闘神の剣舞
舞台前の草原は、丈の長い草が刈り取られ、敷物が数列に敷かれていた。
オルムトの人々が全員集まるのだとしたら、これだけでは足りない。敷物に座れなかった人は草の上に座るか立って見るのだろう。
シャンテとアルシードは一番前の中央の敷物に通された。
座ってすぐに、シャンテはアルシードに言った。
「マサラ殿にご挨拶したいのだが、行ってもいいだろうか」
アルシードは眉間にしわを寄せたが、「儀式が始まる前には戻れ」と答えた。
シャンテは礼を言って、ラウラとルルウを連れて祭壇脇のエパーヤに向かった。
「これは闘神殿」
エパーヤの外に、アルジャーとシャムシーが立っていた。アルジャーは大祭全体を取り仕切る責任者で、シャムシーは祭壇と巫女の警護をしている。
その二人の表情が硬い。
シャンテは嫌な予感がして、二人に話しかけた。
「マサラ殿にご挨拶をと思ったのですが、何かあったのですか?」
二人はシャンテに一礼したが、話すのをためらっていた。しかし最後にはアルジャーが頷き、シャムシーが教えてくれた。
「それが、舞手の一人が怪我をしてしまして……」
「まさか、エフィアですか?」
「ご存じでしたか」
アルジャーが険しい顔のまま、エパーヤを見やる。
「今、マサラが付いとるのですが、どうにもよくない状況でしてな」
「怪我はひどいのですか?」
「大怪我というわけではありません。しかし足首を痛めてしまったようでしてな。ご存じの通り、彼女は最後に最も重要なお役目を任されています。今のままでは難しいと、先程マサラから報告を受けた所なのです」
シャンテは少し考えてから、二人に願い出た。
「もし可能であれば、今、エフィアに会えますか?」
「少々お待ちを」
アルジャーが外からエパーヤに呼びかける。
程なくして出てきたマサラは、シャンテの姿を見て目を丸くした。マサラは男二人以上に暗い表情をしていた。しかし巫女頭として毅然とした瞳は衰えていない。
「マサラ殿、本日はよろしくお願いいたします。今、アルジャー殿からエフィアのことをお聞きしたのですが、ご迷惑でなければエフィアに会ってもよろしいでしょうか?」
「いえ……、そうですね、会ってやっていただけますか? 本人もひどく取り乱しておりますが、よろしければ」
「お願いします」
マサラは厳しい表情の中に、憔悴と苦悩の念を滲ませていた。
「稽古のしすぎで体調を崩すことは誰にでもあります。ここ数日、顔色も悪いし動きもぎこちなくて、私は何度も休むように言ったのです。ですが、あの子は無理を重ねました。昨日足をくじいたそうなのですが、私たちに心配をかけまいと黙っていたせいで、今日になってひどく悪化してしまって……」
今日舞うことはできないだろう、とマサラは深いため息をついた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
シャンテはエパーヤに入った。続いてラウラとルルウも入る。
エパーヤの奥で、エフィアは泣いていた。
「どうしよう、せっかくお役目をいただいたのに……。大事なお役目が、私のせいで……!」
周りに付き添っている少女たちが慰めているが、エフィアの涙は止まらない。
「エフィア」
顔を上げたエフィアの目から、大粒の涙が零れた。
「ああ、シャンテ様。私、大変なことをしてしまいました。もう舞えません!」
「エフィア、まずは落ち着こう。足を見てもいいか?」
頷くのを見て、シャンテは屈んだ。
椅子に座るエフィアの足を覗き込む。
左足に包帯が当てられているが、それでもわかるほど、足首が大きく腫れている。包帯をとれば、皮膚が変色しているだろう。
「怪我をしたのは左だけ?」
「は、はい。でも……」
「エフィアが大切な役目を一生懸命果たそうとしていたことは、みんなが知っている。でも、起きてしまったことをこれ以上悔やんではいけないよ」
後から入って来たマサラに、シャンテは尋ねた。
「最後の風の舞はエフィア以外に舞える者はいないのですか?」
「はい。稽古をさせたのはエフィア一人だけですし、他の巫女や舞手たちにもそれぞれ役目がございますから。ですが、このようになった以上は、今年の風の舞は……」
エフィアが膝の上で震える手を強く握りしめた。
シャンテは立ち上がった。
「マサラ殿。エフィアに舞うなと言いますか?」
エフィアが短く悲鳴を上げる。
マサラは苦悩の色を濃くしながらも、はっきりと頷いた。
「ここでさらに負担をかければ、エフィアの足に後遺症が残るやもしれません。そんなことになれば、一生後悔するでしょう」
マサラはエフィアに厳しいが、それは嫌っていたからではない。目をかけていたからこそ、厳しくしていたのだ。
エフィア以外で、この場の誰よりもエフィアの怪我に心を痛めているのはマサラだ。
