オルムトの村
翌日。
シャンテが目を覚ますと、ルィ・エパーヤにアルシードはいなかった。
フーロウにいた時もシャンテは日の出よりも早く起き出していたが、アルシードはそれよりももっと早い。オルムトに来てからずっと、朝起きた時にアルシードがいたためしはなかった。
だが、今日はシャンテが寝坊してしまった。
着替えを済ませて、隣のルィ・エパーヤにいる風の双子を呼ぶと、二人はすぐにやってきた。
「姫様、おはようございます」
「姫様、よく眠れましたか?」
いつものように元気があふれる双子を見て、シャンテは自然と微笑む。二人は手際よくシャンテの髪を結い始めた。ついでにうまく着たつもりの服も直されてしまう。
「二人とも、三日間ご苦労だったな。慣れぬ土地での急の婚儀。裏はさぞ大変だっただろう」
「とんでもありません! 姫様のためなら苦などありません!」
「オルムトの皆さんには優しくしていただきました!」
「それに姫様の晴れ姿」
「とてもお美しかったです!」
その後、息を揃えて「あの憎っき男がいなければ!」と叫んだ。
双子はオルムトに来た時からアルシードを敵視しているようだ。それまでの接点はないはずだが、何故かと尋ねると「姫様を奪ったからです!」とこれまた声を揃えて言った。
双子が結っている頭に伝わる感触がいつもと違うのに気づいた。
「いつもと違う結い方だな?」
「口惜しいことですが、姫様は妻となられました」
「髪を流すのは未婚の証。結うは妻の証。ですよ」
「私はずっと結っていたが……」
「姫様は特別です」
双子はそろってため息をついた。
「戦いの邪魔だからと姫様は髪を流されるのを嫌っておられました」
「ですが邪魔にならないよう結うことはできません」
「今まで結い髪にならない範囲でまとめていたんですよ」
「闘神は剣と結ばれたのだと口さがない者までいたんですよ」
「それは初めて聞いたな」
シャンテは苦笑した。
初陣を迎えずして自ら闘神と名乗り、兄を補佐する立場を表明した時もいろいろと陰口を叩かれた。兄が長を継ぐと決めた時も、その後もそうだ。
人の思いと異なることをすると、どうしても反感を買ってしまう。それでもシャンテとムートの意思は変わらなかったし、実力を見せることで認められ、今では陰口を言う者はいなくなった。
だがオルムトでは、当分の間は昔のように陰口が囁かれることになるだろう。シャンテがまだ聞いていないだけで、きっともう囁かれているはずだ。それを気にしていては何もできない。そういうものには、慣れてしまうしかない。
支度をすべて調え、双子を連れてマグ・エパーヤの一つに行くと、アルシードと火の双子、それにオルムトの主要な役割を担う男たちが集まって会議をしていた。
顔を上げたアルシードが鼻を鳴らした。これは戦神の顔だ。
「随分遅いお出ましだな。フーロウでは日が中天に来ねば起きないと見える」
早速皮肉が飛んできた。オルムトの男たちも冷ややか半分嘲笑半分の顔つきをしている。アルシードは中天と言ったが、まだ昼には遠い時間だ。
反射的に食ってかかろうとした風の双子を止めて、シャンテは言った。
「すまなかった。いつもは日の出前に起きるんだが、昨夜はおまえの服を脱がすのに苦労してしまった。なにせ、私は片腕だからな」
しん、とエパーヤが静まりかえった。
シャンテはまったく自覚がなかった。自分がとんでもない爆弾発言をしてしまったことに。
「ひ、姫様……」
ラウラとルルウは顔を赤らめ、オルムトの男たちが顔を引きつらせて長から視線をそらす。アルシードは完全に無表情であったが、黒い耳と尾がぴくぴくと痙攣していた。
「妻の役目としてやらねばならないこととはいえ、あまり慣れないことだったもので……」
「こちらへ来い!」
最後まで言わせず、怒鳴ったアルシードがシャンテの腕をつかんでマグ・エパーヤを飛び出した。近くのルィ・エパーヤに入ってシャンテを睨みつける。
