天の川にて
「今日は星がきれいやな」
なんて彼は呟いた。
ここは天の川。
私と彼は二人、あの子を待ち続けている。
かわいいかわいい幼なじみを。
白い息を吐いて私は彼の方を向く。彼のことをずっとこうして見ていた。
あの子なんて待たなければいいのに。待たなければずっとこうして彼を見ていられるのに。
でも、どんなに思おうが、彼はこちらを振り向いてはくれないし、私も彼に声をかけない。
どうしようもなく、愛していたから。
彼もあの子も。
どちらも。
☆☆☆
女の子が居た。私の幼なじみでいつも一緒に遊んでいた。
私より明るくて、私より背が高くて、私より頬がほんのり色づいてて、私より髪が綺麗で、その髪をポニーテールにして束ねているところとか、私と彼との間を取り持つところとか、どこか大人びていて、そんな彼女にどこか私は嫉妬していた。
彼女の方へ彼の目が惹かれているのを、私は気づいていた。
あの子はどんなに彼が愛おしそうに見ていても、気づいてなかった。
何にも彼女は知らなかった。それなのに誰にでも優しくて、私はそんな彼女をたまらなく羨んでいた。
「ひな、遊ぼう」
小学生高学年になった夏休み、そう言って彼女は私の手を引いた。
私は彼女の後ろ。
彼女の前には彼。
ほんのり私から香る初恋の匂い。私はこの頃から彼のことを薄ぼんやりとだけれど、好意を抱いていた気がする。
「今日は、どこに行くん?」
彼女は彼に尋ねた。
「橋」
橋は私達の遊び場になっていた。いつもそこでゴミを見つけては、集めて捨てて、を繰り返していた。
「今日は特別任務や」
彼は息巻いた。
私達はあの頃ヒーローごっこに興じていた。本気で何かを救えると思い込んでいたのだ。そうすることで将来のことや、家族のことなんか関係なく、良い人になれるのだと信じていた。だからゴミを拾い、集め、捨てていた。
子供の記憶なんて曖昧で、誰からゴミ集めが始まったのかは分からない。きっと少しは脚色が加えられているだろうし。
でも橋へ行こうと言い出したのは彼だと確たる真実として記憶している。
因みにこんな話に情が関係なく終わらせるなんてできない。
私は彼が好きなんだもの。変わらず胸の火をしっかりと持っていて、今も思っているのだもの。
「サキは行くよな」
彼は彼女に聞いた。
「もちろん、ひなも行くやろ」
彼女は私に目配せした。
「うん」
こんな関係をずっとずっと、続けていく。私の心はこの頃から諦めがついてしまっていたことも情として胸の火に宿っている。それはちかちかと瞬き、夜空に浮かぶ星のように今も私に示してくる。
川に行くと彼は橋の下の陰に捨てられた段ボール箱を指さした。三人で中身を確認すると、小さな子犬が入っていた。
栗色の短い毛並みに、ビー玉のようなつぶらな瞳を私たちに向けていた。助けてくれ、心の奥底で子犬達は訴えてかけているようだった。だから、当たり前のようにその子犬達を助けた。子供の非力な力だけで、目いっぱい頑張った。
残念ながら、見つけた時に五匹の子犬が段ボールに居たが、その中の二匹は既に冷たくなっていた。がりがりに痩せた二匹の動かない子犬は私達で弔った。橋の下の河川敷にまだその跡は残っているはずだ。一回増水して墓はなくなったものの私が立て直した。ついこないだ、そこに訪れると花が供えられていたから、きっと彼も訪れたのだろう。
他の犬たちは交代で面倒を見ることにして、精一杯世話をした。
子犬のことで後悔があるとしたら、何でもっと早く大人に知らせなかったのか、だけだろう。そうすれば子犬達は死なずに済んだかもしれない。
だが、私達は子どもでそのことを考慮にいれてみれば私達は良いことをしていた。何も悪くはない。犬を我が子のように見て、毎日川に通った。
☆☆☆
生き物の血を見たのはその日が初めてだった。自分が怪我をした血ではない。かと言って、他人が事故を起こし、血を流した訳でもない。命が壊れる血を見たのだ。
ぽっかりとダンボールの中のスペースが空いていた。三匹の子犬のうち一匹がいなくなっていて、血色の痕跡が残っていた。
それは私達が世話をして一週間ぐらいのことだった。
「何で」
彼は真っ青な顔をしていた。何を考えているか、いたか、私達の中のイメージは同じだった。
血の色を見れば簡単に分かる事柄。
今の彼にあの時のことを聞いても苦い顔をしてその話題をかき消すだろう。
「何でいーひんねん」
彼は明滅する子犬の瞳に映る光を見ていた。
「誰かもらっていったんやろ」
彼女はぽっかりと空いた黒い空間を振り払って、彼に告げた。その一言で彼は、一旦は落ち着いた。その時彼女の推測を阻むことを私は言う事はできなかった。
彼らは此処に来た時、中学生の男子とすれ違った際、犬の小さな悲鳴を子供ながらの甘々の思考で隠した。
私はその現実を真正面から捉えていた。彼とも、彼女とも違う事実を胸の火にくべる。