様々な可能性を考えた上で、マサラはそう判断したはずだ。
しかし、シャンテはあえて言った。
「でも、本当はエフィアに舞ってほしい?」
「当たり前です!」
マサラが声を荒げた。
「この子の努力を、私は一番間近で見て来たのです! この子と母親がオルムトに逃れてきた時、世話をしたのは私です。母親が亡くなった後、この子の後見人となったのも私。この晴れ舞台に立たせてあげられないことがどれほどの苦しみか、あなたにはわかりますまい!」
エフィアはうつむいてしゃくりあげた。
ラウラとルルウがそっとエフィアの背中をさする。
「エフィア」
シャンテは振り返って言った。
「マサラ殿はあなたを思って舞台に立つなと言う。でもエフィア自身はどうなんだ。さっき、もう舞えないと言ったな。本当に舞えないのか? それとも舞いたくないのか?」
「舞いたい!」
エフィアは叫んだ。
「できることなら舞いたいです! オルムトの皆様に、マサラ様に、私がご恩をお返しできるのはこれしかありません!」
シャンテはエフィアの目を見て微笑んだ。
「ならば舞いなさい。あなたの思いを伝えるために。そのためなら、私も全力で力を貸そう」
マサラが血相を変えた。
「シャ、シャンテ様! 何を仰っているのですか!」
「応急的にならば、痛みを和らげて立つこともできる。添え木で固定すれば、さして負担をかけさせずに一度くらいならば舞えるでしょう。私も見たいんです。この舞台で舞う、エフィアの姿を」
シャンテはもう一度エフィアを見た。
「エフィア。決めるのはあなただ。舞うか、舞わないか」
エフィアは両手を握りしめた。
上げた顔に、もう新しい涙はない。
「舞います。舞わせてください!」
その眼差しに、シャンテは大きく頷いた。
「ラウラ。道具を一式持ってきなさい。出し惜しみはするな」
「はい!」
ラウラが嬉々としてエパーヤを飛び出す。
外で気を揉んで待っているアルジャーとシャムシーの姿が、めくれ上がった垂れ幕の陰に見えた。
「マサラ殿、丈の長い衣装か布地はありますか? できればエフィアの衣装と同系統の色か柄がいい」
初めは呆気にとられていたマサラも、いざとなると肝が据わっていた。すぐに表情を引き締めて言う。
「エフィアの衣装を作った時に余った布ならばあります。村まで取りに行かねばなりませんが、それでよろしければ」
「お願いします」
「すぐに用意しましょう」
「ルルウ、やれるか?」
「お任せください!」
何をと言わなくても、ルルウは心得て頷く。
「さあ。皆の者! もう時間がありませんよ! 直ちに取りかかりなさい!」
マサラが張りのある声で命じると、にわかにエパーヤの中は活気づいた。
対照的に、エフィアは恐縮してしまっていた。
「あの、シャンテ様……」
勢い込んでいったものの、本当にできるかどうか、自信が持てないのだ。
シャンテはエフィアの両手に自分の片手を重ねた。安心させるように、その手に力を込める。
「境遇は違えど、共に故郷を離れ、オルムトで暮らす身。その中であなたは精一杯生きている。私はそんなエフィアと、エフィアの舞に元気づけられたんだ。今、それをほんの少しお返しするだけ」
エパーヤの外から、「闘神殿」と遠慮がちに呼びかけるアルジャーの声がする。アルシードが呼んでいるのだろう。
「すまない、もう戻らないと」
行こうとして、シャンテは少し逡巡してから言った。
「その、最後に一つだけ、いいだろうか」
「な、なんでしょう?」
「大祭が終わったら、と、友達になってくれないか?」
シャンテの改まった口調に緊張したエフィアは驚いた。
それから憩い込んで「わ、私こそお願いします! 終わった後と言わず、今からでも!」とシャンテの手を握りしめた。
シャンテとエフィアは、互いに微笑みあった。
後をルルウに任せて、シャンテは席に戻った。
席では眉間のしわを最大級に刻んだアルシードが待っていた。敷物は半分以上埋まっている。
「竜巻娘どもはどうした。大祭で妙な真似をしたらオルムトから叩き出すぞ」
心底不機嫌な声だ。
しかしシャンテは胸を張って答える。
「友達の危機は全力で助けるものだろう?」
アルシードは石でも食べたかのような顔をして口を閉じた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
客席がほとんど埋まった頃、エパーヤからマサラと巫女たちが現れ、舞台に上った。
祭壇の前でご神体である巨樹に向かい、一礼をする。左右に巫女たちを従えたマサラは、大祭の祝詞を高らかに読み上げる。朗々とした声が、まるで風に乗ったかのように驚くほど草原に広がった。
その最中にルルウが背をかがめながら戻ってきた。
「姫様。今、ラウラが治療をしています。ですが、痛めた左足を庇って右足も痛めていたようで、治療には時間がかかると」