「貴様はなんのつもりだ?!」
「夫を着替えさせるのは妻の役目だと言ったのはおまえだろう。こちらは片腕だし、おまえは泥酔して重たいし、どれだけ苦労したと思っている」
「朝、着た覚えのない服を着ていた理由はわかった。寝所でのことは他言無用という暗黙の常識がおまえに欠落していることもよくわかった」
アルシードは唸るように続ける。
「いいか。人前で二度とあのようなことは言うな」
「あのような、というのは、寝所でのことか?」
「それすらはっきり言ってやらんとわからんか?」
目を怒らせたアルシードに迫られて、シャンテは慌てて頷いた。
「わかった。もう言わない」
しばし疑うようにシャンテを睨んでいたアルシードは、無言のままマグ・エパーヤへ戻っていった。
「……夫婦というのは難しいな」
呟きと共に、銀色の尾が揺れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
少し待ってからマグ・エパーヤへ行くと、会議が続けられていた。何事もなかったかのようにアルシードは無表情の仮面を貼りつけ、他の男たちもうつむきがちだ。広いマグ・エパーヤの端っこで、風の双子が身を寄せ合って縮こまっていた。
「待たせたな。行こうか」
双子がぴょんと立ち上がる。
マグ・エパーヤを出ようとした所で、またもやアルシードに呼び止められた。不機嫌を隠そうともせず唸るように言う。
「どこへ行くつもりだ」
「外だ」
「村から出ることは許さん」
「中なら問題ないだろう」
「散歩をするほど暇を持て余しているのなら、他にやることがあるだろう」
「おまえが娶ったのは闘神だ」
アルシードは舌打ちをした。
「十日後にオルムトの守り神の大祭がある。そこでもう一度婚礼の儀を執り行う」
「守り神へのご挨拶ならば、初日にやっただろう」
そう答えたら、アルシードに舌打ちの上に白い目で見られた。
「オルムトの長の婚礼だぞ。本来ならば十日間かけて盛大に祝わねばならないものを、たった三日間で終わらざるを得なかった。だが守り神の儀だけは簡略することはできん。よって、次の大祭で改めて行う。それまで大人しくしていろ」
「大祭の旨は承知した。だが外には行く。私はオルムトのことを知りたい」
妻は夫に従うもの。
それは心得ていたが、シャンテは闘神としてオルムトに来たのだと自分に言い聞かせていた。嫁いだからには妻としてあらねばならないとわかっていても、己の名に刻んだ「長の剣」と「闘神」はどうしても捨てることができない。
シャンテの気持ちが伝わったわけではないだろうが、アルシードは何度目かの舌打ちの後に「好きにしろ」と言った。
「ただし、案内役をつける。ここに戻るまで、それの言うことに必ず従え」
「わかった」
会議を再開させたアルシードに「外で待つ」と告げて、シャンテと双子は外に出た。
シャンテがオルムトの村を見たのは、これが二度目だ。初日は慌ただしくてゆっくりと見ている暇はなかった。
夏と冬で住処を変えるオルムトの家は、みんなエパーヤだ。どれが誰の家かわかるように、エパーヤには派手な色に染められていたり、大きな模様を描いたりしており、一つとして同じエパーヤはない。
石造りの家のフーロウは、外観が灰色一色だったので、その鮮やかさは目に眩しい。人口はフーロウよりも少ないはずだが、それでも長のエパーヤを中心に数百は群集しているだろう。これほど多くのエパーヤが色鮮やかにひしめき合っている光景はなかなか壮観だ。
その中でも長が住むエパーヤ群には、すべてに金の模様が設えてあった。エパーヤに金を施せるのは長のみ。シャンテが生まれ育った石の家も、長の証として金の布が玄関に飾られていた。
「姫様。オルムトはとても賑やかな所ですね」
「姫様。オルムトはとても鮮やかな所ですね」
