和睦
兄の突然の決断に、フーロウはムートの長就任以上の紛争が引き起こされた。
使者を受け入れたオルムトでも、騒然となった。
ムートはオルムト支族に、和睦を申し入れたのだ。
フーロウの戦士たちは猛反発した。何百年もの間、アミルタ高原最強の支族は自分たちだと証明するために戦い続けてきたのだ。今更和睦など、考えられるはずもなかった。
当然、オルムトの戦士たちも一笑に付した。フーロウの戦士たちはムートを腰抜けだと非難し、支族の長にあるまじき行為として、退任を要求した。
兄を尊敬するシャンテも、ムートが何を考えて言い出したのか、推し量りかねていた。
どんなに非難を受けようとも、ムートは意見を変えなかった。根気強くフーロウの戦士たちを説得し、何度もオルムトの長に和睦の申し入れをし続けた。
冬の間アミルタ高原から去ってしまうオルムト支族を追いかけて、少数の戦士を率いて山裾まで出向くほどの熱意だった。長自らの危険を顧みない行動に、村人たちは必死で止めようとしたが、ムートは強行した。
日頃物静かで、行動的とはほど遠い性質のムートが、この時だけは人が変わったように積極的に動き回った。それだけ、ムートが本気なのだということを、支族の者たちは否応なく思い知らされた。聡明な長がここまで強行するのには、何か深刻なことが起こっているのか。そう支族の者たちは感じるようになった。
それに根負けしたのか、ムートの和睦に理解を示したのか、雪が解けた春先。アミルタ高原に戻ったオルムト支族から、フーロウ支族に使者が送られてきた。
両支族の中間にある石塔で、話し合おうという内容だった。
オルムト支族からは十名の戦士を連れて長のアルシードが現れた。
同じく、ムートもフーロウ支族の中から十人の戦士を選んで約束の場へ赴いた。
この中にはシャンテもいた。フーロウの戦士たちの中には罠を疑う者もいたが、シャンテは兄を信じていた。和睦の席だからと、随行を辞さない双子の少女も村に置いてきた。
石塔は、その昔、フーロウ支族が崖の上に造ったものだった。元は他の支族との会合の場として使われていたが、支族同士で対立するようになると、フーロウ支族の見張り台として使われるようになった。交流のためであったということもあり、造りはかなり広い。大部屋が三つあり、二階に小部屋と見張りのための展望台がある。
和睦のための会議は一階の大部屋の一室で行われ、両支族の内、五人ずつが長に続き、残りの十人が大部屋の外の通路で待機した。
シャンテは外で待っていた。
片腕をなくして以来一度も会うことのなかったアルシードと石塔の前で再会した時、アルシードは一瞬シャンテを見たものの、すぐに視線を外した。
シャンテも、あえてアルシードと同じ空間にいたくはなかった。
共に外に残ったオルムトの戦士たちは、シャンテの姿をちらちらと見ていた。シャンテは気にしなかったが、フーロウの戦士たちが威嚇を込めて睨むと、すぐに視線はそらされた。
大部屋の入り口には分厚い毛皮がかけられ、中の声ははっきりとは聞こえない。それでも時折、抑制を失った声が外まで漏れてくる。
兄は何を話しているのだろう。
漏れてくる声は、オルムトよりもフーロウの戦士の方が多いような気がした。和睦の話をしているだけのはずだが、声の調子は穏やかとは言い難い。
もし話がこじれたら、武力衝突となる可能性が高い。そうなった場合、兄を守るためにシャンテは真っ先に中に飛び込んでいく覚悟だった。
次第に中の声が大きくなり、ゴンッという一際大きな音が響いた。
シャンテたちは緊張と共に分厚い毛皮を見つめた。
やがて、中からフーロウとオルムトの戦士たちが出て来た。
続いてアルシードが出て来て、初めてまともにシャンテを見た。アルシードは複雑な表情をしていて、何か言いたげにしている。
見れば、他のオルムトの戦士たちも落ち着かない様子でシャンテを見、仲間の戦士たちに小声で話している。その内の一人が慌てた様子で石塔から飛び出して行った。
それはフーロウの戦士たちも同じだった。平静とは言い難い様子で、フーロウの長が出てくるのを待っている。オルムトの戦士と違うのは、不自然なくらいにシャンテを見ようとしないことと、皆一様に黙り込んでいることだ。
