を大きく揺らす監督に、私はぽかんと呆気にとられる。

「中谷監督は、可愛い新顔には決まって困った表情をさせて楽しむ癖があるんです」

「どうせスタッフにも、自分が怒ってると思わせるように指示をしていたんでしょ、中谷監督?」

「え……ええっ?」

 沙羅さんと柊さんの説明に、私は間抜けな声を上げてしまった。中谷監督の快活な笑顔と後ろに控えるスタッフの申し訳なさそうな表情を見るに、どうやら真実らしい。

「でも資料のページが飛んでいたのは本当だぞ? ほら、ここのページが抜けてる」

「は、拝見いたします……!」

 差し出された資料は、確かに一部分が紛失していた。

「でもなぁ、すぐさま換えの資料をもらえるとは思っていなかったからな。小鳥ちゃんは想像以上に優秀だねぇ。気に入ったよ」

「いいえっ、ご迷惑をおかけしました!」

「ははっ、それじゃ迷惑ついでに少し肩を揉んでもらったりとか、食事に同伴してもらったりとか~」

「「申し訳ありませんが」」

 冗談混じりに監督が言い終える前に、私の前に二つの人影が立ちはだかった。

「小鳥ちゃんは、俺たち林プロの大事なスタッフの一人なので」

「度が過ぎるとセクハラで訴えますよ、中谷監督」

「ひ、柊さん、沙羅さん……っ?」

 何やら黒いオーラをまとって監督に詰め寄る二人に、私は目を白黒させる。

「はははっ、手厳しいねぇ、小鳥ちゃんの周りの野郎共は」

 ひらひらと手を振る監督をよそに、私は二人に背を押されてその場を後にした。


「だ、大丈夫でしょうか、中谷監督は……?」

「大丈夫ですよ。中谷監督が見たかったのは、小鳥さんの誠実な対応ですから」

「資料の紛失自体には、はなから気にしていなかっただろうからな、あの人は」

「は、はあ……」

 沙羅さんと柊さんが言うのなら、きっと大丈夫なのだろう。中谷監督……少し変わってると思っていたけれど、人としての懐が想像以上に深い人なのかもしれない。

「それにしても、小鳥さんが資料の控えを持ち歩いていたとは思いませんでしたね」

「そーそー。カバンの中から控えを出してきた時は、俺も驚いたなぁ」

「い、いいえ! 一応、念のためにだったんですが」

 以前、戸塚さんの新婚旅行中に起こった小さな事件。大切な資料が紛失したあの時のこともあって、必要そうな資料は極力持ち歩く癖をつけていたのだ。

「お二人とも、本当にすみませんでした!」

「いやいや。俺も資料の確認の時に見落としたわけだからなぁ、連帯責任!」

「いえ、でも私が昨日準備を引き受けたわけですから」

 昨夜の不手際なら完全に私の責任だ。柚たちと飲みに出かける直前に、資料の印刷とホッチキス留めを済ませたはずだったのだから。

「沙羅さんも、本当にすみませんでした!」

「……頭を上げて下さい。俺も、全然平気ですよ」

 沙羅さんは少しの間を空けて笑顔を浮かべた。その手元には、先ほど監督から受け取ったページの抜けた資料がある。

「沙羅さん。もしかして気になることが?」

「いいえ。それより、他の方の資料も一度確認した方がいいでしょうね。そちらも同様に抜け漏れがないとも限りませんから」

「あっ、そ、そうですね!」

 的確な沙羅さんの意見に、私は手帳に書かれた各出演者の昼食場所を確認した。ホテル内の食事処でそれぞれ昼食をとっているのだが、ここからだと朝比奈さんたちのいる料亭が一番近い。

