戦神
大祭が終わった後も、シャンテは時折、崖の花畑へ行っていた。
道の往復にはシャムシーの護衛が付くという条件はあったものの、フーロウにいた頃のように、落ち着いて修行ができるのはありがたかった。
その平穏が乱されたのは、三回目に来た時だった。
花畑に来ると最初にアルシードの妹メアナの墓参りをする。それから花畑の中央に立って剣を抜く。呼吸を整えようとしたシャンテは、顔をしかめた。
花畑に侵入者が現れた。
シャムシーではない。やたらと存在感はあるのに妙に慎重な足取りで、殺気もなければ気配の消し方も中途半端。今までになく異様に気持ちの悪い接近だった。
「私は一人で、と言ったはずだぞ」
振り返りもせず、シャンテは言った。
花畑の入り口に、アルシードが立っていた。
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大祭の数日前。
大叔父であるアルジャーが、彼の孫のシャムシーに、シャンテを崖の花畑へ連れて行かせたと報告をしてきた。
それを聞いて、アルシードは剣呑な表情を大叔父に向けた。
そこは妹の眠る場所だ。他人に踏み込まれるのだけは許せない。
「そう睨みなさんな、長よ」
老戦士アルジャーが人を食ったように言う。
シャンテを案内した時は物腰の柔らかな老人という風であったが、それは客人用。この人物は根っからの戦士だ。相手が戦士なら、かつて名を馳せた戦士としての顔が無性に出る。老いたとはいえ、今でも若い者相手には負けない指導役でもあった。
「他にもあっただろう。よにもよって何故あそこを教えた」
「闘神殿は長の妻だ。伴侶であり家族だ。いずれは教えることになる」
「だとしても、今でなくてよかったはずだ」
「あれは花畑を荒らすような御仁じゃない。メアナも兄の結婚相手を見られて喜んでいるだろう」
「何故そう言い切れる」
「一度会って話せばわかるさ。一般的な妻にゃ当てはまらんが、戦神の伴侶なら、闘神がお似合いだろう」
「俺があれを選んだわけではない。和睦の証としてフーロウの長に押しつけられただけだ」
憮然とした表情のアルシードを見て、アルジャーはにやりと笑った。
「眼中にない相手ならはっきり断るだろう。おまえなら。和睦だってこっちには差し迫って理由はなかった」
「…………」
「それに、おまえには支族の娘たちが幾人も候補に挙がっていた。前々からな。それを差し置いて闘神殿と結婚した理由は何だ? ん?」
「…………」
アルシードは沈黙を守った。
幼い頃からのことで、人を食ったような顔をしている時、この老人に何を言っても、いいように解釈されてしまうのだ。しかしアルジャーは益々笑う。
「否定しねえってことは図星だな?」
「しばらくは戦士の育成に力を入れたいと思っていたから和睦を受け入れただけだ。今のままでは戦士の数も練度も足りない。このままではシェン族と戦うことも危うくなりかねん」
アルシードは話を強引にすり替えた。
そうは言っても、オルムトが弱体化しているというわけではない。十分に警戒しなければ、どんな手を使ってくるかわからないのがシェン族だ。十年前のイオヌ支族の事件は、未だに記憶に強く残っている。
二人が話していたのは、マグ・エパーヤの一つ奥のルィ・エパーヤだった。個人的に話す時は、アルシードはこちらを使っていた。今、この場には二人しかいない。
アルジャーは表情を改めた。
冬の間はアミルタ高原を降りて麓で暮らすオルムトは、実は最も多くシェン族と戦っている。戦いも、夏よりも冬の方が多いくらいだ。それなのに、この冬は一度きりで、それも激しい戦闘になる前にシェン族は引き上げていった。その後、襲撃がないままアミルタ高原に戻った時には、皆が狐につままれたような気分になったものだ。
「やつら、そのうちに妙な手で仕掛けてくるかもしれん」
アルジャーの意見には、アルシードも賛成だ。