エパーヤの間を子供たちが駆け抜け、女性たちが笑いながら立ち話をしたり家事をしたりしている。どこかで戦士たちが訓練でもしているのか、気合いのこもった声と音が聞こえてくる。エパーヤを駆け抜けるように、オルムトの上空に新鮮な風が吹く。
「そうだな。とても活気のある所のようだ。こういう所は苦手か?」
双子はそっと首を振った。圧倒されてしまって、いつもの元気が引っ込んでしまったようだ。
二人がここへ来た日に同じ光景を見ているはずだが、その時は二人の大事な姫様の一大事のことしか頭になく、景色は全く見ていなかったらしい。
アルシードが手配した案内人は遅からずやってきた。
耳と尾は黒。元は黒かったのであろう短く刈り込んだ髪と、形よく整えたひげを真っ白に生やした老人だ。
エパーヤの間からするすると現れた彼は、シャンテの姿を見つけると早足でやってきた。齢は六十を過ぎているように見えるが、背筋はぴんと伸び、足取りも軽い。かつて戦士であったことを容易に感じられた。その老人には左腕がなかった。
「長の婚礼の時にお会いいたしましたな。改めて名乗りましょう。ルマナ・オルムト・クムパドゥ・アルジャーと申します」
老人は張りのある豊かな声で名乗った。
意味はルマナ族のオルムト支族の長の右腕アルジャー。
礼儀に則り、シャンテも名乗り返す。
「ルマナ・フーロウ・クムトア・シュラハディア・シャンテです。オルムトの長アルシードの妻としてこの地へ参りました。こちらは私の従者でラウラとルルウ。あなたが案内役ですね?」
「いかにも。当代随一と謳われる闘神殿のご案内を努めさせていただきます」
孫ほどに年の違うシャンテ相手に、アルジャーは丁寧な物腰で接してくれる。戦士としても大先輩に当たる人物の対応に、シャンテは少し困った表情で返した。
「どうか、オルムトの戦士と接するようにしてください。隻腕のクムパドゥの伝説がなければ、私は二年前に闘神ではなくなっていました」
これを聞いてアルジャーは破顔した。
「その古い二つ名をあなたのようにお若い方が、それも他の支族の方がご存じだとは驚きましたな」
「アミルタ高原のルマナ族で、あなたの武勇を知らぬ者などいません」
アルジャーの二つ名であるクムパドゥとは「長の右腕」という意味だ。戦士として勇猛果敢であり、参謀としても先代、先々代の長を幾度も助け、戦に勝ってきた。
最も有名な逸話がある。彼の兄にして先々代の長が戦で亡くなった後、自分が長につくことはなく、甥に当たる先々代の子を立てて補佐となった。そして自ら戦士として一線から退くと決めたシェン族との闘争で、自身の右腕とアルシードの父である先代までをも失いながらも、オルムトをまとめ上げ、アルシードが後を継ぐまでの数年間を長代理として一族を率いた、というものだ。
片腕を失い、双剣を持てなくなってしまった時、シャンテにも、闘神ではいられなくなってしまうと絶望した時期が少なからずあった。
その時に思い出したのが、子供の頃に兄が聞かせてくれた「隻腕のクムパドゥ」の話だった。
剣を握る腕をなくしても、右腕となるべき存在を失っても、クムパドゥで在り続け、村を守り続けた戦士の話。
双剣は握れなくとも、剣を握る腕はまだ一本残っている。兄とフーロウの守り神の前で誓ったクムトアを守るには、それがあれば十分だと気づくことができた。
「オルムトのことならば、長よりも知り尽くしておりますからな。どこへでもご案内いたしますぞ」
任せろとばかりに、アルジャーは片腕で胸を叩く。
風の双子がぴょんと前に出た。
「おひげのおじい様。私はルマナ・フーロウ・ナウディク・ラウラよ。よろしくお願いいたします」
「真っ白なおじい様。私はルマナ・フーロウ・ナウソアマ・ルルウよ。よろしくお願いいたします」
息も声もぴったり同じ双子の挨拶に、アルジャーは愉快そうに声を上げて笑った。