だから彼らが帰った後、子犬の死体を一人、見に行った。
中学生が遊んでいた場所に目星をつけて、そこに訪れる。中学生の姿が見えないのをみると、私は放ってある物体に近づいた。
もてあそばれた小さな命は冷たくなって川べりに捨てられていた。
腹は切り裂かれ、内臓が飛び出ていた。その内蔵もいじくられた跡があり、元々あった場所から捻じ切られ、形が変形している。毛皮が血でぐっしょりと濡れており、苦痛に歪められた顔は目も当てられなかった。
彼らが時折ここらへんで遊んでいた。だから私達がゴミをヒーローごっこをしているのも、見ていたのだろう。この犬のことも。
私は彼らのことを放っておいていた。
悪い癖だ。知っているのに見ないようにした。怖くて本物を見る前にはその事実を受けいれられない。
彼らに立ち向かおうともしなかった。三人で戦おうと言いだしもしない。
中学生と小学生では大きな隔たりがあることを感じていたから。
最初から諦めていた。
「見つかってよかった」
私の無機質な声が響いた。感情の抑揚がない。冷たい心を、目の前の死体をどう見ても揺さぶれなかった。
「あった」
悲しいのに、どれだけ事実を確認しようが心は動かない。
私は子犬だけが犠牲になって安心していたんだろう。
犬だったものは私一人だけで埋めた。元々死んでいた他の子犬の兄弟と一緒に埋めてあげる。
爪に土が入り込み、圧迫する。パンパンになった爪から痛みがにじみ出る。
私は他の二人より、大人にはかなわないこと、こうして守れないこと、仕方ない事を痛烈に感じていた。
爪に押し込めて、言い出しもしない。そのことを感じてしまえば、彼はもう私の好きな彼じゃなくなる。私の好きな彼女でもなくなる。
痛みを感じること。
そんなもの私一人だけでいい。
冷たい私一人で孤独をしっかりと抱きしめて、彼を見ていたい。
ああ、だから私は彼を止められなかったのだろうか。
子ども同士なら、大好きなら追っかけてでも、止めればよかった。
裏で子犬一匹のために泣いていた彼女を思うからこそ、彼女が好きだからこそ、止められなかったのかもしれない。
私はあの頃のまま見ているだけだ。
☆☆☆
橋の下の川は三人の心の涙が反映されているみたいに、大量に流れている。
その景色は私の目に焼きついている。
「犬が、助けな」
私の家に転がり込んだ彼女は傘もさしていなかった。びしょぬれになりながら、どこかの誰かに縋っていた。
私は彼女の必死の瞳にやられ彼女と共に家を飛び出した。その後彼を連れて三人で川へ向かった。
そうして目の前の川の増水を見て言葉を失った。
川の氾濫は中学生にいたぶられたあの犬の死骸を私に思い出させた。色濃くまだあの鉄錆びた血の香りがかすかに鼻腔をくすぐる。
救えると思っちゃいないのに、彼女の瞳にやられて、一緒に走り出したのはいいが、自然の脅威を目の前に私達はどうすることも出来なかった。
立ち尽くしていると、龍のごとく波打つ川に一つの四角い箱がたゆたっているのが見えた。
見間違えるはずはない。
子犬が入った段ボールだ。
どす黒い汚い川面に沿ってどんどん下流への道を辿っていく。
「あかん」あの時、彼女が言い出す前に小さな声でしか言い出せなかった。
こんな声じゃ、届かない。
「あかん。行ったら、死ぬで」
冷たさにどろっとした温もりと踏み越える恐怖が折り重なり、なぜか涙が噴き出した。
無駄な涙の雨が私達の距離を冷やす。
「あの中から、犬の声がする。まだ生きてる。まだ生きてんねん、ひな」
あの声が残ってる。
「大人呼ぶから、待とう」
私の声は空から降る雨に消されていくように小さくなっていた。
「いやや」
「サキ!」
彼の静止を振り切り彼女が駆け出す。
彼女は人一倍優しかった。
彼女は人一倍壊れるのを恐れていた。
彼女は人一倍幼い子供だった。
☆☆☆
小さな息を吐いて、しっとりと彼のことを見る。
今の彼の隣にはぽっかりと一人分の穴が開いていた。
これが私と彼の距離だ。
川の氾濫に乗じて、彼女は川に向かって走った。
そこへ、彼もついていった。彼女を引き戻すために。
あの光景を思い出すたびに私はこの冷えた距離を実感する。
彼と私の空いたこの距離はあの日から埋まらないまま。
一生。
ずっとこのまま。
彼を愛していた。
彼女を愛していた。
でも、彼は彼女を愛し続けている。
今も変わらず、川に心があるのだ。
「今日は星がきれいやな」
彼が呟いた。
白い息を吹きかけ、橋の上から、天井の大きな暗闇の中光る星を眺めた。
そこにいる彼女に手が届きそうなほど、熱い視線を星へ向ける。
そのまま橋から彼はおちてしまいそうなほど儚げだった。
ここは境界線。
生と死が交差した場所。
大きな川岸。
あれから十年は経つ。
それでも私達は彼女が居なくなった川岸で向こう岸に立つ彼女を見ている。
天の川にて。