「私、皆さんの資料も確認してきます!」

「それじゃあ俺も一緒に」

「大丈夫です。資料の不備を確認するだけですから」

 すかさず口を開いた沙羅さんに、私は首を横に振った。

「それに……柊さんがさっき言ってくれましたよね。私のことを、林プロの大事なスタッフの一人だって」

 沙羅さんの後ろにいた柊さんも「え?」と目を丸くする。

「今回のプロジェクトを任されたときは、正直私には不相応だと思っていました。私なんかに何が出来るのか……なんて」

「小鳥さん」

「でも」

 優しい沙羅さんの呼びかけを、笑顔で遮る。

「私もこのプロジェクトの一員として、成功させるために出来る限りのことをする覚悟は出来ていますから……!」

 カバンを肩に掛けなおした私は、沙羅さん立ちに顔を上げた。

「だから、私一人でも大丈夫です。万一何かあったら、すぐに連絡しますから……!」

 ぺこりと頭を下げた後、私は再び廊下を駆けだした。

 そんな私の背後で交わされていた沙羅さんと柊さんの神妙な会話は、私の耳には届かなかった。


「いったい、林プロの方は何を考えているのかしら!?」

 向かった先の料亭で、案の定私は厳しい雷に打たれることになった。

「資料作成もまともに出来ないなんて、仕事を何だと思っているの!?」

「誠に申し訳ございません!」

「ま、まあまあ。落ち着いてよママ」

 マネージャーの母親を落ち着かせてくれる朝比奈さんにも、今一度深く頭を下げる。

「朝比奈さんにもご心配をおかけしました!」

「いいえそんな。私が頂いた資料は、特に不備もありませんでしたから」

 ふわりと柔らかく微笑んだ朝比奈さんに、ほんの少し救われた心地になる。

 それほど、マネージャーさんの怒りは凄まじいものだった。とはいえ、言い訳の余地もない。つり上げられる目の前の眉に、縮みそうになる肩を必死に押さえる。

「まったく。だから甘ったれた女性スタッフは使えないと言うのに」

「っ、も、申し訳ございませ……、」

「そんなことはありませんよ、加世子さん」

 低い声が、私たちの張りつめた空気を一蹴した。彼女の背後から姿を現した金髪の長身に、ドキッと心臓が高鳴る。

「現に、女性の貴女がこうしてご立派な女優を育てられている。それだけを見ても、女性を卑下する理由はどこにもありません。でしょう? 加世子さん」

「そ、そんな大したことは……」

 わお。どうやら金髪美形小説家モードが発動中らしい。そして“加世子さん”というのは朝比奈さんのお母さんの名前のようだ。

 怒りのトゲは容易く消え、加世子マネージャーの瞳は既に私を見てはいない。

 さすが日下部先生。清々しいくらいに顔の使い分けがお上手だ。

「堀井さん。私の資料も確認しました。こちらも問題はないようです」

「は、はい。ご確認ありがとうございます、日下部先生……っ」

 若干顔をひきつらせながら私はペコリと頭を下げた。そろりと上げた時には日下部先生が目前に居て、私はますます顔を強ばらせる。

 背後の女性二人に気づかれない立ち位置。ニヤリと笑みを浮かべ、目の前の口が無音で象った文字は。

 ま、ぬ、け、づ、ら。

「……!」

 ガキ大将のような横柄な顔が、私にのみ無遠慮に向けられる。

 反射的に何か口に出そうになったものの、すんでのところで飲み込んだ。

「そうそう。私も午後からのインタビューで確認したいところがあったんですよね。堀井さん、沙羅君がどこにいるかはご存じで?」

「は、はい。今なら林プロの控え室に……」

「それなら私もご一緒しても宜しいですか? 私も午後のインタビューの流れで少し確認させていただきたいので」

「それでは一緒に行きましょう、朝比奈さん」

「私も監督に少々お話がありますので、この辺りで」

 三人が席を立ち、私はぽつんと残される。

「これ以上のミスでうちの子に迷惑をかけることだけは許さないから、そのつもりでね」

「っ、承知しました。誠に申し訳ございませんでした……!」

 料亭の出際、加世子マネージャーから再度釘を刺された私は、何度目か分からない頭を下げて三人を見送った。

 ……だめだめ。落ち込むな、自分。しょぼくれそうになる心を奮い立たせ、再び手帳を見る。

 逢坂さんとタイガ君の昼食の予約したのは、五階の個室レストランだ。午後のインタビュー前に資料の確認をすませなくては。

 何とか表情を整えた私も、その場を早足で後にした。


「タイガ!」

 向かった先の個室レストランに、その声は響いた。

 一時騒然とした店内から、私のいる入り口付近に小さな足音が近づいてくる。

「タイガ君?」

「っ!」

 私の姿に気づいたらしいタイガ君だったが、そのまま私の横をすり抜けていった。目尻に光る涙に、追いかけようとした歩みが反射的に止まる。

 喉に詰まる不安感を覚えながら、私は父親である逢坂さんの個室部屋へと向かった。

「逢坂さん……今、宜しいでしょうか?」

「堀井さんですか。どうぞ」

 凪のように穏やかな口調で促され、私は個室の扉を開けた。中にいる逢坂さんは、携帯電話をじっと見つめ席に腰を下ろしていた。

 机に広がる昼食は二人分とも、さほど手をつけられていないようだった。

「その、タイガ君と、何か……?」

「携帯を見せろと言われました」

 逢坂さんが、か細い自嘲を浮かべる。

「電話は、タイガの目に付かない場所でしていたつもりだったんですが」

「え?」

「どうやら……妻の他の女がいると思われたみたいですね」

(俺、知ってるんだ。父さんが、俺に何か隠し事をしてるって)

