フーロウの闘神②
シャンテが十六になった年の冬。
フーロウの村に、オルムトが攻めてきた。
オルムトは冬になると、彼らが暮らすアミルタ高原を下りて、雪の少ない山裾でひと冬を過ごす。
そのため、長い歴史の中で、冬にオルムトと戦うことは一度もなかった。人間も雪山に攻めてくることはなく、冬というのはアミルタ山脈のルマナ族にとって、ひと時の平和でもあった。
ところが、銀雪の山中を駆け抜けて、オルムトは攻めてきた。
見張りのおかげで事前に察知することができたものの、オルムトの侵攻を食い止めることができたのは、村の目と鼻の先だった。
シャンテは真っ先に飛び出して戦った。
これ以上先に進ませるわけにはいかない。戦意に滾る体から際限なく発せられる熱を余すことなく戦いに注ぎ込み、白い雪上で白い髪を振り乱し、体を躍らせ、雪を赤く染めていった。
奇襲の報を受けた時、兄の指示で、村の要所には戦士を分けて配置していた。正面から攻めてきたオルムトの戦士たちを迎え撃ったのは、フーロウの戦士の三分の一。これはシャンテがいることを踏まえての人数だ。
ムートが警戒していたのは、正面の敵を陽動とした、背後ないし側面からの奇襲。その可能性がある以上、戦力のすべてを正面にぶつけるわけにはいかなかった。
ムートは奇襲に備えて村に残った。護衛もいるし、体の弱かった兄は剣を持たなかったが、弓の腕は戦士に劣らなかったから、シャンテは心配していなかった。
十人と一人を斬ったところで、金色の髪と目、黒い耳と尾の青年が正面に立った。オルムトの長アルシードだ。
アルシードは凶暴に笑って突進してきた。シャンテは双剣を構え直して迎え撃った。
闘神と戦神の戦いはいつも同じ展開だ。
シャンテは身軽さと双剣の手数を持って敵を翻弄し、アルシードは力強く鋭い斬撃で敵を屠る。
シャンテはアルシードの剣をいなし、隙をついて繰り出すが、アルシードの一撃は重く、まともに受ければその衝撃に両手だけでなく全身がしびれる。刹那の斬り合いの中、ほんの一瞬でも動きを止めれば、それが隙となり、死という敗北に直結する。だから、シャンテは決してアルシードの剣を正面から受けない。
剣が一本と二本では手数が違うが、アルシードはものともしない。剣一本でシャンテの双剣を留め、閃光のような鋭さで突きと斬撃を繰り出す。鍛えても太くはならないシャンテの細腕の倍はある筋肉と体格から生まれる一撃は、フーロウの戦士たちでも敵わない。
剛腕なのに鋭敏な戦神の剣捌きに、シャンテはいつも苦戦していた。
だが自分は闘神だ。負けるわけにはいかない。五感を研ぎ澄ませ、雪上での足運びに神経を費やし、双剣を駆使して敵に向かう。
そうして最後には、二人とも互い以外が見えなくなる。
フーロウの戦士として、オルムトの戦士には負けられない。闘神として勝たねばならない。
だがそれ以上に、戦士として己の持てる力、技量のすべてを発揮して最高の戦いができることに、悦びを見出してもいた。
それはアルシードも同じだろう。顔を見ればわかる。闘争心を剥き出しにして、アルシードの体から迸る熱気が炎のように燃え上がっている。
甲高い笛の音が、かすかに届いた。
あれはフーロウの笛だ。どうやら兄の読み通り、正面のオルムトの戦士は陽動。奇襲がかけられたようだ。アルシードにも聞こえたのだろう。表情に一瞬、苛立ちの感情が現れた。だがすぐに消える。勝敗を決定づけるのは、村への奇襲ではないことを知っているからだ。
いよいよ、二人の戦いは最高潮に達しようとしていた。
奇襲が成功すればオルムトの勝ち。失敗すればフーロウの勝ち。
だが、この戦いでシャンテが勝てばフーロウの勝ち。アルシードが勝てばオルムトの勝ち。
戦いの決着は、二か所で行われていた。
シャンテにはアルシードしか見えていなかった。
ムートは奇襲を予想していた。兄とフーロウの戦士たちならば、奇襲など簡単に蹴散らせる。すべては、この戦いにかかっているのだ。周りの両戦士たちも、戦いの手を止めて固唾をのんで見守っていた。
ところが、なんの拍子か、シャンテの視界にアルシード以外のものが飛び込んできた。
シャンテはフーロウの村を背に戦い、アルシードの背には、村を囲む壁のようにそびえる山がある。
その山の中腹に、人がいた。
初めは、オルムトの奇襲に別働隊がいたのかと思った。それにしては数が少なすぎる。この時点で加勢しようとしないのもおかしい。
次に、その人が何かを手に持っていることに気づいた。わずかな晴れ間に光ったそれは、剣ではなく矢尻。そしてその人が着ている服は、フーロウでもオルムトの戦士の服でもない。硬質な鎧。
最後に、その人の弓が向いている方角。自分に、いや、シャンテとアルシードに向けられている。どちらかまではわからない。ただ、今の体勢のまま戦えば、間違いなく背を向けているアルシードが狙われるだろう。