最後に出て来たムートは、その場にいる中で、唯一落ち着き払った表情をしていた。
奇妙にざわつく戦士たちを見回して、ムートは最後にシャンテを見た。
「兄上。話し合いはどうなったのですか?」
昔はムートを兄様と呼んでいた。闘神と呼ばれるようになってから、シャンテは外では兄上と呼ぶようになった。
「和睦は成立した。フーロウはオルムトと共に、シェン族と対抗することとなった」
兄は普段人間と呼ぶが、シャンテ以外の人がいる時はシェン族と言っていた。ムートは気難しいと言われがちな顔に、十人中十人が不機嫌だと思う表情のまま、淡々とした口調で言った。
ムートの表情の微妙な変化がわかるシャンテにも、それがあえて作った顔なのか今の感情の表れなのか、すぐには見抜けなかった。端的な言葉で簡潔明快に答える兄が、ほんのわずかに答えるまでの間を空けたことに、少し違和感を感じ取っただけだった。
「それはおめでとうございます」
話はそれだけのはずだった。
続いて兄の口から出た言葉に、シャンテは声を失った。
「和睦の証として、その申し入れをしたフーロウから、闘神をオルムトの戦神に差し出すこととなった」
目を見開いて兄を見つめる妹に、ムートは無表情のまま言い渡した。
「フーロウ支族の長として、フーロウの闘神に命ずる。両支族の友好の証として、オルムト支族が長アルシードに嫁げ」
「なっ?!」
シャンテは絶句した。
事情を聞かされていなかったフーロウの戦士たちも、自分たちの長が何を言ったのか理解できなかった。
「……兄上、どういうことですか」
心の中は激しく動転していた。しかし口から出て来たのは、低く押さえつけられた唸り声だった。
闘神として敵味方から恐れられる己の妹と正面から対峙しながら、ムートは相変わらずの無表情で答えた。
「そのままの意味だ。シャンテ。おまえはオルムトの長に嫁ぐ」
「なぜですか?!」
「先ほど言った言葉を聞いていなかったか。フーロウとオルムトの和睦の証だ」
「兄上! 何を言っているのかわかっているのですか?! 私がいなくなったらフーロウはっ!」
「私から提案したことだ。おまえに拒否する権利はない。オルムトの長に嫁げ」
「兄様っ!!」
シャンテは絶叫した。
ムートは引かない。
フーロウの長と闘神は睨み合った。
闘神であるシャンテの眼光は、戦士の心胆を震え上がらせる迫力であったが、戦士ではないムートの視線もまた、戦士にも勝る凄みがあった。
周りにいたフーロウとオルムトの戦士たちは、シャンテから発せられる怒気に心身を震わせ、それを平然と受け止めるムートに驚愕した。剣の才などなくても、やはり闘神の兄である。
兄妹の睨み合いは、シャンテが視線を外したことにより終わった。外した先でアルシードと目が合う。
シャンテを嫁にと言われた当人であるはずのアルシードは、静動激しい兄妹喧嘩に毒気を抜かれた顔をしていた。怒りの余韻が冷めぬシャンテの視線を受けて、一瞬顔を引きつらせた。
感情の矛先が見つからず、シャンテは怒りのままに石壁を殴りつけた。
練った煉瓦でもない壁が、シャンテの拳を中心にヒビが入った。建てられて何百年も経ち劣化しているとはいえ、壁は硬い石だ。それが、乾いた泥のようにボロボロと崩れ落ちた。
しんと静まり返った空間で、白い少女は肩を怒らせ石塔を飛び出した。
最初に声を出したのは最後まで平常心に見えたムートだった。
「妹が騒がせて申し訳ない」
まるで何事もなかったかのように、アルシードに軽く目礼した。
「いや……」
咄嗟に応えたものの、アルシードはすぐに言葉が続かなかった。
「今の様子では、この話は事前にしていなかったのか」
「先に言えば家出することは目に見えている。気にせず連れていくがいい。嫌がるようなら首に縄をつけてもらっても構わん」
「それはこちらの首が飛ぶだけの暴挙だと思うが……」
冗談だと受け止めたアルシードは苦い顔をして言ったが、ムートは真顔で返した。
「言葉のあやではない。あれは先の会合で双方が合意に達した時点で、オルムトの長の物となった。婚姻に必要な諸々のことは後で行うが、あれはもうフーロウの者ではない」
