三月三日(日) 妹が姉に「汚い」と言い放った直後
「一緒じゃないよ。」
姉はこれだけ言うのが精一杯だった。
「汚い」
それは姉が最も恐れている言葉だった。妹の指摘は的確だ。姉はひるんだ。姉が馬鹿にした女達と他の女と自分が五十歩百歩だということは誰よりも姉自身がよく分かっていた。言葉が出なかった。そうか、私たちは、馬鹿なんじゃない。努力もせず、人と比べ、だけど人の上に立ちたい。こんな人生じゃない人生もあったはずだと常に考えている。そうだ私は汚い。汚いんだ。
「一緒だよ。見た目ばっかり気にしてさ。勉強した方がいいよ。」
妹は吐き捨てるように言うと風呂を出た。
妹が出た後のユニットバスで姉は一人で泣きそうになった。私だって、そうなりたくてなったわけじゃない。一生懸命なんだ。それなのにどうしてこんなイージーモードの人生を歩みつつある妹にバカにされなくてはいけないの?そもそも私は妹と楽しく話したかっただけなのに、なぜいつのまにかバカにされているの?私は本当に頭が悪いの?
今までの人生で、明らかに姉のほうが妹よりも勉強してきたのだった。少なくとも姉はそう思っていた。姉は自分で勉強して東京の文系の国立の大学に受かった。妹は中学校まで生徒会に明け暮れ、高校から月額四〇万の個人塾に通い、センター試験は散々だったが、結局小論文しかない推薦入試で国立の医学部に合格した。
そして両親は妹の方を誉めそやした。
今の時代、文系なんか行っても仕事、ないよ。妹はしっか稼げるとこに進学したのに。あんた、なんしようと?
姉は親が反対する中、医学部を蹴って自分の行きたい大学に進学した時以来、この事実を受け入れた気でいる。今だってそのつもりだ。しかしいざ妹本人が堂々と医学生面をしているとその考えは揺らいだ。本来その推薦は先生が私に薦めたものだった。学年に一人しかない推薦枠。姉妹ならばどちらかしかもらえないという暗黙の了解があるチャンス。私がそれを選ばなかったから今のあなたの人生があるんじゃない。
背中に残った泡をザバン!と洗い流すと、妹に噛み付くように風呂を上がった。
そして笑顔で噛み付いた。
「面白い話ね、もう一個あるの、してあげるよ。私ね、大学に行って、気がついたの。今まで女子校だったでしょう?だからなんでも自分でできる方がいいって思ってきたじゃない。」
妹は頷いた。
「でもね、大学に行って、気がついたの。男の人はね、女が自分より何かできることなんて期待してないのよ。」
それくらいしか姉に言えることはなかった。上京して姉が気づいてしまったこと。多少の能力差は金銭と見た目で全て簡単にくつがえされてしまうこと。自分は自分が期待した以上に無能であるということ。辛い時人は選ばなかった人生について考えてしまうということ。
妹は無視してパジャマを黙って着始めた。
「かわいい、とか美しい、っていうのは、私たちの努力の全てを一瞬で破壊する凄まじい破壊力を持つものなの。力なの。」
パジャマを着終わった妹はやはりどこか見下すような目で姉を見ながら言った。
「それとこれ、関係無いでしょ?お姉ちゃん何言ってるの?だからって他の女の子をバカにしなくていいでしょ?」
姉の唇は震えた。
「だって私が可愛くないっていうだけでその子たちと同じくらいか、それ以下の能力しかないと思われる事が悔しいのよ。」
「まだ司法試験受かってないんだから、実際、そうだよね。」
妹は黙々と髪を乾かし始めた。ドライヤーのブオーという音に混じって妹が吐き捨てるのが聴こえた。
「私、思ったの。世の中にはこう、ランクみたいなのがあるなあって。だから、例えばAグループとBグループがあって、世間の評価ではAのほうがBよりいい、ってことになってるの。本当はAの最下位のやつよりBのトップのほうが実力があって頭もいいんだけど、世間の人から見たら、Bに入ってるっていうだけで、Aより下に見られるわけ。」
それは、小論文だけの推薦入試で医学部に入ったあなたよりも、がんばってセンター試験と六科目の二次試験を受けて実力で国立文系に入った私のほうが社会的地位と世間の評価が低いと言いたいわけね?と姉は喉まででかかった。それはあまりにも事実その通りだった。姉はやはり何も言えなかった。
「だからお姉ちゃんも早く試験受かりなよ。お姉ちゃん自分に自信がなさすぎだよ。」
妹はさらっと言った。まるで私はもうAグループまで行ったから、ほらほら早くこっちへ上がっておいで、と言われているような気がした。姉はまた涙が出そうになっていた。
私は選べなかったんじゃない、選ばなかったんだ!
そんなのは負け犬の台詞に違いなかった。最早どう転んでも情けない。だがそんな姿は妹には見せたくない。姉は口を開けた。自分でも予想もしなかった辛辣な言葉が次々と出た。
「あんたがなんでそんなに自分に自信を持っているのか本当にわかんないよ。」
妹は鏡の中自分をみて髪を乾かし続けている。
「あんたより可愛い人はいっぱいしるし、あんた頭も全然良くないやん。それは私と成績表をずっと比べ続けてきて、自分が一番よくわかってるでしょ?あなたはただずるいだけなのよ。それなのにどうして自分にそんなに自信を持っているの?ねえ?」
鏡の中妹が顔をしかめた。そして涙をぽろっと落とした。
「なんでそんなこというの?」
泣きやがった!
妹はポロポロと涙を落としながら綺麗に泣いていた。作り物のようだった。
「おねえちゃんは汚い。前はそんなことなかったのに。」
ずるい。私だって泣きたい。いやむしろ私のほうが泣く権利がある。実際に妹は深く考えないだけで、私とほとんど同じ境遇にあるのだ。妹だって今、私を見下しているじゃないか!でもそれは事実妹のほうが社会的地位が上だから咎められないとでも?
要するに妹の中で汚いのは私や私がバカにした女の子だけで、妹はいつもその他全ての「汚い」女の上に立ち、心は綺麗で、妹を貶めるものは全て「汚い」のだ。「汚い」人々が妹の心に触れて自分が汚れそうになった時は涙で洗い流す。恥もなく。一番卑怯なのは卑怯であることに目を瞑っていてしかもそれに気が付かない人間だ。それは我が妹であるように感じられた。なんだよその涙。なんなんだよ。まるで私が本当に汚いみたいじゃない!