アルシードの剛剣を躱す一瞬で、そのすべてを見て取った。
それを、仲間に知らせる時間も余裕もなかった。
矢が放たれる。
シャンテは何も考えられなかった。
頭が真っ白に満たされたまま体は勝手に動き、大きく踏み込んで剣を振り回した。
今までの戦いからは信じられない大雑把で隙だらけの動きに、アルシードは驚きと怒りの表情で辛うじて躱す。シャンテの剣がアルシードの顔を裂き、血が噴き出した。
二人の立ち位置が変わった。
アルシードの反撃がシャンテの左腕を斬り飛ばすのと、何者かによって放たれた矢がシャンテの肩に突き刺さったのは、同時だった。
激痛に目が眩む。かっと熱くなった体とは反対に、全身から冷汗が噴出した。身体から力が抜け、鮮血に染まる雪の上に膝をついた。
シャンテを見下ろしたアルシードは、戦いの最中から一転、無表情だった。
そのままに剣を振り上げる。
シャンテの首を取るべく振り降ろされた剣は、飛来した矢によって阻止された。
村から飛び出してきたムートが二の矢を番えてアルシードを狙っていた。戦士ではない兄が、恐ろしいほどに殺気の籠った視線で、アルシードを射抜いていた。
オルムトの奇襲は失敗に終わった。
鼻を鳴らしたアルシードは、腕から血を流すシャンテを一瞥して、オルムトの戦士たちと共に撤退していった。
倒れたシャンテはすぐに村に運ばれ、治療が施された。
肩に射られた矢は毒矢だった。
全身に回った毒と、切り落とされた腕の痛みと失血により、シャンテは死にかけた。
毒と痛みに耐えながら昏々と眠り続け、目が覚めたのは十日後。
シャンテはかろうじて死ななかった。
その代わり、左腕を失った。
双剣の使い手であるシャンテの片腕がないということは、もう二度と二振りの剣を持てないということだ。誰もが、闘神は失われたと思った。
シャンテはそうは思わなかった。周りが思うほど落胆していなかった。
普通の戦士はみんな一本の剣で戦っているのだ。宿敵アルシードも剣一本でシャンテと互角に戦っていた。条件が同じになっただけのこと。
心の中に残ったのは、絶望とは程遠い感情だった。
起き上がれるようになるまでの間、シャンテはずっと考え続けていた。
誰が、シャンテとアルシードに向かって矢を射たのか。
なぜ、自分は敵であるはずのアルシードを助けてしまったのか。
謎の弓使いはシャンテに矢を射た後すぐに逃亡した。しかしムートの素早い指示により弓使いは捕らえられた。その男は人間だった。
兄からそれを伝えられた時、シャンテは幼い頃に兄に聞かされた話を思い出していた。
人間は毒を盛る。
人間は卑怯な手を使ってでも勝とうとする。
ムートは自分の推測を語った。長年ルフィメア半島への道を阻むフーロウとオルムトの存在を疎んだ国の人間が、片方だけでも潰そうとしたのではないかと。
フーロウとオルムトの最も強い戦士を、どちらかだけでも亡き者にすることができれば、必ず両支族の勝敗が決する。人間にしてみれば、自分が傷つくことなく、手強い敵が片方倒れることになる。
もう一つの答えが出ないまま、シャンテは床を払った。
ムートも他の戦士たちも、傷が完全に癒えるまで休めと言ったが、シャンテは聞かなかった。まだ血の滲む体に無理をおして剣を持った。
村人たちはシャンテを止めようとしたが、ムートだけは違った。
シャンテの決意を見て、兄はシャンテに付き人を与えた。
風の名を持つ双子の少女だった。
双子は父の代から側近だった男の子供で、シャンテとも子供の頃から姉妹のように一緒に育った。シャンテほどの力はないが、剣技は同年の子供たちの中でも飛び抜けていた。
ムートは片腕をなくしたシャンテの生活を支えるための付き人だと説明したが、本当は護衛であることは誰の目にも明らかだった。
シャンテも兄の思惑には気づいていたが、反対はしなかった。何より、双子の少女がシャンテに懐いて、すぐに欠かせない存在となってしまった。
体が完全に快復するのに一か月もかかった。
片手だけの生活と、剣一本の戦い方を身に着けるのに、さらに三か月かかった。剣を一本しか持てなくなっても、変わらずシャンテの腰には二振りの剣があった。片方を外すと、どうしても体が落ち着かなかったのだ。
兄の許しが出たのは半年後。死に瀕した戦いからわずか半年で、シャンテは戦場に復帰した。その時には双子も随行した。
支族内外の戦士たちの危惧と思惑をよそに、シャンテは左腕を失う前と変わらぬ戦いぶりを見せた。むしろ、鬼気迫る姿はそれ以上のものであった。
ただ、兄の意志なのか、冬の戦い以来、アルシードと戦うことは一度もなかった。
二年後の、シャンテ十八の年。
ムートは前代未聞の行動に出た。
そしてそれは、シャンテの一生をも大きく変えてしまった。