ルマナ族と違って、シェン族は平気で卑怯な手を使う。今回は来なかったからと言って、アミルタ高原侵略を諦めたと思うのは大間違いだ。冬の襲撃の少なさは、何か企みがあると考えた方が自然だった。
その点、フーロウと和睦を結んだことは、夏の間に限ればオルムトにとって有益だった。アミルタ高原にいる間は、オルムトよりもフーロウの方がシェン族に近い。シェン族が妙な手段を使ってきても、最初に受けるのはフーロウだ。
(闘神を失ったフーロウに、果たしてシェン族に対抗できるだけの戦力があるのかどうか……)
自分よりも年上の、戦士になるよりも寝ていた方が良さそうな顔色のフーロウの長を思い出す。
フーロウの長と闘神が、両親が同じ実の兄妹だと知った時には驚いたものだ。造形も毛色もまったく違うのだ。フーロウの先代、先々代を知るアルジャーの話でも、フーロウの長の血族の中で、シャンテだけが特別変わって生まれたと言っていいようだ。
アルシードもそうだ。代々黒い毛色のオルムトの中で、アルシードは金の髪と目を持って生まれた。希に現れる強い力を持つルマナは、たいてい血族と異なる毛色を持つ。これが先祖返りなら、フーロウの先祖に銀の毛色を持ったルマナがいたに違いない。
惜しむらくは、美しい容貌を持って生まれたのにも関わらず、女らしさが欠片もない所か。ルマナ族でも類い希なあの見目を持ちながら、なんとももったいない話だ。
(左腕を失ってしまったことも……)
そこまで考えて、アルシードは我に返った。
シェン族への対策を話していたはずなのに、なぜあの女のことを考えているのか。
黙り込んでいたアルシードを見て、アルジャーは膝を打って立ち上がった。
「そんなに気になるなら、一度見に行ってみるといい」
「問答無用で斬られるのがおちだ」
「ほほう? ま、行ってみなけりゃわかるまい。案外斬り合いにはならんかもしれんぜ?」
「そんなもの……」
アルシードははっとして顔を上げた。
シャンテのことを考えていたとは一言も言っていない。老戦士に一杯食わされたと気づいたのは、アルジャーがエパーヤを出て行った後のことだった。
大祭までの間、シャンテは二度花畑へ行ったようだが、アルシードは特に何もしなかった。
気が変わったのは、大祭の時だ。
「アルシード。おまえに特等席で見せてやる」
大祭で最も大事な風の舞の舞手が怪我をしたことは報告を受けていた。その娘とシャンテが親しくしており、風の双子を使って娘を治療していることも。それ以外にも何か企んでいるらしいことも知っていた。しかし、アルシードは止めるどころか後押しをするような真似をした。
単なる気まぐれであったはずだ。
オルムトに来て二週間余り。まだ闘神を疑う者がいる中で、この女が何をするつもりなのか。それを見届けようと思っただけだ。
正直、風の舞は覚えていない。闘神の舞があまりにも強烈に目に焼き付いてしまったから。
シャンテの剣舞は美しかった。己が斬り飛ばしたはずの左腕が幻の如く見えてしまうほどに。
大祭が終わっても、あの時の姿が何度も思い返されて消えてくれなかった。
その日、シャンテがシャムシーと一緒に村を出たという報告を受けて、アルシードはエパーヤを出た。付いてこようとした火の双子を残し、崖の花畑へ急ぐ。崖の入り口でシャムシーと会った。
「あの女は一人か」
「はい。ですが、誰も来ないように言われています」
「知っている。長の命令だ。見なかったことにしろ」
シャムシーはためらったが、睨むと何も言わずに引き下がった。
崖の細道を慎重に進む。花畑は見えたが白い少女の姿がない。いや、崖の傍にしゃがみ込んでいた。
(あれはメアナの……)
アルシードは花畑の入り口で足を止めた。
シャンテが立ち上がり、花畑の中で剣を抜く。
アルシードが一歩踏み出そうとした時、それを制するかのように声が飛んできた。
「私は一人で、と言ったはずだぞ」
氷雪のように鋭い険を含んだ声。フーロウの闘神と戦っている時のことを思い起こさせた。