アルシードは真意を窺うようにムートを見た。
「つまり、怒れる闘神のご機嫌を取ってオルムトに連れていくのは俺の仕事、ということか」
ムートは肯定も否定もしない。その代わりにこう言った。
「長殿。中からは行けぬ。外から登るのが良かろう」
オルムトの戦士たちが動こうとしたのを止めて、アルシードは石塔の外に出た。
フーロウの長は闘神がどこへ行ったのかを知っているようだった。
「中からではなく、外か……」
石塔はフーロウ支族の物。アルシードは見たことはあっても一度も訪れたことはなかった。だから、石塔がどういう構造をしているのかは知らない。
石塔の前には、春を迎えて芽吹き出した山々が広がっていた。
振り返ると、石塔と名付けられた所以である石の塔が三本天に向かって伸びている。石塔をぐるりと回ると崖の上に出た。そこに、石塔の上へ続く石段を見つけた。登っていくと、崖側の石塔に手をついて、少女が立っていた。
山から吹き付ける風が、少女の混じりけのない白の髪を揺らしている。青みを帯びた銀色の耳と尾が風になびく。縁までは一歩分もない。その真下は切り立った崖で、高さは優に百メートルはある。目のくらみそうな高さだが、少女は凜然としていた。
石塔の中では怒りを振りまいていたが、横顔を見る限り、今は怒っているようには見えない。
アルシードは慎重に近づいた。ただし、互いの間合いからは距離を取って立ち止まる。ちょうど、真ん中の石塔にシャンテが、左端の石塔にアルシードが立った。
アルシードが来ていることに気づいているだろうに、シャンテはその素振りを見せない。その横顔からは、闘神の気迫が感じられなかった。
アルシードの目には、今は年相応の少女にしか見えなかった。
シャンテが見ている方へ目を向けると、谷を一望することができた。谷底にフーロウ支族の石の集落も見える。フーロウの長の意思を覆せない以上、最後に故郷を見納めようと思ったのかもしれない。
よく考えれば、戦場で自分と互角に演じ合う闘神としての印象が強いが、この少女はアルシードよりも六歳も年下なのだ。
「おまえは、この条件を知った上で兄上の和睦を受け入れたのか」
白い少女が言った。剣呑さの残る、唸るような声だ。口を開けば闘神の堅苦しさと大人びた印象が強くなる。
「そうだ。フーロウの長は、ただ申し入れをしただけでは、罠と疑われることを危惧したのだろう。その誠意が本物であることの証として、己の妹にしてフーロウ最強の戦士を差し出した」
「おまえ如きが兄様のことを知った風に言うな」
シャンテは再び目を怒らせた。まるで目の前の風景がアルシードであるかのように睨む。
「フーロウとオルムト、共に人間と戦う意思に嘘はあるまいな」
「人間?」
「……シェン族のことだ」
「支族同士で戦い合い、シェン族と戦うための戦力を無駄に奪い合うのは得策ではないというフーロウの長の意見には賛同だ。だから受け入れた」
隻腕の闘神が初めて振り向いた。
「その言葉に偽りあらば、即刻その首を刎ねてやる」
灰色の目は嵐気に荒れ狂う曇天。アルシードには、その激しい渦の中で雷が迸っているかのように見えた。
少女はアルシードの返事を聞くこともなく、一人でさっさと石塔を下りて行ってしまった。
石塔の前に行くと、フーロウの戦士たちもオルムトの戦士たちも中から出てきていた。
フーロウの戦士たちは誰もが気まずい表情で、シャンテを見ようとしない。怒りの矛先を向けられたくないからか、両支族の和睦のために実の兄によって人身御供にされた少女と顔を合わせる度胸がなかったのか。
騎乗したムートは、仏頂面の妹を見て言った。
「二度とフーロウには戻るな。必要な物は揃い次第届けさせる」
ムートの言葉に、シャンテは心胆が凍えるほどの殺気が籠った視線を投げつけた。
だが、兄から窘めるように「シャンテ」と呼ばれて、結局は何も言わないまま、フーロウの戦士たちが離れていくのを見送っていた。
それ以降、オルムト支族の村に着いて、一日目の長の婚姻の宴が終わり、夜、長の寝所でアルシードと二人きりになるまで、シャンテが口を開くことはなかった。