 昨日、旧校舎の屋上で交わされたタイガ君との会話。それが今、言葉となって逢坂さんにぶつけられたのだとわかった。

「まさか、息子からそんなことを言われる日が来るとはな」

 背もたれに背中を預けた逢坂さんが、全てを諦めたように天を仰ぐ。

「ダメだな。やっぱり、こんな情けない父親じゃあ」

「おう、さかさん」

「俺だけじゃ……もう、無理だ」

 その時だった。

 過去の引き出しを触れられたような感覚が、頭の片隅に響いたのだ。

 目の前の逢坂さんの姿が、記憶の中の誰かと重なっていく。昨日にかすかに感じたデジャヴよりも、より色濃く。

 あれは確か、私がまだ子供の頃──。

「……!」

 ようやくたどり着いた記憶に、私は息をのんだ。電話にすがるような情けない瞳も、我が子に責め立てられて見えた無力感も、すべてに見覚えがあったのだ。

「ッ、おうさ……っ」

 ピリッ……。

「Hello?」

 一瞬響いた機械音に、逢坂さんはすぐさま反応した。携帯電話を耳に当てた瞬間、瞳がそっと見開かれる。

「……Yeah, I see.」

 逢坂さんの口元にふわりと笑みが咲く。同時に、目元から綺麗な滴がこぼれ落ちた。

「お待たせしてすみません、堀井さん」

「今の電話は……奥様からですよね?」

 自然と紡がれた言葉だった。

 見開かれた逢坂さんの瞳。その中にある真実を見極めたくて、不躾を承知で私はじっとみつめる。

 タイガ君の目に付かないように、逢坂さんは入院中の奥さんと連絡を取っていた。そんなことをする理由は、たった一つしか思いつかなかった。

 そうだとしたら、きっと、タイガ君のお母さんは──。

「……ああ、そうか」

 逢坂さんは、まるで子どものような笑みをこぼした。

「君、本当は瞳は青色なんだな」

 予想外の返答に、今度は私が驚く方だった。

「コンタクトをしているね。メガネ越しだったから、今の今まで分からなかったけれど」

「え、ええっと……」

「だからかな。君と話していると、自然とアリスの顔が浮かんでくる」

「……アリス?」

「タイガの母親だよ」

 もう切れたはずの携帯電話を眺めて、逢坂さんは笑った。

「大丈夫だって、頭ではわかっているんだ。わざわざこの国まできて、名医と言われる医者に頼んだ。だからこそアリスとも話したんだ。タイガには伝えないでおこう、無駄な心配をかける必要はないって」

「逢坂さん」

「それなのに、大切な子供1人だまし通せないなんて……俳優失格だな」

 大切だからこそ、心配をかけたくなくてついた嘘。でもその優しさが今、親子の間をどうしようもなく引き裂いている。

「っ、堀井さん?」

 驚きをはらんだ呼びかけを背に、私はレストランを飛び出した。きっと余計なお世話になるだろう。それでも、このまま傍観者でいられなくて、私はタイガ君の姿を探した。

 お父さんは、貴方を裏切っているわけじゃないよ、タイガ君……!

 まるで、昔の自分の背中を追う心地だった。


 ひとまず、取材のために貸し切っている二十階のフロアに向かう。エレベーターのボタンを連打し、到着すると同時に飛び出した。

 手当たり次第にフロアをぐるりと駆け抜ける。するとすぐそばの階段で、何か小さな物陰が動くのが分かった。

「タイガ君!?」

 逃げられまいと慌てて駆け寄った私は、階段の前までたどり着きその足を止めた。タイガ君は、逃げることなくそこにいたのだ。

 小さな身体が階段にもたれるように、ぐったりと気を失って。

「タ、──っ!?」

 タイガ君、と悲鳴を上げかけたものの、それはかなわなかった。

 誰かに強引に後ろから腕を回され、羽交い締めにされる。反射的に抵抗するも、振り返ろうと捩った身体はいとも容易く封じられた。

 足下で、カシャンと何かが落ちる音がする。

「大人しくしろ」

 低い声がしたかと思うと、妙な臭いのする何かが口元を覆う。息苦しさと同時に襲ってきたのは、強力な睡魔だった。

 意識が……遠く……。

「別に、怪我をさせようってつもりはない」

 せめて、タイガ君だけでも。そう思って伸ばした手は、結局途中で力尽きた。


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