「ならば間に合わせるまで。最後まで手を尽くしてくれ。それと、マサラ殿に確認してほしいことがある」
言伝を頼まれたルルウはまたすぐにエパーヤへ戻っていった。
マサラの祝詞が終わり、巫女たちが祭壇から降りる。
「何を企んでいる」
「大祭の成功を」
アルシードは怪しんでいるようだが、それ以上聞いてはこなかった。
舞が始まった。
エパーヤから、または客席から舞手が舞台に上がり、次々に舞を披露していく。
客席から行く舞手は、別の集落から来た舞手であるようだ。その都度舞台の両脇に座る男たちが楽器を手に演奏する。
舞手は女だけではなかった。男も舞台に上がり、剣舞を披露する。
二時間ほど経った頃、今度はラウラが戻ってきた。
「姫様。これの次の舞が終わると、最後の風の舞になるそうです」
「エフィアの足は?」
「右足は大丈夫です。左足はもう少し時間がかかります。それに、エフィアもまだ迷っているみたいです」
「舞いたくないと言ったか?」
「いいえ。不安なんだと思います」
「そうか。……マサラ殿に道具は用意してもらえたか?」
「はい。いつでも行けます」
「次の舞が終わったら、行く。二人とも準備を」
「はい」
ラウラは素早くエパーヤに戻った。
舞台では舞が終わり、三人の少女たちが守り神に一礼をしている所だった。振り返って客席にも一礼する。
入れ替わりに、五人の女性が舞台に上がる。
(そういえば、今度は何も言わないな……)
シャンテは隣のアルシードを盗み見た。
ラウラが来たことに気づかないわけがないのに、こちらには目もくれない。時折火の双子が話しかけていたから、エフィアのことを知らないわけではないだろう。
(相談を、した方がよかったのだろうか……)
ふと、シャンテは心配になった。
シャンテは新参者で、オルムトにとっては未だに馴染み切れていない余所者だ。そんな者が自分の村で、しかも守り神の大祭で何の断りもなく勝手なことをしたら、長の顔に泥を塗ることになる。
エフィアのため、引いては大祭を成功させるためと思って独断でやったことだが、シャンテがしようとしていることは、アルシードにとっては迷惑なことにならないだろうか。
迷っている間にも、五人組の舞は進む。
意を決して、シャンテは隣に話しかけた。
「アルシード。あの、だな。さっきあちらのエパーヤで……」
「くだらぬことなら今止めろ」
アルシードは舞台を見たまま言った。
「くだらぬことではない。ただ、おまえに迷惑がかかるのではと……」
「オルムトの守り神ユグエンは迷う者を嫌う。己の意思を貫く者にのみ、風の加護を与える」
シャンテはアルシードの横顔を見た。
「それがオルムトの強さか。……フーロウと少し似ているな」
会話はそれきり途絶えた。
迷いなら、初めからない。
音楽が止んだ。
五人の女性の舞が終わった。
シャンテは真っ直ぐに守り神の巨樹を見上げた。
「アルシード。おまえに特等席で見せてやる」
横から視線を感じたが、シャンテは振り向かなかった。
ラウラとルルウが舞台の両端に駆け上がるのが見えた。楽士たちが驚いている。二人は小太鼓と笛を持ち、同時に音を鳴らした。
シャンテはすっくと立ち上がった。真っ直ぐに舞台を上がり、祭壇の前で守り神に向かって跪く。
客席からどよめきが起こった。
「オルムトの守り神ユグエンに申し上げる。我はルマナ・オルムト・クムトア・シュラハディア・シャンテ。我が闘神の剣を舞として、守り神に奉納し奉る」
シャンテは剣を抜いた。
太陽の光を受けて輝く。
風の双子の演奏が始まった。単調だが一寸の乱れもなく、たった二つの音が優しく溶け合い、心地よい響きとなって草原と空に響き渡る。
その調和の中、シャンテは舞った。
跳ぶ度に、剣を薙ぐ度に、腰や腕の飾り布が軽やかに舞う。大祭のために繕われた衣装は、まるで舞うためであったかのように美しく華やかに舞を彩る。
シャンテはエフィアのように舞の稽古をしたことはない。これはシャンテが剣の修行で幼い頃から骨身に叩き込んできた双剣の型。それをラウラとルルウの奏でる音に合わせて繰り出しているだけだ。
それと気づいた者も知らぬ者も、息をのんで舞台を見つめていた。
隻腕の闘神が舞う。
時に優雅に、時に荒々しく、戦の激しさと血生臭さを彷彿とさせながらも、守り神への祈りが込められた、限りなく純粋で直向きな舞を。
誰もが夢を見た。
闘神の両の腕を。双剣の輝きを。
シャンテは舞いながら誓った。
今まで、兄のためだけに剣を振るってきた。
だがこれからこの剣は、オルムトの人々のために振るおう。
戦神と共に立ち、オルムトとアミルタ高原を守ろう。
それが、今のシャンテにできる精一杯のこと。
そしてシャンテは祈った。
もし、この舞を見てくれているのなら、どうか泣き止んで。
(あなたの舞を、もう一度見せてくれ)