「何の用だ」
そう言うシャンテはまだ背を向けている。
口を開けてから、アルシードは言葉を用意していなかったことに気がついた。シャンテが花畑に向かったと聞いたから来た。特段用事があったわけでもない。
沈黙にしびれを切らしたのか、シャンテが振り返った。白銀の毛並みが陽光を浴びて輝き、嵐の最中のような瞳がアルシードを射貫く。
久しぶりに闘神の目を見た気がした。
随分長くシャンテを見ていなかったようだ。
二年前にアルシードがその片腕を奪って以来、戦場では会わずじまいだった。その間にもオルムトとフーロウの戦いはあったものの、闘神が出たと聞いて駆けつけると、いつも狙ったかのように行き違いになっていた。
和平交渉のために石塔で再会した時は、二年の間に一段と美しく成長したその姿を見たものの、すぐに目を背けてしまった。
(いや、見ようとしなかったのは俺か……)
自分が奪ったシャンテの左腕が目に入ってしまったからだ。自分が損ねた少女の姿から、咄嗟に視線を逸らした。
まともに相対したのは石塔の上だ。あの時、吹きつける風の中で凜として立つ闘神の少女を、美しいと思った。
「わざわざ邪魔をしに来たのか」
シャンテが再度きつい口調で言う。このままでは本当に斬られかねない。
「あの舞をもう一度見せてくれないか」
焦った末に口をついて出たのは、そんな言葉だった。
シャンテの耳がぴくりと動く。
「大祭の時の剣舞だ。できないのか」
「何故おまえに見せてやらねばならん」
「俺が見たいからだ」
「何故かと言っている」
「おまえが美しかったから」
銀色の耳と尾が大きく跳ね上がった。シャンテはまた背を向けてしまったが、耳と尾がぴくぴくと動いているのは丸見えだ。
「お、おまえはふざけているのか?!」
シャンテの声が裏返っている。
それを聞いて、何故か逆にアルシードの心が落ち着いた。
「ふざけてなどいない」
「あ、あれは友のために舞ったんだ!」
「では俺のために舞え」
「ふざけるな!」
アルシードは目を見張った。
珍しいものを見た。シャンテが感情を露わにする姿など、石塔での兄妹喧嘩でしか見たことがない。
戦場ではアルシードが感情を剥き出しにして剣を振るい、シャンテはそれを冷徹に受け流す。それが常であった。
逆に、村ではアルシードはあまり声を荒げない。案外、今の姿が闘神の素なのかもしれない。
アルシードは諦めずに続けた。
「おまえの舞う姿がもう一度見たい」
「嫌だ」
「おまえの修行でも構わない」
「断る」
「ならば俺がここにいることは忘れて修行を続けろ」
「ここに居座るつもりか?!」
銀色の毛を逆立ててシャンテが振り向く。頬に赤みが差し、ほんの少し目が濡れている気がするが、気迫と眼光は闘神のそれだ。割と本気の殺気も漏れている。
(フーロウの長はあの病人のようななりで、よくこれを正面から受けて平然としていたな)
今更ながら、戦事以外で初めてフーロウの長に感心した。
アルシードは花畑に足を踏み入れた。
シャンテが後退る。そちらへは進まず、外縁に沿って妹の墓まで行き、長く来なかったことを心の中で詫びる。そして入り口に戻ると、崖にもたれて腕を組み、シャンテを見た。
アルシードの一挙手一投足を見つめていたシャンテは、なおもアルシードを睨んでいたが、動く気配がないとわかると、小さくため息をついた。
「一度だけだからな。見たら即刻去れ」
と、念を押して剣を構え直す。
シャンテは大祭の時と同じ舞を舞った。
あの時と違うのは、石の舞台が花の絨毯に変わり、飾り気の欠片もない衣装に身を包み、表情と剣先にはち切れんばかりの怒気がまざまざと表れていることだ。
大祭の時よりも動きも激しい。それなのに、足下の花は一つも散らない。花から生まれ出たようにしなやかに跳び、風と共に剣が舞う。
アルシードはその光景をずっと見ていた。
舞が終わってもなかなか去らないアルシードに業を煮やして、シャンテは先に帰ってしまった。